M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2

六章 : 仙台の僕( 17 / 18 )

86.限界と言われて…

 

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 5月になって、僕の体重はさらに落ちてきた。発病してから、もう1年。

 

 お父さんとお母さんは、がんばっていた。僕のリュウドウショク作りと、スプーンでの食事を二人でやっていた。

 

 僕も、がんばっていた。リュウドウショクをこぼさずに飲もうと、お父さんと動きを合わせた。でも、いつもこぼしてしまう。お母さんは、お肉とか、ミルクとか、流動食のカロリーを上げようと頑張って作ってくれた。でも、僕にはおいしいとは分からなかった。僕は元気だった時には、生のお肉が大好きで、家の食事がステーキだったら、もう匂いだけで、ヨダが垂れていた。でも、流動食にはヨダは垂れない。

 

 体重はジワジワと下がって、5月には6キロまで落ち込んでいた。伊豆で、一番元気だったころ、7.8キロもあったのだから、うんと痩せてしまったわけだ。僕は、少し体が思うようには歩けなくなっていた。フラフラするのだ。痛いとは感じていなかったけど。

 

 吐血の回数が多くなっていった。痛くはないけれど、血の匂いがするから、僕には分かるのだ。お父さんは、いっしょうけんめい、タオルを濡らして拭いてくれるけれど、もう口だけではなくて、鼻の上の方にできた傷口からも血は流れて、僕のいる場所を血だらけにした。でも、何とか、抱っこされながら、ウンチとおしっこには出かけていた。

 

 吐血すると、お父さんかお母さんが、八木山の伊藤先生のところまで、僕を連れて行く。先生も、いい方法があるわけではないようだ。

 

 こんなことを繰り返していたら、ある日、伊藤先生から、もうチェルト君は限界かもしれないとお父さん達は言われてしまった。もうこれだけ頑張ったのだから、楽にして上げてもいいんじゃないですかと言われたようだ。そう、先生は最初、3か月か6か月でしょうと言っていたから、1年以上頑張っているから、もう無理をさせないで休ませてあげるのがいいのでは…と言ったわけ。

 

 お父さんは、僕のお葬式のことを考え始めていた。マンションの犬で、亡くなった人のところに、お葬式の話を聞きに行ったりしていた。

 

 7月になると、体重はもっと減って、6キロより軽くなった。今度吐血が来たら、休ませてあげましょうと、伊藤先生は、優しく、でも厳しくお父さんとお母さんに言った。

 

 次の吐血が来た時、伊藤先生に電話したら、他の患者のワンちゃんの居ない時間を指定された。僕は、いつものように、優しい看護婦さんと、と患者の他のワンちゃんたちに会えると思って、少しうれしくなって、お父さんに抱かれてスバルに乗った。お母さんは、大きな白い、僕の好きなトートバッグを持っていた。

 

 伊藤先生の所に着くと先生は、では始めますと言って、僕の右の前足に包帯を巻いて、僕の血管に注射針をセットした。

 

 抱いててあげてください。決して苦しんだりはしないから…。僕は抱かれたまま、大きな注射器がその針に付けられるのを見ていた。僕は今までも、注射器はぜんぜん怖くはなかったから平気でいた。

 

 

 先生の手が動いて、注射器の中の薬が僕の腕に入った。痛くもなんともなかった。急に、眠くなった。もう眼を開けてはいられなかった。僕は抱かれながら、深い深い眠りの中に落ちていった。

 

 帰り、僕の好きなトートバッグの中に入れられて、僕は眠りつづけていた。

 

 お父さんが持つバッグの中の僕は、少しずつ冷たくなっていったようだ。

 

 マンションに帰ってきたとき、まだ少し温かかったようだ。お母さんは泣いて僕をなでていた。

 

 これが僕の天国への旅立ちだった。

 

 次の朝には、犬の葬儀屋さんが来て、僕の大好きなオモチャたちみんなと、忘れてはならない僕の相棒だったワニさんと一緒に、段ボールのお棺に、花につつまれてマンションを出た。

 

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 僕は、マンションに帰ってきた時、小さな壺に、骨の粉末になって入っていた。

 

 もうこれで、直接、撫でてもらうことも、一緒に歩いてお散歩もできないチェルトの骨になってしまったわけだ。

 

 

<天国への階段(A stairway to paradise)は、flickrからClaraDon さんの絵をお借りしました>

 

六章 : 仙台の僕( 18 / 18 )

87.散骨 天国からの見守り

 

 

87.散骨 天国からの見守り

 

 

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 僕がチックンで永遠の眠りについて、天国に駆け登ってからの話をしておこう。

 

 粉末になった僕は、葬儀屋さんにきれいな白い袋に入れられて、ラピュタのお父さんとお母さんのところに次の日の朝、戻ってきた。そして、リビングのテレビの横、どこからでも見られるところに置かれた。ちょうど僕が陣地にしていたソファの正面だ。

 

 お父さんより、お母さんのほうが疲れているように見えた。もちろん二人とも、元気がなかった。そして、二人は話もほとんどしていなかった。静かだった。

 

 二人の一日も変わったようだ。

 

 朝のお母さんの僕のお散歩がなくなり、午後のお父さんとのお散歩もなくなったのだから、時間が長くなったようだ。それに、お母さんは、僕の最後の頃、一日に3度も僕のリュウドウショクを作り、それをお父さんは僕にスプーンで3回飲ませていたのも無くなった。これで、さらに時間が長くなった。僕に関わる時間が、全てカラになったのだ。

 

 僕は天国から二人を見ていた。

 

 最初に、いわゆるペットロスの症状が出たのはお母さん。一日中、何にも云わないで、ガーデンデッキに出るのがやっとで、元気がなくなった。お買い物にも、やっと行っているって感じだった。

 

 お父さんも、無口になっていった。

 

 お父さんは、最初のシュナウ、アンナの死を経験していたけれど、その時は、いそがしい仕事とか子供達とかで、気分的には解放されていたのだろう、アンナの死から。でも今度は心臓に病気を持ってて、カウンセラーの仕事も、ボランティアの仕事も、イタリア語サークルも、オルネッラさんも居なくなって、その上に、僕がいなくなってつまんなくなっていた。ちょっとPCで遊ぶくらいしか、自分の時間を作り出せていなかったのだ。

 

 お母さんが、パニック障害と診断されたのは仙台のある心療内科。精神安定剤が必要だった。お父さんも、東北大学の心療内科で、軽いうつ状態と診断された。父さんは心臓の薬に加えて、精神安定剤のデパスと抗うつ薬のパキシルを服用し始めた。そんなふうに、僕のいないラピュタF106は、暗い洞窟のように見えた。

 

 僕が前に、ちょっと心配していたようになってしまっていた。以前、僕がお父さんとお母さん、二人の会話を奪っているんじゃないかとつぶやいたことがあるけれど、本当にそんなふうな時間と空気が家の中じゅうに垂れ込めていた。僕なしでは、二人の会話は弾まなかった。必要なことだけ事務的に話していて、二人とも変だった。僕、チェルトが二人の共通の話題にならなかったからだろう。

 

 お父さんは薬のせいか、元気がなく、リビングの隣の6畳の部屋に折り畳みベッドを入れて、お昼間も横になるようになっていた。お散歩なんてしていなかったし、できなかった。お母さんも、一人で北の自分の部屋にこもることが多くなっていった。二人の間には会話がなかった。僕はまずいな…と、天国から見ていたけれど、どうにもできない。

 

 最初に頑張り始めたのは、お父さん。僕が天国に行って2年位たった頃、東京の友達からどうしているって電話が来て、お父さんは、とにかくガンバって東京に出てくると東北新幹線で出かけた。お父さんにとっては、仙台に引っ越してから、これが初めての東京へのお出かけだった。そんなことができなかったのは、みんな僕がいたからなんだけど…。

 

 でもこの秋の東京行が、その後のお父さん、お母さん、二人のいさかいの切っ掛けになった。お母さんは、お父さんが初恋の人(ほかの人と結婚している奥様)に会いに行ったんじゃないだろうかと考えたようだ。お父さんは、そんなの言いがかりだと怒り始めた。二人の間には、素直な会話が消えていった。非難、ののしりあいにしかならなくなった。こんな二人を僕は見たことがなかった。悲しかった。

 

 お母さんがふいに、一人で横浜の教会に戻って行った。ちょうど、クリスマスの時期だった。僕も何度も会ったことのある横浜の牧師さんの勧めもあったようだ。帰る予定のわからない横浜行に、お父さんは怒った。お母さんに、マンションの鍵を置いていけと言った。

 

 と同時に、僕の骨を散骨すると言った。それまで2年以上リビングにいた僕を、お母さんが横浜に行く前に、自由にしてやろうとお父さんが一人で決めた。リビングにあった僕の骨の粉末は、僕のお散歩場だった葛岡墓地公園の動物慰霊塔に二人で散骨された。だから、もう僕は、二人の近くにいることは無くなった。

 

 雪の降りだした葛岡駅で、横浜に行くお母さんをお父さんは見送って、ラピュタに一人で帰って行った。それが、お別れだとお父さんは思っていたようだ。

 

 でも、年末ぎりぎりになって、お母さんはふいに横浜の牧師さんに伴われて、ラピュタに姿を現した。お父さんは驚いていた。もう別れたと思っていたようだから。

 

結局、お父さんとお母さんは、家庭裁判所の調停を受けたり、お母さんは東北大学の心理学科のカウンセリングを受けたりしながら、永い、永いいさかいの上、別れてしまった。そして、一人一人、別々に横浜に帰っていってしまった。

 

 お父さんは、二人を結びつけて、幸せを作ってくれたのは僕、チェルト君だと結論づけたようだ。僕を真ん中にして、お父さんはお母さんと話し、笑い、一緒に行動していたのだと考えたのだ。二人の間から、僕がいなくなって、二人が共有するもののなさに、初めてお母さんも気がついたようだ。前に、僕が心配していた通りのことが、現実になったわけだ。

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 僕のほうは、天国で、後から来たアンナちゃんや、ねこのミーシャやボニー、セロちゃんなんかと楽しく遊んでいるから、みなさん、ご心配なく。

 

僕の生まれてからの「ひとりごと」は、これで終わりです。僕の長いひとりごとをきいてくれて、どうもありがとう。でも、くれぐれも、犬に頼らない家庭を作ってくださいね!

 

さようなら。

ミニチュア・シュナウザーのチェルトより。

 

 

 

<慰霊塔の写真は、flickrから晴耕雨読さんの“ペット慰霊塔”をお借りしました>

 

"クリエイティブ・コモンズ・ライセンス" の 表示 2.1 日本 です

特別寄稿( 1 / 1 )

M.シュナウザー犬、チェルト君とワニさん

 

 僕んちには、僕にとって3頭目のM.シュナウザー犬のチェルト君がいる。

 

 M.シュナウザーとの付き合いは、今からざっと30年前、アンナ(メス)との出会いに始まる。当時、まだ日本に3,000頭位しか入っていないマイナーな犬種で、活発で、元気なよく吠える、でも賢い犬だった。

 誰にも相談せず、突然僕がもらってきた。下の娘が生まれたばかりだったから、かみさんは大変。手のかかる赤ん坊が一度に二人になったわけだ。けれどいつのまにか、アンナはそのかわいらしさで皆の世界の中に深く入り込んでいた。郵便屋さんに噛み付いたり、野菜売りのおばさんを追っ払ったり、いろんなことがあって、でも19年間(人間でいうと90歳くらい)まで、下の子供と一緒に立派に生きてくれた。

 

 彼女がこの世を去った朝のことを、今も忘れていない。早朝、隣室で寝ていた僕の耳に、小さく「ワン」という声が聞こえたようだった。そのまま寝ていて、いつもの時間に目覚めたらアンナは舌をちょっと出して息を引き取っていた。体は温かかった。涙がいっぱいわきでてきて、どうにもならなかった。皆で泣いた。会社に電話して休んだ。秘書に「犬が死んだので休む。課長さんたちに伝えてくれ」と頼んだ。

 家中でお葬式となった。丈夫な犬で、荼毘に付してくれた隠坊さんが、「ご覧なさい。歯が全部残っていますよ」と見せてくれた。きれいな歯だった。翌日会社に行くと、秘書は「身内に不幸があった」と伝えていたのだが、僕が、「犬が……」といったので、会社を休んだ理由がみんなにばれてしまった。アンナのいなくなった後、家の空気の密度が薄くなった。

 

 そんなことから、けっしてもう犬は飼わないと家族みんなで決心して5ヵ月が過ぎた。しかしシュナウザーは僕たちのうちに突然入り込んできた。あるとき「見るだけ、見るだけ」とか言いながら犬やをのぞいていた。アンナと同い年の娘と目が合ったとき、子犬はその隙をついて家に入り込んできた。β(べー)と名づけられて二代目となった。クルクルとまとわりつくこの仔は、娘の世話で横浜で元気に暮らしている。

 

 三代目がチェルト君だ。犬を手元におきたいと思った時、もう他の犬種は選べなかった。僕の頭のなかには「犬=シュナウ」という図式ができてしまっていた。この仔は一腹の最後、6番目に生まれた仔で、兄弟達との競争にはいつも負けていたと思われる引っ込み思案な仔だった。

 

 犬屋さんの小学5年の男の子がくれた、ぬいぐるみのワニさんといっしょにチェルト君はやって来た。それから6年、チェルト君はそのワニさんのぬいぐるみを本当に大切にしている。ちょっと見当たらないといろんなところを探している。見つけると優しく噛んで持ってくる。本当に優しくだ。

 

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 どうしても分からないことが一つある。チェルト君は、おいしいものを食べたり、背中をブラッシングしてもらって気持ちよくなると、ワニさんと奇妙な儀式をする。

 彼はそっとそっとワニさんを噛んで自分の陣地のソファに登る。そしてガリガリ、ガリガリ、地ならしをした後でワニさんをそこにそっと置く。両手の間にぬいぐるみを置いたままちょっと祈るようにしている。そしてやおら身を起こして、自分のおチンチンの匂いをかぐ。それで儀式はおしまいだ。その後はもうケロッとして、ワニさんをつんと鼻の先で転がして見向きもしない。

 

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 いつか必ず、この儀式の意味をチェルト君に聞いてみたいと思っている。

 

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20034月 文芸社 「作家のラウンジ/エッセイの庭」に掲載されました。

あとがき( 1 / 1 )

 

 

 チェルト君の死から6年がたちました。この間2007年から、HPに上げてきた87編のエッセイを再編集して、この本(その1 その2)にしました。

 

 チェルト君の存在は、僕達にとってあまりにも大きく、彼の死は、僕達の生活、そのものを大きく変えてしまいました。

 

 なんだか、シュナウザーのチェルト君が、僕達、夫婦の本当のボンディングの存在だったのかもしれません。

 

 僕は30年間、3頭のM.シュナウザーと過ごしました。楽しい思い出と、死という悲しみを味わってきました。

 

 最初のアンナ(19歳で天国へ)から、娘と一緒に嫁に行ったб(ベーちゃん:14歳で天国へ)、そしてチェルト君(9才で天国へ)の3頭でした。

 

 最初のアンナとの出会いから、僕はM.シュナウザーから、ずっと卒業できませんでした。シュナウ離れができなかったわけで、シュナウザーだけが犬で、他のワンちゃんには全く心が動きませんでした。何だか、それだけ濃密な関係を持っていたシュナウザーの考えることが、かなり分かるようになった気がします。

 

 チェルト君は、ほんとに頭が良くて、自分を犬とは思っていなかったような記憶が幾つもあります。

 

 つらい時間が経って、やっと、このエッセイを書き始めた時のネタが、約90エピソードでした。これらの一つ一つのエピソードは、僕の心の中に鮮明に残っています。

 

 M.シュナウザーを愛する皆さん、読んでいただいてありがとうございます。M.シュナウザーの考えることの一旦でもお伝え出来ていたら、それが僕の喜びであり、チェルト君の存在した意味でもありましょう。僕には、チェルト君は偉大な存在でした。

 

 バイバイ、チェルト!!

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2
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