花は散るけど

3章 10月14日( 2 / 2 )

 その日の放課後、いつものように近所の本屋へ寄り道したぼくの目に、あの鮮やかな白色と黄色が飛び込んできた。あの、花だ。心臓が、一気にきゅうと縮んで、痛い。

 大好きな本と触れられて嬉しいはずの場所で、こんな思いをするはめになるなんて思わなかった。普段と同じだったはずの朝を、少し恨めしく思う。

 

 ぼくが立っているのは、文房具やポストカードが置いてあるコーナーの前だ。いつもは本に夢中だったから気づかなかったけど、そこには朝に見たあの花の写真が印刷されたポストカードが、他の花のものに混じってひっそりと並べられていた。 

 

「ありがとうございました」

 

 店員さんはそう言って、商品が入ったビニール袋を渡してくる。それを受け取ったぼくは本屋から出て、店の名前が印刷されたそのビニール袋から、例のポストカードだけを取り出した。……気がつくと、ぼくはそれを手に取って、買う予定だった文庫本と一緒にレジへ持って行っていたのだった。

 店員さんの手によって、白くて厚い、しっかりした封筒に入れられていたそれは、思ったより軽いくせに、ひどく扱いに困った。買ってしまっておいてなんだけど、ぼくは別に植物が特別好きっていうわけではない。

 やっぱりこれは、そういうのが好きなひとが持って楽しむものだと思う

そう、櫻木さんとか。朝、あの花を見ながらあんなに笑っていたくらいだし、きっと気に入るだろう。そう考えて、とりあえず、通学用かばんの内ポケットに、その白い封筒をしまった。

 

 そうして櫻木さんに渡そうと思いついたものはいいものの、すぐに次の問題が生まれた。

 ぼくは、新学期が始まってすぐのあの日の会話以来、櫻木さんとは一度も話をしていなかったのだ。

 もちろん、プリントを渡すときなんかにする必要最低限の言葉は交わしていたけど、それだけだ。図書室の窓から櫻木さんの姿を見かけるようになっただけで、ぼくと彼女の距離は少しも縮んでやしない。

 ただのクラスメートの女子に、本屋で見かけて衝動買いしたポストカードを、どうやって渡せばいいのかわからない。そもそも、何て言って渡したらいいんだろう。でも、渡せないからと言って、一度でも渡そうと思ったものを、他の人へどうこうするのも気が引けた。

 

 

 本屋で店員さんから受け取ったときのまま、宛名も何も書いていないただの真っ白な封筒が、この日から、ぼくのかばんの内ポケットに入れられたままになった。

 

4章 11月28日( 1 / 3 )

 11月も終わりに近づき、もうすっかり日が落ちるのも早くなった、金曜日の放課後。

冷えた教室に差し込む西日に照らされながら、ぼくは誰もいない教室で一人数学の宿題に悪戦苦闘していた。

 「図形を使った問題を3つ作れ」という簡単なものだけど、ぼくはその肝心の図形をなかなか描くことができなかった。コンパスを回せば、スタートとゴールは繋がらないし、三角定規を置いて線を引けば、がたがたに歪んだ階段が出来上がる。

 小学生のときも図形を描くのは苦手だったけど、中学生になってまでこんな簡単なこともできないなんて、自分のことが無性に情けなかった。鼻の奥がつん、と痛くなる。ぐちゃぐちゃの線で埋まったノートが、ぼんやり歪んでいった。

 

「あれえ、何してるの?」

 

 誰もいないと思っていた教室に、あっけらかんとした声が響いた。

 慌てて顔を上げると、黒板に近いほうのドアから、櫻木さんがこっちを覗き込んでいた。園芸委員になったよと僕から聞かされたあのときみたいに、目と口を真ん丸にして。

 

「あ、えと、宿題、してる」

 

 悔しさと情けなさで張りつめた心が、櫻木さんの登場でぐらぐら揺らぐ。それと同じように、あわてて答えたぼくの声もぐらぐら裏返った。心臓がばくばくとうるさい。

 今、ぼくが泣きそうだったこと、気づかれてないだろうか。中学生にもなって、宿題ができなくて泣くようなやつだと思われたらと考えると、頭の奥までぞくりと冷えるようだった。

 

「宿題って、今日の数学で出たやつ?」

「う、うん」

 

 さいわいなことに、櫻木さんは特に何かに気付いた様子もなく教室に入ってきた。そのまま、ぼくの机のほうへすたすたと近づいてきたので、あわててノートに消しゴムをかける。がたがたの図形を見られるような、情けないことはごめんだった。

 櫻木さんはぼくのひとつ前の机にぼんとかばんを置いた。その拍子に、かばんについている黄色いくまのキーホルダーが、跳ねる。

 そのまま、ひょいとぼくの机を覗き込んできた。土の匂いが、する。

 

「頑張ってるね」

 

 ノートに並んでいたぐちゃぐちゃな図形は間一髪見られることはなかったが、櫻木さんは机一面に雪のように降り積もった消しゴムのカスをみて感心した声を上げた。

 その声を聞いたぼくの心が、またぶわっと暗くなる。別に、褒められるようなことなんて、何一つしてしていない。ただ、宿題が出来ないだけだ。ふがいない自分に対してイライラしていた黒い気持ちが、またのそりのそりと胸の奥に迫ってくる。

 恥ずかしいところをみられるのも嫌だけど、変なふうに誤解されることも嫌だった。

 

「どうにも、ぼくは、不器用なんだ」

 

 遠回しに今の自分の状況を、絞り出すような声で説明する。

 

4章 11月28日( 2 / 3 )

 櫻木さんは自分の椅子に座りながら、明るく僕に言った。 

 

「そうやって思いつめてたら、うまくいくのもうまくいかないよ」

 

 ふわり、もう一度漂う土の匂い。彼女からその匂いが漂うことは、そのことに気付いた9月のあの日からもう当たり前のことだったんだけど、なんだかその日は、なんだか妙にどきどきした。

 慌てて、話題をそらそうと、緊張してしびれたようになっている口を開いた。

 

「櫻木さんは、こんな時間まで、何してたの?」

「私? 私は学級菜園の草抜いてた。それで、終わったから帰ろうって思ったんだけど、忘れ物に気づいて。教室に戻ってきたの」

「草抜きは、園芸委員の、仕事?」

「仕事っていうか、好きでやってるだけ。本当は園芸委員になる前も、学級菜園の世話はときどきしてたんだんだけど、園芸委員っていう肩書きがあると気合が入っちゃって」

 

 今ぼくの目の前で笑いながら話す櫻木さんの顔に、今まで、ただ胸のなかに留まるだけだった、櫻木さんのいろいろな姿がだぶって見えた。

 

 朝にやっている、あの水やりも?

 この間、その白い花をみて笑ってたよね。

 なんで笑ってたの? あの花が、好きなの?

 

 櫻木さんに聞きたいことが、洪水のように喉の奥に広がって、溢れそうになる。だけど、口が、舌が、唇が、ぼくの言うことを聞かなかった。動かない。
 えんぴつを握る右手に、ぎゅうと力が入った。

 

「あ、そうだ。お茶飲む?」

 

 ふと、櫻木さんが言う。黄色いくまを握ってかばんを開けて中から取り出したのは、するっと長い水筒だ。櫻木さんは慣れた手つきでふた代わりになっているコップをくるくる外してぼくの机の上に置き、そこへお茶を注いだ。

 ぽととと、と軽やかな音を立てて、コップに色の薄いお茶が注がれていく。ふわん、と立ち上った湯気と一緒に香ったのは、果物みたいな匂い。お茶だといわれて、ぼくが想像していた匂いとは違うものに、びっくりした。そしてそれは、きっと顔に出ていたんだろう。櫻木さんは少し誇らしげに、ぼくにいった。

 

「いい匂いでしょ。これね、カモミールティーっていうんだ。花壇にさ、白くて真ん中の黄色がかわいい花があったの、知ってる? だいたい夏くらいから咲いてるの。たまに、今くらいにも咲いちゃうけど」

「……うん、知ってる」

 

 なんで知ってるかは口が裂けても言えないけど、とりあえずぼくはうなずいて見せた。

 

あれがカモミールって花。これはその花びらから作った紅茶」

「花から、紅茶が、出来るんだ」

「うん。面白いよねえ。こうやって温かくして飲むと、普通のお茶より身体が温まる気がして、好きなんだ。おすすめだよ」

 

 どうぞ、と笑う櫻木さんに促されて、ぼくはそれに口をつける。温いお茶の温度が、コップ越しにぼくの手へ伝わる。えんぴつを握りしめてすっかり痺れてしまっていた手のひらが、じわりと弛められた。

 ごくり、と口の中へ入っていたカモミールティーは、果物みたいな甘い匂いとはうらはらに、少し苦い味が少し舌に引っかかった。けど、ずっと何も飲んでいなかったからか、それは案外すんなり喉を通って行った。鼻に抜けていくあまずっぱい匂いで、ぼくの頭の奥はじいんと痺れた。

 ごくり、と一息に飲み干して、ありがとうと櫻木さんにコップを返す。そのあと、ぼくは少し迷ったけど、ゆっくり口を開いた。

 

 どうしても、言っておかなきゃいけないことがあった。

 

 

 

 

 

 

4章 11月28日( 3 / 3 )

 

「学校に、持ってきてもいいの? 紅茶って」

 

 校則で「お茶と水以外は持ってきてはいけない」と決まっていることを、ぼくは知っている。そして彼女だって知らないわけはない。夏の間、ずいぶん問題になったからだ。

 櫻木さんは、今度は少しだけ目と口を丸くしたあと、ううんと考え込んでしまった。

 

「紅茶だって、お茶の種類なわけだし、お砂糖や何かが入ってるわけでもないし、大丈夫だとは思うんだけど……たぶん」

 

 腕を組んで、首をかしげながらううんと考えこんでしまった櫻木さんをみていたら、なんだか少し申し訳なくなってしまった。せっかく親切からぼくにお茶をわけてくれた彼女を悩ませてしまうようなセリフを口にした、50秒前の自分を殴りたくなった。

 櫻木さんは、しばらく考えていた末、ふっと何かを思いついたようだった。

 

「ね、河口くん。先生には、ひみつね」

 

 ぼくのほうへ身をのり出して、少し声を潜めて櫻木さんは笑った。その声は、カモミールティーの匂いにぼんやり痺れているぼくの頭に響いた。不意に呼ばれた自分の名字が、なんだか全然違うもののように聞こえた。

 窓から差し込んでくる太陽の光は教室いっぱいをオレンジ色に照らしていて、そこにはカモミールティーの匂いがいっぱいに充満しているような気がして、頭の奥だけじゃなく、今度は首筋まで、ちりちりと熱くなっていった。あの朝、白い花、季節外れのカモミールを見て笑っていた彼女を、図書室の窓から見た時のように。

 

 

 じゃあ、私帰るね。

 櫻木さんは水筒をかばんにしまうと、入ってきたときと同じようにすたすたと出ていった。再び、誰もいなくなった教室に、ぼくは一人残されている。でも、さっきまでとは違う。教室に差し込んでいた太陽の光は少しずつかたむいて薄暗くなってきているし、苦戦していたあの宿題はなんとかノートに完成している。そして、ぼくの舌の上には、少しだけ苦い、カモミールティの味が残っていた。たくさんの消しゴムのカスを集めてごみ箱に捨てた後も、あの甘酸っぱいにおいで頭の奥はじんじんと痺れたままだった。

 じっと、ひとつ前の机を見つめる。

 

 今しかない、と思った。

 

 自分のかばんから、今までずっと入れっぱなしだったあの白い封筒を取り出した。

 本屋で買ってからだいぶ経っているから角が少し丸くなってしまった真っ白な封筒を、そっと目の前の机に入れた。かさり、という小さな音が、静かな教室に響く。

 驚くくらい、胸は静かだった。

夏川 いつき
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