スラム街の天使

最初の言葉に戸惑ったが、勇気を振り絞って声をだした。「キムさんはどちらの大学を卒業なされましたか?とても日本語がお上手ですね。びっくりしました」キムは明るい笑顔をつくると得意げに話した。「ソウル大学です。専攻は国際法です。英語、日本語、ドイツ語、フランス語、中国語はある程度話せます。今、東京外国語大学でハングル語を教えています。あなたはどこですか?」やはり、キムは秀才であった。心の中でしめたと思った。

 

「慶応大学です。ご存知ですか?出来が悪くて英会話は苦手です。もっと英会話を勉強しておけば良かったと後悔しています。キムさんは通訳の仕事もなされているんですね」監督は答えやすい質問を続けた。「はい、通訳業の登録をしています。専門分野は法律及び政治経済の通訳ですが、今回、この少女の通訳を引き受けました。と言うのも、日当が平均の5倍もあるんです。これは余計なことでした」男は少女のボディーガードと聞いていたが、単なる通訳と言うことがわかり恐怖感は消えた。

 

「ところで、私の仕事のことになりますが、監督は女優の個性、私生活、生い立ちをある程度把握しないと、思った演技の指導ができません。本来ならば、スアールさんとじっくり会話したかったのですが、英会話が苦手なものでそれがかないませんでした。キムさんが話せる範囲で彼女のことを話していただけませんか?」監督は思い切って本題に踏み込んだ。キムはしばらく黙っていた。おそらく、彼はスアールから素性について何か聞きだしたと思われた。

「スアールについて知ることがどうしても仕事に必要ですか?」キムは不安そうな顔で念を押した。撮影がうまくいかなければ、キムにとっても都合が悪いと見えた。さらにキムは話を続けた。「ここだけの話ですが、依頼者から通訳以外のことは一切話さないように、と念を押されています。2日前に会ったばかりでほとんど何も知りません。彼女も自分のことは一切話しません。いったいどういうことをお知りになられたいのですか?」キムは窮地に追い込まれたように硬い表情で握りこぶしを作った。

 

「できれば年齢だけでも教えていただけませんか?」監督はキムの心情を押し計らって聞き出しやすい事柄から質問した。「年齢ですね、これはかまわないと思います。14歳です」キムは即座に返事した。「14歳ですか。スアールさんは化粧されているせいか、17、8歳かと思いました。日本では中学生に当たりますが、彼女はシンガポールの学校に通われているんですか?」キムはこれ以上話したくない表情をしたが、仕事と関係があれば問題ないと判断したらしく話を続けた。

 

「はい、シンガポールの学校です。彼女は英語とタガログ語を話します。彼女の私生活についてはまったくわかりませんが、非常に無口で人との会話を好みません。他には?」キムは開き直ったように話した。「いや、ちょっと気になったことがありまして、彼女はまったく笑顔を見せませんね、いつもこんな感じですか?」監督は最も気になっていた点を聞いてみた。「監督であれば気になられることですね、出会ってから一度も、私に笑顔を見せたことがありません。人を嫌っているようですね、笑顔を作らないと撮影ができませんか?」

「いや、できないことはありません、ただ、初めてなんです、あそこまで表情の無い少女を見たのは。日本の中学生は意味の無いことでもすぐに笑うんですよ。日本が豊かだからですかね。彼女は観光に来られたとお聞きしましたが、日本の少女を見られてびっくりしたでしょうね」監督は笑顔を見せない理由が生い立ちにあると思っているが、キムが生い立ちを聞き出していたとしても、そう簡単には口を割らないと思えた。

 

「実は、彼女は一切外出できません。彼女はある方から指示を受けているのです。彼女はある方のお供をしており、20日には上海に飛び立ちます。私は18日まで通訳及びボディーガードを任されています。とにかく、いい作品ができることを願っています。私にも責任がありますから」やはり、キムも責任を感じていた。話が進むにつれてますます少女の素性が気になってきた。

 

「つかぬ事を伺いますが、キムさんは一日中、彼女と一緒なのですか?」この様子を見ると、このマンションにはキムと少女しかいないと思えた。言い方を替えれば、キムは少女の監視役ということだ。「はい、私も18日まではこのマンションを出ることができません。通訳は当然ですが、このことが契約の第一条件なのです。10日間の辛抱と思っています」しかめっ面のキムの表情は、こんな仕事、引き受けなければ良かったと後悔しているような雰囲気をかもし出していた。

「それは、それは、責任重大なお仕事を引き受けられましたね。失礼ですが、キムさんは独身でいらっしゃいますか?」キムは意表を突かれたような表情を一瞬したが、素直に答えた。「はい、まだ独身です。できれば日本女性と結婚したいと思っています。少し、高望みでしょうか?ハハハ・・」キムの心は少しずつ開放的になってきた。外出できず、心は鬱積し、孤独になっていたところに、気が許せそうな監督に出会い気分がハイになった。

 

監督はしめたと思った。キムは話し好きで、本来、人がいい性格と判断した。しだいに、質問を浴びせかけても答えてくれるような雰囲気が出来上がってきた。「職業病ですかね~、どうも女性の私生活に関心が働きましてね、スアールさんはここでいつも何をされていらっしゃるんですか?まだ、中学生ですから学校の宿題とかですかね?」監督はほんの些細なことでもいいから、彼女のことを知りたかった。

 

キムは監督が気に入ったらしく、つい30分ぐらい前に訪問した時の警戒心がすっかり消えていた。ぽんっと膝を叩くと、さっと腰を上げ冷蔵庫に向かった。缶ビールを二本取り出すと、笑顔を作って戻ってきた。「今日は何か愉快です。監督と話ができてとても楽しい気分です。今夜は二人で飲み明かしましょう」テーブルに二本の缶ビールを置くと、缶のプルを引き開けた。一本を監督に手渡し「コンベ!」と缶ビールを監督の缶ビールに押し当てた。監督も真似て「コンベ~!」と笑顔で応えた。

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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