M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2

六章 : 仙台の僕( 8 / 18 )

77.杜の都・仙台といいますが…

 

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 仙台の街は、僕は本当は歩るいたことはないのです。例外は、お父さんとお母さんに連れてもらって歩いた、仙台一の繁華街の一番町の通りかな。

 

 スバルに乗っかっては、青葉通りとか、定禅寺通りとかが、本当に大きなケヤキの林が歩道をおおっていて、きれいなのですが…。

 

 一番はやはり定禅寺通り。左右には2車線の車道で、僕達があるく歩道はケヤキに囲まれた美しい歩道。年末になると、イルミネーションがきれいで、みんなが集まってきたし、秋にはジャズフェスティバルがあって、そんな歩道で演奏している。でも、僕は連れて行ってもらったことがない。

 

 一番町は、七夕とかでよくテレビに出てくるもともとの仙台市街地のど真ん中。

 

 お父さんは、月に一回は東北大学病院に通っていたから、帰りに寄り道をして、仙台の古くからのデパート、「藤崎」によって、ラムチョップと、フォションのパンを買ってきてくれる。だから、僕んちには、いつも、伊豆高原の頃からフォションの紙袋は消えたことがない。

 

 お父さんが、病院に行く日は、僕達のごちそうの日でもあったわけで、病院という言葉を聞くと、もうラムチョップとフランスパンの絵が頭に浮かんできて、僕はよだれをがんばってこらえている。運が良ければ、ラムチョップの軟骨なんかをかじっていたし、フォションのパンは必ずもらえた。

 

 僕が大嫌いなバリカンの散髪をしてもらって(幸い、この頃は耳は切られないでいる)、そしてシャンプーを終わって、バオバオとドライヤーをかけてもらっていたら、お父さんが、昔アンナを東京の銀座に連れ出したなぁと話し始めた。もちろん僕は、環八の瀬田から横浜経由で伊豆高原、そして仙台だから、銀座は知らない。

 

 明日にでも、こいつを一番町にでも連れて行ってみるかと話しているのを僕は聞き逃さなかった。くるりと立ち上がると、お父さんの顔に鼻を近づけて、約束を守るって聞いた。お母さんが証人だ。

 

 一番町。藤崎のパーキングに車をとめる前に、お母さんと僕がリードをつけて、スバルから飛び降りた。いろんな匂いと、音と、人たちと、タバコの煙の臭いが流れてくる。僕はタバコの匂いは大嫌い。

 

 お父さんが、車を止めて僕たちのところにやって来た。じゃあ、一番町を三越まで歩いてみようと歩き出した。僕はウキウキ。昨日シャンプーしてもらったばかりだから、ごま塩色のソルト・ペッパーの毛並みはフサフサ。首輪も、お出かけようのベネトンの青と赤のきれいなやつをしている。

 

 仙台にはあまりシュナウザーはいないらしく、みんなが僕のことを見たり、声をかけてくれたりする。なかには、僕を通せんぼして、僕の前に座って僕をなでようとするおじいさんだっている。棒は、みんなになでてもらえて、カワイ~~~~と言ってもらって、大満足。

 

 お父さんも、犬専門店のブランド店にも僕を引き入れて楽しそう。お母さんも楽しそう。こんな街中を3人でお散歩するのは初めてだから。

 

 じゃあ行ってくると、お父さんが僕をお母さんに預けて、自分は藤崎に買い物に行ってしまった。僕と、お母さんは一番町どおりのお店を冷かしたり、子供たちに撫でられたりしながら、お父さんが藤崎から帰るのを待つ。ショウウインドーのピカピカのガラスに映る僕は結構いける。楽しいな、楽しいな…。

 

 待ち合わせた時間になって、お父さんがフォションのパンの匂いのする袋と、ラムチョップの入った藤崎の袋と、RF1の袋に入った何かを持って現れた。これで、今日はごちそうだと、僕はよだれをこらえる。

 

 スバルに乗って、ボロボロ帰り始めたらもう夕暮れ。

 

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 ラピュタのエントランスでお母さんを先に降ろして、僕達は東山荘のグランドにお散歩。やることは決まっていて、早くしろよとお父さん。僕も、今日は早く帰りたいから、がんばってウンチを終えると帰ろうとリードを引っ張る。

 

 やっぱり、その日はラムチョップ。フォションのパンとサラダで、ワインンも開けて、ご馳走だ。

 

 僕は前菜の、ドライフードをあわてて平らげて、お父さんの隣の僕専用のいすに座って、スタンバイ完了。ラムチョップの脂身を切り取った骨が僕のボールに入る。軟骨を食べて幸せ。藤崎にはまた行きたいねとお父さんに言ってみるけど、お父さんには伝わらなかったようだ。

 

 こうして、僕の仙台・一番町デビューは終わった。

六章 : 仙台の僕( 9 / 18 )

78.国際交流パーティーの主役

 

 

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 お父さんは、仙台でも国際交流の活動を始めたようだ。伊豆の伊東でもやっていた活動の延長のよう。

 

 ある日、東北大学とか、宮城教育大のホームページを探して、ブツブツ言っている。 いろいろやっているんだなぁとお父さん。

 

 ある日僕を連れて、宮城教育大学の青葉山キャンパスにスバルで出かけた。東北大の川内キャンパスの道を青葉山に向かって走っていく。クネクネ道であまり僕は得意ではない。気持ちが悪くなりそう。お父さんが気がついて、窓を開けてもらう。

 

 駐車場に着いたら、ちょっと待ってろとお父さんは行ってしまった。僕は一人、スバルの中。大学だから、いっぱい学生がいる。中をのぞきこんで、僕を指さして、見て見て、カワイ~と女子学生。でも僕には触れてもらえない。東北文化大学とはかなり違った感じのキャンンパスだ。森の匂いが強い。

 

 市ノ瀬先生に会って来たぞと、お父さんはご機嫌。イタリアからの留学生が毎年来ているようだと、うれしそう。夏になったら、僕んちにもホームステイしてもらうぞと僕に言う。僕だって、イタリアという言葉には反応する。記憶があるから、誰かがおいしいものを持ってきてくれるのかもしれないと、楽しみになった。

 

 東北大のグランドに連れて行ってもらったのも、国際交流パーティーのおかげ。おいしい煙が立ち込めて、僕も興奮。学生の本田君に紹介されて、僕もグランドを歩く。パキスタンの焼き肉の匂いとかして、ヨダが出る。みんなに撫でられて、気持ちいい。だから、国際交流は僕も大好き。外国の人は特別なにおいがするのを知ったのもここ。

 

 お父さんは、毎月2回ほど仙台国際交流センターで、イタリア語を勉強しているグループと知り合いになった。ここには、これからずっと僕をかわいがってくれる松浦さんというおばさんがいた。イタリア人のオルネッラ先生を囲んで、イタリア語を、みんなで勉強しているとか。そのうちに、僕んちにも遊びに来てもらうよと僕に話している。

 

 夏の終わりには、ペルージアからの交換留学生が宮城教育大学にやって来た。年末までの短い期間だけど、3人の中の、ラウラが僕んちにホームステイすることになった。外国人が僕の家に泊まるのは初めて。女子学生のラウラは日本語を勉強している。だから、少しだけど、僕とも話せる。少しクルミの木の匂いがする、若くて優しいイタリア女性。僕には初めての経験。優しくしてもらって、すぐに仲良しになってしまった。

 

 お父さんと一緒にラウラが、僕のお散歩についてきたことがある。コースは、葛岡の公園墓地。スバルで行って、南の丘と、東の林の中を3人で歩く。お父さんは、イタリア語で話したいらしいけど、ラウラは下手だけど日本語で話す。なんだか、ヘンテコ。

 

 秋、夏からスケジュールされていた、僕んちが開くパーティーの日が近づいてきた。もちろん、ペルージアからの、3人の女子学生と僕んちとは別のホスト・ファミリーの人たち、仙台国際センターでイタリア語を勉強している、松浦さんのグループと先生のオルネッラ。もちろん、宮城教育大学の市ノ瀬先生のご家族。みんなで、30人位のパーティー。ラピュタのI棟のプールラウンジを借り切った。

 

 お父さんは、パーティーのプログラムを考えたり、料理を考えたり、お母さんは自分で作る家庭料理の準備をしたり、僕はカットとシャンプーをしてもらって、美しくなった。

 

 30人もの前菜、メイン、サラダ、甘い物は僕んちでは準備できないから、ケータリングを頼んで、準備は完了。飲み物は、イタリアのワインと、その他の飲み物をお父さんが注文して、I棟に直接運んでもらうことになった。

 

 その日が来た。だんだんと人が増えて、お父さんとお母さんは大忙し。僕は、ちょっと忘れられたのかとF106で心配していた。

 

 パーティーのど真ん中に、僕は登場。みんなが、かわいいと言って、寄ってくる。僕は、うれしくて、うれしくて、誰が誰だかわからなくなるほどだった。分かっていたのはラウラ。匂いでちゃんとと分かる。そして、イタリア人と、オーストラリア人、日本人の匂いが違うと気がついた。イタリア人はチーズの匂い。オーストラリア人は、お肉の匂い。日本人は、おしょう油の匂いがした。

 

 僕は主役。

 

 お父さんかお母さんにくっついて、広いプールラウンジの中を歩く。いつも誰かが、話しかけてくる。分からない言葉だけど、雰囲気で僕をかわいいと思っているのか、犬は嫌いなのかがすぐにわかる。お父さんの友達は、結局、犬好きが多いということが分かった。

 

 パーティーが終って、ぐったりした3人。でも楽しかった。おいしいものもいっぱい食べた。いっぱいなでてもらった。僕は大満足。お父さん、お母さん、ご苦労さま。

六章 : 仙台の僕( 10 / 18 )

79.お父さんの心臓と僕

 

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 仙台に引っ越したのは、伊豆高原や東伊豆にお父さんの心臓病の専門病院がなかったからだった。仙台に来てからは、お父さんは月一回の定期検診を東北大学病院で受けていた。症状は出たり出なかったりで、調子がいい時には、フォッションパンを「藤崎」で買って帰って来てくれるくらいだった。それが、びょういんという言葉に、僕が反応するようになった理由。びょういんと、フォッションのおいしいパン(ときどきはおいしいラムチョップもついてきた)とが、僕の中ではヒトカタマリの意味を持ってきた。

 

 お父さんの心臓細動の発作が起きると、急に元気がなくなり、僕の散歩がお母さんになったりしはじめた。でも、僕んちの中では、寝込んでしまうようなことは無くて、まぁ普通みたいだった。僕とはあまり遊んでもらえなくなっていた。

 

 ある日、お父さんがお母さんに、病院から帰ってきてにゅういんとか言っているのを聞いた。僕にはにゅういんという意味は分からなかった。なんだか、お父さんの病気が進んで、けんさちが悪いとか言っている。

 

 結局、お父さんは、カテーテル・アブレーションというしゅじゅつ(手術)を受けることになった。

 

 お父さんとお母さんが、病院に呼ばれて説明を受けてきた。手術のこと、危険な度合いなんかが話されて、他に解決法がないから、アブレーションを受けることにお父さんは決めたようだ。その間、僕は〇の木動物病院に2~3泊することが決まったみたい。僕はそんなことは知らないで、いつものようにあそんでいた。

 

 お父さんが入院したのが、5月23日。手術は24日。帰ってくるまでにいろいろあって、帰ってきたのは2週間後だった。

 

 お母さんは、お父さんに付き添って東北大学病院の近くに泊まって、僕は〇の木動物病院に預けられていた。その動物病院には、伊豆高原動物病院とはちがって、友達もいないし、先生も冷たい。看護師さんも優しくなくて、僕は泣きそうになっていた。散歩も、僕の調子には合わせてくれない。結果としてバリケンの中でおしっこをする羽目になった。悔しかったけれどしょうがない。2日間、我慢した。

 

 お父さんの入院の間に、僕の上顎に何だかでっぱりができた。舌があたる。何だろうと僕は思った。でも痛くもないし…。

 

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 お父さんが入院して安定した時、お母さんが、〇の木動物病院に僕を連れて行った。でも僕は、いやで、怖くて、待合室のベンチのお母さんの膝の上で、ブルブル震えていた。こんなところは大嫌いだし、怖かったのだ。いい思い出のない病院は怖い。

 

 お母さんが、別のアセンズという病院に僕を連れて行った。けんさということになった。僕の出っ張りをちょっとちぎって、3日後にいらしてくださいと、お母さんは告げられていた。

 

 僕のこんなことが、みんなお父さんが入院している間に起きたわけ。

 

 僕の上顎には病気があると、アセンズの若い先生がお母さんに告げた。

 

 お母さんは、しんらいできる病院を探し始めた。お父さんはいないから、みんなお母さん一人で。飼い主の会から教わった八木山の伊藤動物病院に連れて行かれたのは、お父さん入院して1週間後。

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 結論が出た。

 

 僕の病気は癌。口腔線維肉腫というらしい。僕にはよく分からないけれど、お母さんはそれを聞いて青くなった。しかも、一人で、お父さんが入院中だから、ショックは大きかったのだろう。お母さんは泣いていた。

 

 次の日に、お母さんはお父さんの病院に話に行った。お父さんは、僕の命の残りの日々は、3~6か月ときかされて、ビックリ、がっかりしたそうだ。ぜっくというらしい。伊藤先生は優しくて、僕は怖くもなんともなかった。病院で知り合ったほかのワンちゃんと仲良くしていた。

 

 お母さんは、伊藤先生から、癌が僕の目のすぐ下にあり、大きくなり過ぎているから、危険だから手術は不可能だと言われていた。お母さんのショックは、さらに増したわけだ。残る方法は、放射線治療だけど、仙台にはやってくれるところは無いと言われ、免疫力アップしかないのだと言われてしまった。お母さんは落ち込んでいた。

 

 翌日、お父さんに面会した時、その話をお父さんにしたらしい。お父さんは、よりによって、自分が入院している最中に癌が発見されたのを、自分の東北大学病院への入院がショックだったからじゃないかと言ったらしい。

 

 僕が、お母さんに連れられて、大学病院にスバルで行ったのは、この一回だけ。僕は、何も知らずに、スバルのリアウインドウで、見送るお父さんを見ながらはしゃぎまわって帰ってきた。僕は元気だったから…。

六章 : 仙台の僕( 11 / 18 )

80.何でも感じる僕

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 僕が伊東動物病院に通うようになって、お父さんとお母さんが、やけの優しくなった気がする。

 

 僕は、お父さんのご機嫌とか、お母さんの悲しい感じとかを感じることができる。だから、二人が、なんだか以前より、優しくなったみたいなのを感じ取ることができる。一緒に住んでいる3人だから分かるのは当たり前。

 

 お父さんは僕に口を開けさせて、毎日、僕の口の中を見ている。前だったら、ぐいと開いて、静かにしろとか言いながら、無理矢理でも口を開けさせたけれど、口調が優しい。残念だったなぁ~、という言葉も漏れてくる。もっとチェルトの歯の歯垢を取っておけばよかったのかもしれないとか、もっと毎日歯を磨いて、黄色い色をなくすほどブラシングしてやっていたら…なんて。

 

 僕は、ちょっと、くちの上側が出っ張っているなと舌で撫でて見ているけど、何ともない。僕自身では、まだなんだかわからない。

 

 お母さんは、悲しそうに見える。僕を抱いて、涙ぐんでいることだってある。僕は、お母さんを見上げて、涙顔をなめてあげる。どうしたの…って。

 

 ゴハンが多くなったりはしないけど、僕の好きな犬用の缶詰のお肉が出てきたり、ステーキの端キレの量が多くなったりと、小さなことで変わってきている。なんだかなぁ…と思うけれど、うれしいことには違いがないからうれしい表情になる。すると、お母さんの悲しそうな顔が、もっと悲しそうになる。でも生活は普通に過ぎて行った。


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 葛岡公園墓地にも前と同じようにお散歩に行ったし、ワンちゃんにもあった。バスの運転手の家のジョン君、佐藤宗義に似たお父さんと一緒のタロ平、いつも誰かを避けているように、寺院墓地の中を歩く黒いラブとそのお母さん。みんなと鼻を合わせて、ごあいさつ。お散歩は楽しい、楽しい時間だ。僕は、ルンルン。

 

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 お散歩を終えると、お父さんと二人、芝生の広場の石段に二人座って、おにぎりのようだねというお父さんの言葉を聞きながら太白山の方を見ている。時には、蔵王の方を見ると、午後のお散歩のときには、夕焼けを二人で見ていた。

 

 秋には萩が咲きだして、秋だねとお父さん。キノコ狩りの人が、たくさんあらわれて、僕達をびっくりさせたり、横浜ナンバーのお父さんの車、スバルをパトカーのお巡りさんが覗きこんで、県外車、注意!と言ったり、いろいろあった。

 

 ある時は、仙台市長の藤井さんが突然目の前に現れて、やぁシュナウザーですかと言って、僕をなでてくれた。お父さんもびっくり。藤井さんの家にもシュナウがいるんだって。会ってみたいけど、そうはいかない。藤井さんは、花束を持って広い芝生の側のお墓を拝んでいらした。帰りにも、元気でと僕をなでて帰って行った。なんだか優しいお爺さんだった。

 

 ある時は、第二給水塔の近くの草むらから、野火が燃え出していた。臭い。僕はお父さんの顔を見上げた。行くぞっとお父さん。スバルに2人で乗り込んで、すごいスピードで管理事務所まで。お父さんが、管理事務所の人を引っ張りだして、大声で何か言ってる。僕はスバルの中。お父さんにせかされて、管理事務所の2台の車がすっとんで出てきた。僕たちが案内するしかないので、お父さんは僕に、つかまってろ!といって、猛スピードで野火の現場に。匂いからすると、誰かが投げ捨てたタバコの火が枯れ草に燃え広がったらしい。なんとかおさまって、2人はお礼を言われながら、ラピュタに帰った。

 

 葛岡の春は桜や一緒に咲くはなできれいだけれど、一番の苦手は、雪の日。雪が凍り付いて、ステステすべる。僕はいやだったけれど、結局その冬は、僕用のポンチョとブーツをはかされた。温かいのはいいのだけれど、ブーツはつるつる滑る。ウンチが出るまで、お父さんとの我慢比べだった。寺院墓地には冬でもお線香のにおいがする。僕は、それでお線香のにおいが嫌いになったのかもしれない。お父さんとの戦いの記憶があるからだ。

 

 そんなふうに、僕、癌患者の一日は何もなかったかのように過ぎ、それが僕の余命を食べている一日だとは、お父さんと、お母さんと、伊藤先生しか知らなかった。もちろん僕は知らなかった。

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2
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