スラム街の天使

20階建ての高層マンションの玄関右手に立つと805をプッシュし確認を取った。自動ドアが開くと左手に二つエレベーターがあり、手前のエレベーターは待機状態であった。エレベーターに乗り込むと8をプッシュした。降りてプレートの番号を確認しながら左手に歩いていくと805が現れた。ドアの前で時間を確認すると午後7時57分であった。インターホンを押すとロック解除の小さな金属音が鳴った。

 

ドアを開けると正面にグレーの背広を着た中年の口ひげを生やした男が立っていた。監督は硬い頬を緩めて挨拶すると男も笑顔を作った。「はじめまして、近藤ヒカルと申します。よろしくお願いします」監督は名刺を内ポケットから取り出すと左手を添えて男に手渡した。男は名刺を受け取ると一瞥して中に案内した。監督がブルーのスリッパに履き替え男の後について廊下を歩くと、20畳ほどのリビングが目の前に現れた。

 

リビングの中心に構えた茶色のレザーソファーの横にはショートパンツの少女が立っていた。少女は黙って監督を見つめた。背丈は約165センチ、バランスは9頭身、脚は細くて日本人にはない脚の長さ、髪は黒く長さは肩下約15センチ、肌は色白、顔は彫りが深く彫刻的美形、特に鼻が高く、眼が大きい、胸は小さめ、監督はすばやく少女を分析した。少女は化粧をしているため大人っぽく見えるが、直感では14、5歳と判断した。

 

男は監督をソファーに腰掛けさせると少女を正面に腰かけさせた。少女は一言もしゃべらず、笑顔も見せなかった。監督は少女に何から話し始めればいいかわからなかった。英会話は苦手で口が動かなかった。男は見かねて、低い声で話し始めた。「スアールは英語しか話せない。必要な指示は私がします。私に言っていただければ私が指示します。少女はどんな指示にも従います。撮影の日時を決めてください。必要な準備があれば何でも言ってください」男は流暢に日本語を話した。

 

監督は電子手帳を取り出し、10月14日、10時より撮影開始と予定を告げた。男は携帯に打ち込むと頷いた。男は何か準備することはないかと聞いたので、すべての準備はこちらでするが、少女が使いたい衣装があればそれも着用可と伝えた。小さな仕事であるため、頭の中で撮影の段取りはすでに出来上がっていた。気になったのは、少女にまったく笑顔がないことであった。笑顔がなくとも撮影は可能だが、アンナがうまくリードしてくれるかが心配になった。

 

監督にとって始めて見る顔であった。彫刻のような美貌ではあるが、蝋人形のようで気味が悪かった。まったく、少女らしさがなく、感情のない死人のような雰囲気をかもし出していた。少女はどんな指示にも従うと男は言ったが、演技は本人の感情でやるものなのだ。果たして、仮面のような顔でどんな表情を作り出すのだろうかとますます不安になった。アンナまで固まってしまっては理想の作品はできない。

 

少女にレズができるか確認してもらうことにした。レズができるかどうか訊ねてほしいと男に伝えると英語で少女に話しかけた。「You have to play lesbian.」男は指示するように言った。蝋人形のような少女は頷いた。不安は払拭できなかったが、どうにか撮影はできると判断しほっとした。しかし、笑顔のない少女の作品が認められず、つき返されるようなことになれば、どう対処すればいいか恐怖が襲ってきた。この少女を操っているのはマフィアではないかと心が叫んだからだ。

 

今まで多くの素人を使って撮影をしたが、このように感情が消滅してしまった表情の少女は初めてであり、どのようにして笑顔を作らせればいいのか、いい方法が浮かばなかった。この少女とかかわるのはアンナと監督だけである。アンナが固まってしまったら、監督はどんな指示を二人に与えればいいのかまったく思い浮かばなかった。しばらく考え込んでいると男は少女に指示を出した。「Why don’t you leave here?」少女は一言もしゃべらず、幽霊のように無表情のままリビングを出て行った。

 

監督は少女の生い立ちについて知りたかった。質問しても答えてくれないことを覚悟で、じんわり聞くことにした。男は用件が済めばさっさと引き上げろと言わんばかりの目つきをしたが、監督は腰を上げる気にならなかった。もし、この男もマフィアの一員であればいかなる質問にも警戒するはずだ。この場を和らげる方法はないかと必死に頭をめぐらした。通訳であり、顔立ちからして、この男はきっと秀才に違いない。とにかく、この男をおだてる作戦に出た。

最初の言葉に戸惑ったが、勇気を振り絞って声をだした。「キムさんはどちらの大学を卒業なされましたか?とても日本語がお上手ですね。びっくりしました」キムは明るい笑顔をつくると得意げに話した。「ソウル大学です。専攻は国際法です。英語、日本語、ドイツ語、フランス語、中国語はある程度話せます。今、東京外国語大学でハングル語を教えています。あなたはどこですか?」やはり、キムは秀才であった。心の中でしめたと思った。

 

「慶応大学です。ご存知ですか?出来が悪くて英会話は苦手です。もっと英会話を勉強しておけば良かったと後悔しています。キムさんは通訳の仕事もなされているんですね」監督は答えやすい質問を続けた。「はい、通訳業の登録をしています。専門分野は法律及び政治経済の通訳ですが、今回、この少女の通訳を引き受けました。と言うのも、日当が平均の5倍もあるんです。これは余計なことでした」男は少女のボディーガードと聞いていたが、単なる通訳と言うことがわかり恐怖感は消えた。

 

「ところで、私の仕事のことになりますが、監督は女優の個性、私生活、生い立ちをある程度把握しないと、思った演技の指導ができません。本来ならば、スアールさんとじっくり会話したかったのですが、英会話が苦手なものでそれがかないませんでした。キムさんが話せる範囲で彼女のことを話していただけませんか?」監督は思い切って本題に踏み込んだ。キムはしばらく黙っていた。おそらく、彼はスアールから素性について何か聞きだしたと思われた。

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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