花は散るけど

4章 11月28日( 2 / 3 )

 櫻木さんは自分の椅子に座りながら、明るく僕に言った。 

 

「そうやって思いつめてたら、うまくいくのもうまくいかないよ」

 

 ふわり、もう一度漂う土の匂い。彼女からその匂いが漂うことは、そのことに気付いた9月のあの日からもう当たり前のことだったんだけど、なんだかその日は、なんだか妙にどきどきした。

 慌てて、話題をそらそうと、緊張してしびれたようになっている口を開いた。

 

「櫻木さんは、こんな時間まで、何してたの?」

「私? 私は学級菜園の草抜いてた。それで、終わったから帰ろうって思ったんだけど、忘れ物に気づいて。教室に戻ってきたの」

「草抜きは、園芸委員の、仕事?」

「仕事っていうか、好きでやってるだけ。本当は園芸委員になる前も、学級菜園の世話はときどきしてたんだんだけど、園芸委員っていう肩書きがあると気合が入っちゃって」

 

 今ぼくの目の前で笑いながら話す櫻木さんの顔に、今まで、ただ胸のなかに留まるだけだった、櫻木さんのいろいろな姿がだぶって見えた。

 

 朝にやっている、あの水やりも?

 この間、その白い花をみて笑ってたよね。

 なんで笑ってたの? あの花が、好きなの?

 

 櫻木さんに聞きたいことが、洪水のように喉の奥に広がって、溢れそうになる。だけど、口が、舌が、唇が、ぼくの言うことを聞かなかった。動かない。
 えんぴつを握る右手に、ぎゅうと力が入った。

 

「あ、そうだ。お茶飲む?」

 

 ふと、櫻木さんが言う。黄色いくまを握ってかばんを開けて中から取り出したのは、するっと長い水筒だ。櫻木さんは慣れた手つきでふた代わりになっているコップをくるくる外してぼくの机の上に置き、そこへお茶を注いだ。

 ぽととと、と軽やかな音を立てて、コップに色の薄いお茶が注がれていく。ふわん、と立ち上った湯気と一緒に香ったのは、果物みたいな匂い。お茶だといわれて、ぼくが想像していた匂いとは違うものに、びっくりした。そしてそれは、きっと顔に出ていたんだろう。櫻木さんは少し誇らしげに、ぼくにいった。

 

「いい匂いでしょ。これね、カモミールティーっていうんだ。花壇にさ、白くて真ん中の黄色がかわいい花があったの、知ってる? だいたい夏くらいから咲いてるの。たまに、今くらいにも咲いちゃうけど」

「……うん、知ってる」

 

 なんで知ってるかは口が裂けても言えないけど、とりあえずぼくはうなずいて見せた。

 

あれがカモミールって花。これはその花びらから作った紅茶」

「花から、紅茶が、出来るんだ」

「うん。面白いよねえ。こうやって温かくして飲むと、普通のお茶より身体が温まる気がして、好きなんだ。おすすめだよ」

 

 どうぞ、と笑う櫻木さんに促されて、ぼくはそれに口をつける。温いお茶の温度が、コップ越しにぼくの手へ伝わる。えんぴつを握りしめてすっかり痺れてしまっていた手のひらが、じわりと弛められた。

 ごくり、と口の中へ入っていたカモミールティーは、果物みたいな甘い匂いとはうらはらに、少し苦い味が少し舌に引っかかった。けど、ずっと何も飲んでいなかったからか、それは案外すんなり喉を通って行った。鼻に抜けていくあまずっぱい匂いで、ぼくの頭の奥はじいんと痺れた。

 ごくり、と一息に飲み干して、ありがとうと櫻木さんにコップを返す。そのあと、ぼくは少し迷ったけど、ゆっくり口を開いた。

 

 どうしても、言っておかなきゃいけないことがあった。

 

 

 

 

 

 

4章 11月28日( 3 / 3 )

 

「学校に、持ってきてもいいの? 紅茶って」

 

 校則で「お茶と水以外は持ってきてはいけない」と決まっていることを、ぼくは知っている。そして彼女だって知らないわけはない。夏の間、ずいぶん問題になったからだ。

 櫻木さんは、今度は少しだけ目と口を丸くしたあと、ううんと考え込んでしまった。

 

「紅茶だって、お茶の種類なわけだし、お砂糖や何かが入ってるわけでもないし、大丈夫だとは思うんだけど……たぶん」

 

 腕を組んで、首をかしげながらううんと考えこんでしまった櫻木さんをみていたら、なんだか少し申し訳なくなってしまった。せっかく親切からぼくにお茶をわけてくれた彼女を悩ませてしまうようなセリフを口にした、50秒前の自分を殴りたくなった。

 櫻木さんは、しばらく考えていた末、ふっと何かを思いついたようだった。

 

「ね、河口くん。先生には、ひみつね」

 

 ぼくのほうへ身をのり出して、少し声を潜めて櫻木さんは笑った。その声は、カモミールティーの匂いにぼんやり痺れているぼくの頭に響いた。不意に呼ばれた自分の名字が、なんだか全然違うもののように聞こえた。

 窓から差し込んでくる太陽の光は教室いっぱいをオレンジ色に照らしていて、そこにはカモミールティーの匂いがいっぱいに充満しているような気がして、頭の奥だけじゃなく、今度は首筋まで、ちりちりと熱くなっていった。あの朝、白い花、季節外れのカモミールを見て笑っていた彼女を、図書室の窓から見た時のように。

 

 

 じゃあ、私帰るね。

 櫻木さんは水筒をかばんにしまうと、入ってきたときと同じようにすたすたと出ていった。再び、誰もいなくなった教室に、ぼくは一人残されている。でも、さっきまでとは違う。教室に差し込んでいた太陽の光は少しずつかたむいて薄暗くなってきているし、苦戦していたあの宿題はなんとかノートに完成している。そして、ぼくの舌の上には、少しだけ苦い、カモミールティの味が残っていた。たくさんの消しゴムのカスを集めてごみ箱に捨てた後も、あの甘酸っぱいにおいで頭の奥はじんじんと痺れたままだった。

 じっと、ひとつ前の机を見つめる。

 

 今しかない、と思った。

 

 自分のかばんから、今までずっと入れっぱなしだったあの白い封筒を取り出した。

 本屋で買ってからだいぶ経っているから角が少し丸くなってしまった真っ白な封筒を、そっと目の前の机に入れた。かさり、という小さな音が、静かな教室に響く。

 驚くくらい、胸は静かだった。

5章 12月1日( 1 / 3 )

 休みがあけて、月曜日になった。よりいっそう冷えるようになった朝の冷たい空気と、近づいてきた期末テストとその先の冬休みにそわそわと浮かれている廊下を、歩く。

  教室に入ったぼくの目に飛び込んできたのは、自分の机の上に置かれている、一通の白い封筒だった。少し角が丸くなったその封筒は、間違いなく金曜日までぼくがかばんにずっと入れていたものだった。

 どくんと、外の空気よりも寒いかたまりが、ぼくの心臓を鷲掴みにした。

ぼくは、楽しそうに話をしているクラスメートたちに勘付かれないように、静かに自分の席に腰を下ろした。平気な顔をして、そっと封筒をかばんにしまう。

櫻木さんは、これを受け取ってくれなかったんだろうか。宛名も、文面も、何も書いてないポストカードなんて、気味が悪かったのかもしれない。

いや、もしかしたら、何かの拍子に机から落ちて、誰かに落とし物だと勘違いされたのかもしれない。そうだったら、いい。もし、櫻木さんの手に渡らないままぼくの元に戻ってきていたなら、まだ救いはある。もう一度、渡せるからだ。

 

でも、あの放課後の静けさなんかどこにも残っていない、朝の挨拶や冬休みの予定を話し合う声がひびく賑やかな教室で、一つ前の机に封筒を入れる勇気はなかった。ただ静かに、苦しいくらい寒くて重いものが、ぼくの胸の中いっぱいに広がっていく。

その重さに、じっと耐えていると、朝のチャイムが鳴って先生が教室に入ってきた。日直の号令で朝の挨拶をしたあと、少しだけ改まった顔で先生は口を開いた。

 

「先週の土曜、櫻木がご家族の急な都合で、転校した」

 

 ざわり、と教室が揺らぐ。ぼくの胸に満ちていた寒くて重いものが、ざぶりと大きく波打った。

 

「で、だ。櫻木はたしか園芸委員だったな。代わりに、山下、やってくれ。さっそくだけど今日の放課後、学級菜園の草抜きあるから」

 

 マジカヨ先生。 文句ヲ言ウナ、アト一ヶ月モ無インダゾ。 チェ、櫻木、最後ノ仕事クライヤッテカラ転校シロヨナ……頭の上で飛び交う声は、何処か遠いところを飛び交っていた。

 

ただ、ただぼくには、今の先生の言葉が信じられなかった。

 

あの金曜日の放課後、櫻木さんはもうすでに自分が転校すると、知っていたんだろうか。だから一人で、草抜きをしていたんだろうか。もう、できなくなるから。

あの日、カモミールティーを飲む前に、けっきょく喉から出て来なかった台詞と、たった今浮かんできた疑問が、ごちゃまぜになって頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。

 

自分でも知らないうちに飲み込んだ、つばのごくりという音が、やけに大きく頭に響いた。

 

5章 12月1日( 2 / 3 )

 気がつくと、放課後になっていた。

 ぼくは逃げこむように図書室に向かっていた。司書の先生の姿も見えない。珍しく、誰もいないようだった。

 静けさに満たされた図書室で、何をしたらいいかわからないまま、かばんから、あの白い封筒を取り出す。よく見ると、封筒の封は一度剥がされていたようだった。誰かが中を見たのだろうか。

 もし、中に入っているポストカードが、誰かにイタズラされていたら……そう考えると、いてもたってもいられなくなった。ぼくは急いで封筒の封を開け、ポストカードを取り出した。

 表に印刷されたカモミールは、あいかわらず白と黄色の対比が鮮やかだった。ずっと封筒に閉まったままだったからか、本屋で見かけたときと同じくらいきれいなままだ。

 

 今度は、ひっくり返して裏を見る。そこには、丸っこいけどどこかしっかりした文字で、「ありがとう」とだけ書かれていた。

 

 これがどういう意味なのか、ぼくにはわからない。

 ぼくが、櫻木さんにしてあげたことといえば、9月のあの日に、園芸委員になったと教えてあげたことくらいだ。それくらいだった。

 むしろこれは、ぼくが櫻木さんに言わなきゃいけない言葉のような気がした。お茶をもらったときに反射的に言った「ありがとう」以外にも、いっぱい言いたいことが、ぼくにはあったのに。

 

「……」

 

 ポストカードを見つめたまま、唇を開く。だけどやっぱり、ぼくの頭にぐるぐると渦巻くものは、言葉になって喉から出てくることはなかった。

 

 

 図書室の窓から見下ろす学級菜園には、あちこちに、それぞれのクラスの園芸委員たちが散らばっていた。文句を言いながら、でもにぎやかに「強制労働」に取り組んでいた。

 

 

 だけどそこに、週に一度の朝、いつもぼくが見ていた櫻木さんの姿は、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏川 いつき
花は散るけど
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