見えない子供たち

 金曜日の早朝、出勤前にさやかから携帯が鳴った。土曜日の11時ごろ訪問すると言う一方的な話であった。さやかであればいつ来ても差し支えない客なので即座に了解した。二人は福岡空港から筑前前原駅まで地下鉄に乗り、駅からタクシーに乗って、予定通り11時10分に到着した。さやかのことだから何かのたくらみがあることは、さっしはついていたが、はるばる東京からやってきたねぎらいをしなくてはとお寿司の出前を取った。

 

 二人をリビングに案内し麦茶を出していると、さやかが真剣な顔をして、お願いがあるの、と切り出した。拓也は田舎に引っ越してきて都会に住んでいたときよりおおらかな心になっていた。東京からはるばるやって来てくれたことだから気持ちよく引き受けてやる心積りでいた。まず、さやかの話を適当に聞いて、12時にお寿司の配達を予約していたので、それまで田舎の話をすることにした。

 

 「さやかさん、お願いって、なんだい?」拓也はとぼけたように笑顔で訊ねた。さやかは今まで見せたことのない真剣な顔で「お父さんになってください」さやかはきっぱりと大きな声で言った。拓也は笑顔を作って「僕は離婚してはいるが、お父さんだよ。いったい、誰のお父さんになればいいんだい」拓也は冗談を言った。さやかはしばらく黙っていた。「それでは、お願いします。亜紀ちゃんのお父さんになってください」さやかとアンナは二人そろって頭を下げた。

 拓也はさっぱり意味がわからず、口をあけて、次に何を言えばいいかわからず、頭が真っ白になった。二人は頭を上げるとさやかは即座に亜紀の事情を話し始めた。話を聞き終えた拓也はあまりにも突然で、まったく承諾できない話に動揺し、返事の言葉を考えあぐねた。拓也はとにかくやんわり断ることにした。「事情は良くわかった。しかし、僕は亜紀ちゃんのお父さんにはなれない。僕もこの年だし、4歳の女の子をこの年になって一人で育てることは不可能だ。やはり、児童養護施設にお願いしたほうがいいと思う。二人も僕の気持ちはわかってくれるはずだ」

 

 拓也は精一杯の誠意を持ってこの話を断った。さやかはしばらく黙っていた。拓也が亜紀を育てることは本当に大変であることは十分承知していた。しかし、拓也以外の人間では亜紀を育てられないこともはっきりしていた。「亜紀ちゃんは拓也以外に育てられないのよ。誰もできないの。お願い、拓也!この通り」さやかは両手を合わせてお願いした。拓也はまったくどうしていいかわからなくなった。「さやかさんがそこまでお願いされるんなら、亜紀ちゃんに一度会って見よう、それから考えさせてくれ」拓也は二人の真剣な態度に圧倒された。

         亜紀の眼差し

 

 拓也は二人に対抗するだけの気力がなかった。さやかの切なる願いはわからなくもなかったが、父親になるということは亜紀の一生の責任を負うことになる。このような重大事を簡単に承諾するわけにはいかなかった。さやかの願いを断るにはドクターの力を借りるほかないと思い、まず、ドクターに協力を願い出る作戦に出た。東京目黒区にある安部総合医療センターに出向き、ドクターと内密な打ち合わせをすることにした。

 

 拓也は予備校に休暇届を出し、早速、金曜日の早朝、ドクターに会いに福岡を発った。ドクターには事前に亜紀の件を話したところ、ドクターもその件で相談したいとのことであった。拓也は久しぶりに院長室のドアをノックした。2回ノックすると軽やかなドクターの返事があった。部屋に足を踏み入れると、正面の院長デスクの向こうに笑顔のドクターが立ち上がった。「お久しぶりです。どうぞ」ドクターは真っ白いソファーの前までやってくると拓也を手招きした。

 

 亜紀の件をどのように言って断るか何度も思案しが、なかなかうまく話がまとまらなかった。しかし、ドクターには是非協力してほしいと懇願する心構えで福岡から出向いた。ドクターが拓也の前に差し出したコーヒーを一口すすり、少し緊張して口火を切った。「亜紀ちゃんの養子のことですが、ドクターから断ってもらえないだろうか。この年になって、幼い亜紀ちゃんの一生の責任は取れない。ドクターならわかってくれるはずだ」拓也は落ち着いてゆっくりとお願いした。

「亜紀のことはさやかに一任したが、関さんに迷惑がかかるとは思わなかった。関さんがおっしゃることはごもっともです。まさか、関さんに養子の話をするとは夢にも思っていませんでした。しかし、私の口から断りを述べることはできません。やはり、一度、亜紀ちゃんに会って、それから詳しい事情をお話になって、断ってみてはいかがでしょう。さやかさんも、関さんの気持ちを踏みにじるようなことはしないと思います。早速、亜紀ちゃんにお会いになってみては?」ドクターはデスクの上の受話器を取った。

 

 10分ほどするとノックの音が2回した。ゆっくりドアが開くと小さな可愛い女の子とその後ろにさやかが立っていた。亜紀はさやかに押されてドクターの横までやってきた。亜紀はさやかが買ってあげた真っ白のワンピースを着て、さやかの手をしっかり握っていた。「拓也、ありがとう。この子が亜紀ちゃん、可愛いでしょう」さやかは拓也が承諾するものと思った。拓也は少し緊張した口調で、「さやかさん、亜紀ちゃんは元気そうですね。返事は待ってください。今日は亜紀ちゃんに僕の顔を見てもらうと言うことでしたね」拓也は話が先走らないように釘をさした。

 

 さやかは笑顔になった。「このおじちゃん、いい、おじちゃんでしょう。どう、亜紀ちゃん」さやかは亜紀の目を見つめ同意を求めた。亜紀はさやかを見つめ、ゆっくり頷いた。さやかはパチンと両手を合わせた。「これで決まりね。拓也、亜紀ちゃんがいいって。拓也もいいよね」さやかは一方的に結論をだした。「ちょ、ちょっと待ってくれ、僕の話も聞いてくれないか。確かに、亜紀ちゃんはいい子だ。だけど、僕がお父さんになるということは亜紀ちゃんの一生の責任を取らなければいけないということだ。この年になって、こんな幼い子を育てることは僕にはできない。わかってくれないか」拓也は亜紀には冷たいようだったが、はっきりと断った。

春日信彦
作家:春日信彦
見えない子供たち
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