スラム街の天使

監督はしばらく黙って考えていた。「この少女に関して他に何か?」社長は膝を叩いて思い出したように付け加えた。「少女にはボディーガードがいてな、そう、撮影は少女のマンションで必ずやるようにと念を押された。それと、この件は絶対に他言しないように、撮影は監督直々に極秘にやるようにとも念を押された」社長の額から脂汗が出始めた。監督は大事件を始めて聞いたかのように大きな眼をパチクリさせた。

 

「少女のマンションで、極秘ですね、わかりました。いったい、ビデオを何に使う気ですかね?」監督は社長の顔を覗いた。社長は面食らった顔で「わしに聞かれてもな~」と肩を落とした。「とにかくやりましょう。タチはアンナ、ネコが少女ということで。社長の面子ってものがありますからね、まかしてください」監督は握りこぶしを作った。「そうか、これで安心だ、頼むよ!」笑顔になったブルドッグの頬が少し紅潮した。

 

監督は携帯を取り出すと10月のスケジュールを確認した。「そうだ、少女のマンションの住所と電話番号を教えていただけますか?」監督が尋ねると社長は胸ポケットから電子手帳を取り出し少女の項目を呼び出した。監督はマンションの住所、ボディーガードの電話番号を携帯に打ち込んだ。「仕事に関して、すべてボディーガードを通すわけですね、このボディーガード、日本語がわかりますか?」監督は確認した。「彼は通訳も兼ねているそうだ。そういうことだ、よろしく頼む」社長は新しい葉巻に火をつけた。

 

早速、自宅マンションに帰った監督は書斎で心を落ち着けると仕事の流れを考えた。この仕事に参加するメンバーは自分を除いて、タチのアンナ、ネコの少女、それにボディーガードの通訳ということになる。アンナには後で説明をすることにし、監督はボディーガードに連絡を取ることにした。登録した番号をプッシュすると訛りのある中年の声が出た。

 

監督は一瞬言葉に詰まったが、撮影の依頼の件を話し始めた。「突然、申し訳ありません。私、コスモムービーの近藤ヒカルと申します。今、お時間よろしいですか?」男の「はい」と言う声を聞くと監督は話を続けた。「今回、スアール様の撮影の件で打ち合わせをいたしたいのですが、お時間をとっていただけませんか?」監督が仕事の話を切り出すと、男は当然のように場所と日時を指定してきた。場所は所沢市にあるマンション、グランパールⅢ805、日時は10月11日、午後8時、と予定していたように即座に答えた。男に了解の返事をすると、もう一度男の名前を確認した。男は低い声でキムと言った。

 

作品は思っていたより小さなものだったので、一日の撮影で問題ないと判断した。セッッティング、メイク、打ち合わせ、リハーサル、3パターンの撮影、取り直しを考えても8時間あれば足りると判断した。監督は一刻も早く少女に会いたかった。この撮影はどちらかと言えば易しいし、アンナもレズ物は得意であったから気は楽であった。だが、英語しか分からない少女とのコミュニケーションが少し不安であった。

 

20階建ての高層マンションの玄関右手に立つと805をプッシュし確認を取った。自動ドアが開くと左手に二つエレベーターがあり、手前のエレベーターは待機状態であった。エレベーターに乗り込むと8をプッシュした。降りてプレートの番号を確認しながら左手に歩いていくと805が現れた。ドアの前で時間を確認すると午後7時57分であった。インターホンを押すとロック解除の小さな金属音が鳴った。

 

ドアを開けると正面にグレーの背広を着た中年の口ひげを生やした男が立っていた。監督は硬い頬を緩めて挨拶すると男も笑顔を作った。「はじめまして、近藤ヒカルと申します。よろしくお願いします」監督は名刺を内ポケットから取り出すと左手を添えて男に手渡した。男は名刺を受け取ると一瞥して中に案内した。監督がブルーのスリッパに履き替え男の後について廊下を歩くと、20畳ほどのリビングが目の前に現れた。

 

リビングの中心に構えた茶色のレザーソファーの横にはショートパンツの少女が立っていた。少女は黙って監督を見つめた。背丈は約165センチ、バランスは9頭身、脚は細くて日本人にはない脚の長さ、髪は黒く長さは肩下約15センチ、肌は色白、顔は彫りが深く彫刻的美形、特に鼻が高く、眼が大きい、胸は小さめ、監督はすばやく少女を分析した。少女は化粧をしているため大人っぽく見えるが、直感では14、5歳と判断した。

 

男は監督をソファーに腰掛けさせると少女を正面に腰かけさせた。少女は一言もしゃべらず、笑顔も見せなかった。監督は少女に何から話し始めればいいかわからなかった。英会話は苦手で口が動かなかった。男は見かねて、低い声で話し始めた。「スアールは英語しか話せない。必要な指示は私がします。私に言っていただければ私が指示します。少女はどんな指示にも従います。撮影の日時を決めてください。必要な準備があれば何でも言ってください」男は流暢に日本語を話した。

 

監督は電子手帳を取り出し、10月14日、10時より撮影開始と予定を告げた。男は携帯に打ち込むと頷いた。男は何か準備することはないかと聞いたので、すべての準備はこちらでするが、少女が使いたい衣装があればそれも着用可と伝えた。小さな仕事であるため、頭の中で撮影の段取りはすでに出来上がっていた。気になったのは、少女にまったく笑顔がないことであった。笑顔がなくとも撮影は可能だが、アンナがうまくリードしてくれるかが心配になった。

 

監督にとって始めて見る顔であった。彫刻のような美貌ではあるが、蝋人形のようで気味が悪かった。まったく、少女らしさがなく、感情のない死人のような雰囲気をかもし出していた。少女はどんな指示にも従うと男は言ったが、演技は本人の感情でやるものなのだ。果たして、仮面のような顔でどんな表情を作り出すのだろうかとますます不安になった。アンナまで固まってしまっては理想の作品はできない。

 

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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