見えない子供たち

 拓也はさっぱり意味がわからず、口をあけて、次に何を言えばいいかわからず、頭が真っ白になった。二人は頭を上げるとさやかは即座に亜紀の事情を話し始めた。話を聞き終えた拓也はあまりにも突然で、まったく承諾できない話に動揺し、返事の言葉を考えあぐねた。拓也はとにかくやんわり断ることにした。「事情は良くわかった。しかし、僕は亜紀ちゃんのお父さんにはなれない。僕もこの年だし、4歳の女の子をこの年になって一人で育てることは不可能だ。やはり、児童養護施設にお願いしたほうがいいと思う。二人も僕の気持ちはわかってくれるはずだ」

 

 拓也は精一杯の誠意を持ってこの話を断った。さやかはしばらく黙っていた。拓也が亜紀を育てることは本当に大変であることは十分承知していた。しかし、拓也以外の人間では亜紀を育てられないこともはっきりしていた。「亜紀ちゃんは拓也以外に育てられないのよ。誰もできないの。お願い、拓也!この通り」さやかは両手を合わせてお願いした。拓也はまったくどうしていいかわからなくなった。「さやかさんがそこまでお願いされるんなら、亜紀ちゃんに一度会って見よう、それから考えさせてくれ」拓也は二人の真剣な態度に圧倒された。

         亜紀の眼差し

 

 拓也は二人に対抗するだけの気力がなかった。さやかの切なる願いはわからなくもなかったが、父親になるということは亜紀の一生の責任を負うことになる。このような重大事を簡単に承諾するわけにはいかなかった。さやかの願いを断るにはドクターの力を借りるほかないと思い、まず、ドクターに協力を願い出る作戦に出た。東京目黒区にある安部総合医療センターに出向き、ドクターと内密な打ち合わせをすることにした。

 

 拓也は予備校に休暇届を出し、早速、金曜日の早朝、ドクターに会いに福岡を発った。ドクターには事前に亜紀の件を話したところ、ドクターもその件で相談したいとのことであった。拓也は久しぶりに院長室のドアをノックした。2回ノックすると軽やかなドクターの返事があった。部屋に足を踏み入れると、正面の院長デスクの向こうに笑顔のドクターが立ち上がった。「お久しぶりです。どうぞ」ドクターは真っ白いソファーの前までやってくると拓也を手招きした。

 

 亜紀の件をどのように言って断るか何度も思案しが、なかなかうまく話がまとまらなかった。しかし、ドクターには是非協力してほしいと懇願する心構えで福岡から出向いた。ドクターが拓也の前に差し出したコーヒーを一口すすり、少し緊張して口火を切った。「亜紀ちゃんの養子のことですが、ドクターから断ってもらえないだろうか。この年になって、幼い亜紀ちゃんの一生の責任は取れない。ドクターならわかってくれるはずだ」拓也は落ち着いてゆっくりとお願いした。

「亜紀のことはさやかに一任したが、関さんに迷惑がかかるとは思わなかった。関さんがおっしゃることはごもっともです。まさか、関さんに養子の話をするとは夢にも思っていませんでした。しかし、私の口から断りを述べることはできません。やはり、一度、亜紀ちゃんに会って、それから詳しい事情をお話になって、断ってみてはいかがでしょう。さやかさんも、関さんの気持ちを踏みにじるようなことはしないと思います。早速、亜紀ちゃんにお会いになってみては?」ドクターはデスクの上の受話器を取った。

 

 10分ほどするとノックの音が2回した。ゆっくりドアが開くと小さな可愛い女の子とその後ろにさやかが立っていた。亜紀はさやかに押されてドクターの横までやってきた。亜紀はさやかが買ってあげた真っ白のワンピースを着て、さやかの手をしっかり握っていた。「拓也、ありがとう。この子が亜紀ちゃん、可愛いでしょう」さやかは拓也が承諾するものと思った。拓也は少し緊張した口調で、「さやかさん、亜紀ちゃんは元気そうですね。返事は待ってください。今日は亜紀ちゃんに僕の顔を見てもらうと言うことでしたね」拓也は話が先走らないように釘をさした。

 

 さやかは笑顔になった。「このおじちゃん、いい、おじちゃんでしょう。どう、亜紀ちゃん」さやかは亜紀の目を見つめ同意を求めた。亜紀はさやかを見つめ、ゆっくり頷いた。さやかはパチンと両手を合わせた。「これで決まりね。拓也、亜紀ちゃんがいいって。拓也もいいよね」さやかは一方的に結論をだした。「ちょ、ちょっと待ってくれ、僕の話も聞いてくれないか。確かに、亜紀ちゃんはいい子だ。だけど、僕がお父さんになるということは亜紀ちゃんの一生の責任を取らなければいけないということだ。この年になって、こんな幼い子を育てることは僕にはできない。わかってくれないか」拓也は亜紀には冷たいようだったが、はっきりと断った。

 さやかは亜紀の気持ちがわかっていた。亜紀はさやか以外の人に初めて心を許した。ドクターに対しても心を許さなかった亜紀が拓也には心を許した。決して人に笑顔を見せない亜紀が拓也にだけは笑顔を見せた。これは奇跡だった。このことはさやかにしかわからなかった。期待していた思いは一瞬にして打ち砕かれた。さやかはあきらめることにした。

さやかは亜紀を見つめ部屋を出ようと亜紀の手を引いた。

 

 さやかは亜紀の手を引いたが亜紀は動こうとしなかった。亜紀はじっと拓也を見詰めた。亜紀は信頼できる人に出会えたことに感激していた。「さやかさん、亜紀ちゃんが本当に僕でいいと言うのなら、お父さんになるよ。もう一度、聞いてくれないか?」拓也は亜紀の鋭く熱い視線を感じ取っていた。「亜紀ちゃん、このおじちゃんがパパになってくれるって、うれしい?」さやかは膝を折り、目線を亜紀に合わせ笑顔で尋ねた。亜紀は二度大きく頷き、涙を流した。

 

春日信彦
作家:春日信彦
見えない子供たち
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