身代わり

 11時25分、もうそろそろ政代が現れる予感がした。政代は荒戸のマンションに住んでいて、いつもママチャリでやってくる。ピンクのママチャリが直人めがけて突っ込んできた。「Just in time! 」いつもの口癖で笑顔を見せると、スタンドを立てた。直人の横に腰かけると大きな目をむいて肩をぽんと叩いた。「元気だしなよ、最近、暗いよ。サンドイッチ作ってきたから、ハイ」直人にたまごサンドを手渡した。

 

 「9月の実力テストのことを考えていたんだ。君は秀才だから心配ないだろうけど、僕は怖いんだ。順位が落ちたら絶望だよ。どうしよう」ボソッと言い終えるとサンドにかぶりついた。「直人君は理系、文系、どっちにするの?まだ悩んでいるの?」政代は直人の顔を覗き込んだ。「そうだよな、困ったな~、かっこよく医学部志望と言いたいところだけど、今の成績じゃ、無理だし。かといって、他にはっきりした目標もないし。親は国立だったらどこでもいいから、頑張りなさいって言っているけど、いやだ、いやだ、」直人は医学部以外行きたくなかったが、浪人はしたくなかった。

 

子供のころから勉強は好きだったが、特になりたい職業はなかった。どこかの大学に合格できても成り行きで就職するに違いないと思えた。就職難で公務員になるのも大変だと先生たちも言っていた。親は市役所を勧めているが、市役所も狭き門なのだ。直人はいったい自分はどんな大人になるんだろうと、ぼんやりした不安がいつも頭をめぐっていた。もし、企業に就職できたとしても何のために働くのだろうと思うと、脱力感が全身を襲ってきた。

「少し、悲観的過ぎない、まだ、医学部がだめになったわけじゃないし、いま、あきらめることないんじゃないかな。医学部を目指しなよ。先のことは誰にもわかんないんだから。だけど、直人は医者って柄じゃ、ないようだけどね、どうして医者になりたいの?」政代はなぜ医者にこだわるのか不思議に思っていた。人助けの仕事をしたいことはわかっていたが、それだったら医者にこだわらなくてもいいと思った。薬剤師、先生、地方公務員だって人助けになる職業と思えたからだ。

 

 直人はこの質問が一番いやだった。だから、友達にも医者になりたいとは言ったことがなかった。医者になりたいと言ったのは政代が始めてであった。小学校5年生のとき子供心に「将来、僕が医者になって夏美を元気にしてあげる」と密かに誓ったのだった。このことが医者を目指す最大の理由であった。このことは誰にも言いたくなかった。政代にも言うつもりはなかった。小児癌の子供を救いたいとは夏美のことだった。ただそれだけだった。「あ~、小児癌の子供を救いたいんだよ。夢だけど」空を眺めてつぶやくように返事した。

 

 「そ~、癌を治療する薬を開発するのはどう?少しランクを落として薬学部ってのは?」政代は進路の話しに戻した。なぜ、小児癌にこだわるのか不思議に思ったが、身内の誰かが小児癌で亡くなったのではないかと思い、癌についての質問はしないことにした。「薬学部か?確かに、これも一つの方法だな。なるほど」直人は黙り込んでしまった。「ね~、もう、好きな子見つけた?」政代は話を替えて直人を元気付けることにした。

 

「いや、成績のことで頭がいっぱいだよ。君は?」直人は夏美を失ってからは、夏美の思い出しか頭になかった。「バスケの大島君、この前、声かけられたの、チョッとイケメンよね」政代はクラス以外の男子からよく声をかけられる。「あ~、あいつか、自信過剰の、成績がいいのはわかるが、人を見下したところがあるからな。俺とは真逆の人間だな」直人はイケメンで自分より成績のいい大島にコンプレックスを持っていた。

 

 「中学の時はいたでしょ。その子とは付き合ってないの?」政代は直人に彼女がいる予感がしていた。「いや、AKBのゆいはんは、好きだけど」直人はもうこれ以上詮索されたくなかった。「そ~う、小学生のときはいたでしょう?」政代は執拗に迫った。「え!女子の友達はいたけどね」政代のしつこさにムカついたが、夏美の顔が一瞬脳裏に浮かんだ。「その子、どんな子?今でも付き合ってるの?」いったい、政代は何を探っているんだろうとムカついたが、変な顔をするとさらに追い討ちをかけてきそうでさらりとかわした。

 

 「その子は福岡にはいないよ。長崎に転校したよ」女子の話を打ち切るために嘘をついた。夏美の思い出がよみがえってくると政代がうっとうしくなってきた。政代は直人の機嫌を察したのか話を替えた。「ね~、これから何しようか?ボーリングやる?」スポーツは苦手であったが、直人は小学生のころからボーリングだけは得意であった。二人は弓道部であったが、親しく話しをするようになったのはボーリングがきっかけであった。政代はチャリで、直人はチャリに追い立てられるようにして西新パレスに到着した。

 

          夏美の幸せ

 

 直人は机の上に置いた丸坊主の夏美の写真をじっと見つめて、あのころのことを思い浮かべていた。小学校5年生になった春に白血病が再発し、夏美は九大病院に入院した。直人は休みの日にはしばしばお見舞いに行った。夏美はクリスチャンで朝夕6時に必ず祈願していた。直人は夏美の話が大好きであった。夏美は神に与えられた命はすべて等しく尊いものだと言って、今生きていることに感謝しなければいけないと直人によく言った。

 

 「元気そうだね、早く退院できるといいね。これ、みんなからの手紙」直人は5年2組全員からの手紙を入れた袋をベッドの上に置いた。夏美は笑顔を見せると袋の中を覗き込んだ。「寝る前に少しずつ読むね、ありがとう。これ、みんなへのお礼の手紙。直人が代表でみんなの前で読んでもいいよ」夏美は目を細めて手渡した。「骨髄移植をしてからとっても調子いいよ、すぐに退院できるかも。早く、みんなと遊びたいな~」ベッドから飛び降りると大きく背伸びした。

 

 「止めとけよ、まだ、安静にしなくちゃ、必ず、神様が元気な身体にしてくれるよ、それまで我慢しろ」直人は本当に良くなったのか、病院の先生に聞きたい気持ちでいっぱいだった。と言うのも、前回、ほぼ完治したと言われて退院したのだ。にもかかわらず、再発して再入院してしまった。元気な夏美を信用することができなかった。心の中できっと元気になる元気になると何度も自分に言い聞かせた
春日信彦
作家:春日信彦
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