スラム街の天使

「スアールについて知ることがどうしても仕事に必要ですか?」キムは不安そうな顔で念を押した。撮影がうまくいかなければ、キムにとっても都合が悪いと見えた。さらにキムは話を続けた。「ここだけの話ですが、依頼者から通訳以外のことは一切話さないように、と念を押されています。2日前に会ったばかりでほとんど何も知りません。彼女も自分のことは一切話しません。いったいどういうことをお知りになられたいのですか?」キムは窮地に追い込まれたように硬い表情で握りこぶしを作った。

 

「できれば年齢だけでも教えていただけませんか?」監督はキムの心情を押し計らって聞き出しやすい事柄から質問した。「年齢ですね、これはかまわないと思います。14歳です」キムは即座に返事した。「14歳ですか。スアールさんは化粧されているせいか、17、8歳かと思いました。日本では中学生に当たりますが、彼女はシンガポールの学校に通われているんですか?」キムはこれ以上話したくない表情をしたが、仕事と関係があれば問題ないと判断したらしく話を続けた。

 

「はい、シンガポールの学校です。彼女は英語とタガログ語を話します。彼女の私生活についてはまったくわかりませんが、非常に無口で人との会話を好みません。他には?」キムは開き直ったように話した。「いや、ちょっと気になったことがありまして、彼女はまったく笑顔を見せませんね、いつもこんな感じですか?」監督は最も気になっていた点を聞いてみた。「監督であれば気になられることですね、出会ってから一度も、私に笑顔を見せたことがありません。人を嫌っているようですね、笑顔を作らないと撮影ができませんか?」

「いや、できないことはありません、ただ、初めてなんです、あそこまで表情の無い少女を見たのは。日本の中学生は意味の無いことでもすぐに笑うんですよ。日本が豊かだからですかね。彼女は観光に来られたとお聞きしましたが、日本の少女を見られてびっくりしたでしょうね」監督は笑顔を見せない理由が生い立ちにあると思っているが、キムが生い立ちを聞き出していたとしても、そう簡単には口を割らないと思えた。

 

「実は、彼女は一切外出できません。彼女はある方から指示を受けているのです。彼女はある方のお供をしており、20日には上海に飛び立ちます。私は18日まで通訳及びボディーガードを任されています。とにかく、いい作品ができることを願っています。私にも責任がありますから」やはり、キムも責任を感じていた。話が進むにつれてますます少女の素性が気になってきた。

 

「つかぬ事を伺いますが、キムさんは一日中、彼女と一緒なのですか?」この様子を見ると、このマンションにはキムと少女しかいないと思えた。言い方を替えれば、キムは少女の監視役ということだ。「はい、私も18日まではこのマンションを出ることができません。通訳は当然ですが、このことが契約の第一条件なのです。10日間の辛抱と思っています」しかめっ面のキムの表情は、こんな仕事、引き受けなければ良かったと後悔しているような雰囲気をかもし出していた。

「それは、それは、責任重大なお仕事を引き受けられましたね。失礼ですが、キムさんは独身でいらっしゃいますか?」キムは意表を突かれたような表情を一瞬したが、素直に答えた。「はい、まだ独身です。できれば日本女性と結婚したいと思っています。少し、高望みでしょうか?ハハハ・・」キムの心は少しずつ開放的になってきた。外出できず、心は鬱積し、孤独になっていたところに、気が許せそうな監督に出会い気分がハイになった。

 

監督はしめたと思った。キムは話し好きで、本来、人がいい性格と判断した。しだいに、質問を浴びせかけても答えてくれるような雰囲気が出来上がってきた。「職業病ですかね~、どうも女性の私生活に関心が働きましてね、スアールさんはここでいつも何をされていらっしゃるんですか?まだ、中学生ですから学校の宿題とかですかね?」監督はほんの些細なことでもいいから、彼女のことを知りたかった。

 

キムは監督が気に入ったらしく、つい30分ぐらい前に訪問した時の警戒心がすっかり消えていた。ぽんっと膝を叩くと、さっと腰を上げ冷蔵庫に向かった。缶ビールを二本取り出すと、笑顔を作って戻ってきた。「今日は何か愉快です。監督と話ができてとても楽しい気分です。今夜は二人で飲み明かしましょう」テーブルに二本の缶ビールを置くと、缶のプルを引き開けた。一本を監督に手渡し「コンベ!」と缶ビールを監督の缶ビールに押し当てた。監督も真似て「コンベ~!」と笑顔で応えた。

「あ、先ほどの何をしているかですが、彼女の部屋には一度も入ったことがありません。このマンションは3LDKで私の部屋もあります。彼女と話す機会はまったくありません。食事も宅配の弁当を各自の部屋で食べます。時々、リビングにやってくることがありますが、冷蔵庫のジュースを飲むとすぐに部屋に戻ってしまいます。彼女のことは何もわかりません。それより、趣味の話でもしましょう。私の趣味はカラオケです。監督は?」キムは少女の話を避けようと話を替えてきた。

 

このような質問ではやはり口を割らないことに気づいた。監督は一口ビールを飲んで、しばらく考えた。キムは独身、しかも、外出できない状態で孤独だ。だから、人が恋しくなってたわいも無いことを話そうとしている。頭に稲妻のようなひらめきが脳裏に落ちた。と同時に、優希の笑顔が花火のように一瞬目の前に広がった。「趣味はお酒と女です。キムさんは女性のほうはいかがですか?」キムの欲求不満を利用する手を考え付いた。

 

「お酒は好きですが、女性は苦手です。だから、いまだ、独身と言うわけです。韓国女性より日本女性が好きになってしまいました。日本女性は美しくおしゃれで、知的で礼儀正しくて、とにかくいいです。でも、気が弱くて付き合うことができません。これは生まれつきの性格で情けないです。日本語もかなり自信ありますが、女性の前ではまったく声が出ません。女性恐怖症ですかね」キムは落ち込んだ声で話した。

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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