スラム街の天使

笑顔の無い少女

 

 10月9日、東京から京都までの「寝台列車不倫旅」の撮影を昨日終えたヒカル監督は、朝早く一人でホテルを出た。スタッフ、男優、女優たちと一緒に10時37分の京都発新幹線ひかり28号に乗ることになっていたが、予定を変更して一足先に事務所に戻ることにした。と言うのは、真夜中に社長から極秘の指示を受けたからだ。別に急を要する用件ではなかったが、前例のない社長直々の依頼だったため、直接社長と会って詳しい事情を聞きたかった。

 

 一番ホームに到着したひかり34号、7時14分に乗り込むと窓際の席に腰かけ、じっと眼を閉じた。しばらくすると昨夜の社長の声がよみがえってきた。話は単純な内容であった。大手のスポンサーの依頼でシンガポールの少女を使ってレズ物を一本制作してほしいとのことだった。しかも、出来上がった作品は誰にも試写させることなく、即座に、直接監督が社長のところに持ってくるようにとのことだ。彼女の観光ビザは今月の20日までだから、遅くとも17日までに届けるようにとの指示だった。

 

仕事の内容は別段難しいことではない。しかし、このような仕事は初めてであり、なぜ、社長が直々電話をしてきたのか不思議であった。この少女はいったい何者なのだろうと言う疑問が昨夜から頭から離れなかった。少女は英語が分かると言うことだが、演技の指示が万が一うまくいかなければ、女優の優希を使うことを密かに考えた。彼女は英会話が得意で、監督の右腕ともいえる懐刀だ。

東京駅に到着するとタクシーで渋谷に向かった。18階建てのブルーツインビルのエレベーターに飛び乗ると11のボタンをプッシュした。11階のほとんどを占めているコスモムービーコーポレーションの受付に挨拶するや、社長室のドアをノックした。社長は約束通り在室していた。いつものようにデスクで葉巻を吸っていた。「やあ~」と監督に声をかけると席から腰を上げ、デスクの正面にあるワインレッドのソファーに向かって疲れた表情を見せて歩き始めた。

 

監督に腰かけるように手招きするとブルドッグのような頬を震わせ「無理を言ってすまん」と一言つぶやいた。監督は仕事の依頼に関してはまったく気にしていなかった。気になっているのは少女の素性だ。「社長、その少女って何歳ですか?それと名前は?」監督は体格とか容姿よりも年齢が気になっていた。「名前は・・あ、そう、スアール、年齢はわからん。コロナ商事の社長秘書からの話でな、とにかくレズ物を一本制作してほしいと依頼があった。時間は20分程度のもので、特に、少女の顔、スタイルをしっかりアピールしてほしいとのことだ。驚くことに、この程度の作品に300万円も支払うそうだ」

 

「へ~、それはありがたいです。しかし、何か胡散臭くありませんかね~、確実に購入してくれるとわかれば気合を入れて制作しますが、トラブルに巻き込まれるようなことはありませんかね~、この少女はいったい何者ですか?コロナ商事とは直接関係ないように思うのですが・・」監督は高額な報酬にますます胡散臭く感じた。「君もそう思うか、わしも不思議に思っているんじゃよ。この少女を操っているのはいったい誰なのか?コロナ商事とは直接関係ない組織じゃないかと思うのだが」社長も気持ちがすっきりしなかった。

 

監督はしばらく黙って考えていた。「この少女に関して他に何か?」社長は膝を叩いて思い出したように付け加えた。「少女にはボディーガードがいてな、そう、撮影は少女のマンションで必ずやるようにと念を押された。それと、この件は絶対に他言しないように、撮影は監督直々に極秘にやるようにとも念を押された」社長の額から脂汗が出始めた。監督は大事件を始めて聞いたかのように大きな眼をパチクリさせた。

 

「少女のマンションで、極秘ですね、わかりました。いったい、ビデオを何に使う気ですかね?」監督は社長の顔を覗いた。社長は面食らった顔で「わしに聞かれてもな~」と肩を落とした。「とにかくやりましょう。タチはアンナ、ネコが少女ということで。社長の面子ってものがありますからね、まかしてください」監督は握りこぶしを作った。「そうか、これで安心だ、頼むよ!」笑顔になったブルドッグの頬が少し紅潮した。

 

監督は携帯を取り出すと10月のスケジュールを確認した。「そうだ、少女のマンションの住所と電話番号を教えていただけますか?」監督が尋ねると社長は胸ポケットから電子手帳を取り出し少女の項目を呼び出した。監督はマンションの住所、ボディーガードの電話番号を携帯に打ち込んだ。「仕事に関して、すべてボディーガードを通すわけですね、このボディーガード、日本語がわかりますか?」監督は確認した。「彼は通訳も兼ねているそうだ。そういうことだ、よろしく頼む」社長は新しい葉巻に火をつけた。

 

早速、自宅マンションに帰った監督は書斎で心を落ち着けると仕事の流れを考えた。この仕事に参加するメンバーは自分を除いて、タチのアンナ、ネコの少女、それにボディーガードの通訳ということになる。アンナには後で説明をすることにし、監督はボディーガードに連絡を取ることにした。登録した番号をプッシュすると訛りのある中年の声が出た。

 

監督は一瞬言葉に詰まったが、撮影の依頼の件を話し始めた。「突然、申し訳ありません。私、コスモムービーの近藤ヒカルと申します。今、お時間よろしいですか?」男の「はい」と言う声を聞くと監督は話を続けた。「今回、スアール様の撮影の件で打ち合わせをいたしたいのですが、お時間をとっていただけませんか?」監督が仕事の話を切り出すと、男は当然のように場所と日時を指定してきた。場所は所沢市にあるマンション、グランパールⅢ805、日時は10月11日、午後8時、と予定していたように即座に答えた。男に了解の返事をすると、もう一度男の名前を確認した。男は低い声でキムと言った。

 

作品は思っていたより小さなものだったので、一日の撮影で問題ないと判断した。セッッティング、メイク、打ち合わせ、リハーサル、3パターンの撮影、取り直しを考えても8時間あれば足りると判断した。監督は一刻も早く少女に会いたかった。この撮影はどちらかと言えば易しいし、アンナもレズ物は得意であったから気は楽であった。だが、英語しか分からない少女とのコミュニケーションが少し不安であった。

 

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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