スラム街の天使

早速、自宅マンションに帰った監督は書斎で心を落ち着けると仕事の流れを考えた。この仕事に参加するメンバーは自分を除いて、タチのアンナ、ネコの少女、それにボディーガードの通訳ということになる。アンナには後で説明をすることにし、監督はボディーガードに連絡を取ることにした。登録した番号をプッシュすると訛りのある中年の声が出た。

 

監督は一瞬言葉に詰まったが、撮影の依頼の件を話し始めた。「突然、申し訳ありません。私、コスモムービーの近藤ヒカルと申します。今、お時間よろしいですか?」男の「はい」と言う声を聞くと監督は話を続けた。「今回、スアール様の撮影の件で打ち合わせをいたしたいのですが、お時間をとっていただけませんか?」監督が仕事の話を切り出すと、男は当然のように場所と日時を指定してきた。場所は所沢市にあるマンション、グランパールⅢ805、日時は10月11日、午後8時、と予定していたように即座に答えた。男に了解の返事をすると、もう一度男の名前を確認した。男は低い声でキムと言った。

 

作品は思っていたより小さなものだったので、一日の撮影で問題ないと判断した。セッッティング、メイク、打ち合わせ、リハーサル、3パターンの撮影、取り直しを考えても8時間あれば足りると判断した。監督は一刻も早く少女に会いたかった。この撮影はどちらかと言えば易しいし、アンナもレズ物は得意であったから気は楽であった。だが、英語しか分からない少女とのコミュニケーションが少し不安であった。

 

20階建ての高層マンションの玄関右手に立つと805をプッシュし確認を取った。自動ドアが開くと左手に二つエレベーターがあり、手前のエレベーターは待機状態であった。エレベーターに乗り込むと8をプッシュした。降りてプレートの番号を確認しながら左手に歩いていくと805が現れた。ドアの前で時間を確認すると午後7時57分であった。インターホンを押すとロック解除の小さな金属音が鳴った。

 

ドアを開けると正面にグレーの背広を着た中年の口ひげを生やした男が立っていた。監督は硬い頬を緩めて挨拶すると男も笑顔を作った。「はじめまして、近藤ヒカルと申します。よろしくお願いします」監督は名刺を内ポケットから取り出すと左手を添えて男に手渡した。男は名刺を受け取ると一瞥して中に案内した。監督がブルーのスリッパに履き替え男の後について廊下を歩くと、20畳ほどのリビングが目の前に現れた。

 

リビングの中心に構えた茶色のレザーソファーの横にはショートパンツの少女が立っていた。少女は黙って監督を見つめた。背丈は約165センチ、バランスは9頭身、脚は細くて日本人にはない脚の長さ、髪は黒く長さは肩下約15センチ、肌は色白、顔は彫りが深く彫刻的美形、特に鼻が高く、眼が大きい、胸は小さめ、監督はすばやく少女を分析した。少女は化粧をしているため大人っぽく見えるが、直感では14、5歳と判断した。

 

男は監督をソファーに腰掛けさせると少女を正面に腰かけさせた。少女は一言もしゃべらず、笑顔も見せなかった。監督は少女に何から話し始めればいいかわからなかった。英会話は苦手で口が動かなかった。男は見かねて、低い声で話し始めた。「スアールは英語しか話せない。必要な指示は私がします。私に言っていただければ私が指示します。少女はどんな指示にも従います。撮影の日時を決めてください。必要な準備があれば何でも言ってください」男は流暢に日本語を話した。

 

監督は電子手帳を取り出し、10月14日、10時より撮影開始と予定を告げた。男は携帯に打ち込むと頷いた。男は何か準備することはないかと聞いたので、すべての準備はこちらでするが、少女が使いたい衣装があればそれも着用可と伝えた。小さな仕事であるため、頭の中で撮影の段取りはすでに出来上がっていた。気になったのは、少女にまったく笑顔がないことであった。笑顔がなくとも撮影は可能だが、アンナがうまくリードしてくれるかが心配になった。

 

監督にとって始めて見る顔であった。彫刻のような美貌ではあるが、蝋人形のようで気味が悪かった。まったく、少女らしさがなく、感情のない死人のような雰囲気をかもし出していた。少女はどんな指示にも従うと男は言ったが、演技は本人の感情でやるものなのだ。果たして、仮面のような顔でどんな表情を作り出すのだろうかとますます不安になった。アンナまで固まってしまっては理想の作品はできない。

 

少女にレズができるか確認してもらうことにした。レズができるかどうか訊ねてほしいと男に伝えると英語で少女に話しかけた。「You have to play lesbian.」男は指示するように言った。蝋人形のような少女は頷いた。不安は払拭できなかったが、どうにか撮影はできると判断しほっとした。しかし、笑顔のない少女の作品が認められず、つき返されるようなことになれば、どう対処すればいいか恐怖が襲ってきた。この少女を操っているのはマフィアではないかと心が叫んだからだ。

 

今まで多くの素人を使って撮影をしたが、このように感情が消滅してしまった表情の少女は初めてであり、どのようにして笑顔を作らせればいいのか、いい方法が浮かばなかった。この少女とかかわるのはアンナと監督だけである。アンナが固まってしまったら、監督はどんな指示を二人に与えればいいのかまったく思い浮かばなかった。しばらく考え込んでいると男は少女に指示を出した。「Why don’t you leave here?」少女は一言もしゃべらず、幽霊のように無表情のままリビングを出て行った。

 

監督は少女の生い立ちについて知りたかった。質問しても答えてくれないことを覚悟で、じんわり聞くことにした。男は用件が済めばさっさと引き上げろと言わんばかりの目つきをしたが、監督は腰を上げる気にならなかった。もし、この男もマフィアの一員であればいかなる質問にも警戒するはずだ。この場を和らげる方法はないかと必死に頭をめぐらした。通訳であり、顔立ちからして、この男はきっと秀才に違いない。とにかく、この男をおだてる作戦に出た。

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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