東天アパート

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第四章 夢のように( 7 / 7 )


カズちゃんは意外なほどあっさりして東天を巣立った。学ぶことが好きだったので学校に行けるのを喜んだ。それに、古里がこのコミュニティだということがカズちゃんの安心材料だった。小さな家族には怖い面もあることをよくよく経験していた。
「休みには帰ってくるよ、お母さん」
と、意気揚々と手を振った。迎えのバスに乗って去って行く。カズちゃんに泣かれたらどんなに辛かっただろう。

暑く長い夏が過ぎると全員の寒さ対策が必要となる。障害者の運営する古着屋で買う意外に、家庭から出る不用品は寝具衣類その他お宝の山、という感じだった。
昔、なずさが捨てたものは何と無用のものばかりだったことか、ただ生きるためなら。
そのころしかし、生活のサイクルが落ち着いてきたとき、小山なずさの中で少し、欲が湧きそうになっていた。シャワー、本、鏡、携帯電話、ウォシュレット。


しかしある夜。牛山、音楽バンドの若者らに難儀が起こった。即ち東天アパートに。
ショバ代を要求する者がこんな片田舎に現れたのである。この連中も生活しなければならず、上納金を要求されているのだそうだ。やっと大人になったばかりのような小柄な男二人だという。ともかくいくらかでも金を払えという。結局その日に得た収入の半分、二千円を没収された。
「僕は実は空手とかできるんですけど」
「俺だってそうだよ」
「だめだめ。じかに応酬したら収拾つかなくなる」
「半分も持っていかれるとナァ」
「警察に言おう」
「やくざか。まだそんな者がいるんや」
「当たり前だよ。人類の多様性の一角?」
「そなアホナ。優生学的にいうと次第に消滅するはずなんやけど。平和が続くとな」
「だから、社会的な要因よ」
「うん、それがポイントやね」
余り筋肉も知力も発達していないような東天住人が知恵を振り絞る。
「わしが一緒に行たろ」
という声に全員驚く。ホスピスのつもりで入居した春日老人である。涼しくなった頃から、何となく生気に溢れてきた。

もうひとりの老女秋野さんはかなり弱っている。看護師だった辰巳さんは、淋しく死なせた自分の母親の代わりのように、老女を世話する。病院の周囲だけが彼女の生活の場であって、しかも人手不足による過労のために、患者さんを人間として見ることもなく過ぎた四十年だった。

辰巳さんのここでの新しい仕事の半分は、秋野さんの珍しい路上生活話を聞くことでもある。たくさんの野良犬野良猫、人間の赤ん坊まで彼女が世話した。次から次へとそれは途切れることなく連続した生活だった。
辛かったのは寒さでも労働でもなく、路上生活者を自らの鬱憤のはけ口とするいわゆるぐれた少年達の攻撃だった。その犠牲者は多くあったのだ。


「あの子らの性根は腐っとってね。憎たらしいたらない。でも大部分は自分が虐げられたモンやねんな。親から無視されたんか、心がからっぽ、自分が生きられへんからやろか、自分の代わりに弱いモンを殺す」
秋野さんは肺がんだ。弱い呼吸を荒げた。
何が彼女を路上で生活するように強いたのか、それを語る言葉を秋野さんは持たなかった。
「誰でもなる、ちょっとしたことで。なったら最後、誰も振り向いてくれへん」
辰野さんは看護師として脈をみながら、話し相手でありうることをむしろ感謝した。
「でもね、精一杯に生きたよ、私」
「そうよそうよ、まだまだ人生あるよ」
秋野さんはうっすらと笑った。

春日老人には、確かにこわもての気配があった。釜ガ崎で日々の仕事を求めた若い頃、親に仕送りが出来たりすると、男の仕事として自らを慰めることが出来た。経済が発展していく時期には結構のっていた。気づくと、賭け事、酒、トラブル、闇の世界、仁義と巻き込まれていた。その行きつく先が怖くなり、上京して山谷に紛れ込んだ。そこで目立たぬようにまじめに斡旋された仕事をこなした。

近代までは労働力の収集派遣は「人買い」とも呼ばれたし、或いはやくざの本業でもあった。現代では派遣会社が同じ仕組みで法的に運営を行っている。
そんな労働者のみが圧倒的に弱い立場だったのを、春日老人は今にして理解する。
バブルがはじけた後、次第に簡易宿泊所は萎縮していった。関西に戻ってのち、春日老人は脳梗塞を起こした身を公園の青いテントから一度病院に運ばれたのである。
最近は、リハビリの効果が目に見えてきた。長い木の枝の、手に余る程の握りの棒を杖として、ほとんど一人で歩く。

牛山、バンドの若いもん、春日、四人で仕事に出かけた。ここは何としても、人生のすべての知恵と経験をかけて東天アパートの生存のリスクに戦いを挑まねばならない。春日老人には何の不安もなかった。今こそ彼の生きてきたことに意味が付与されるのだ。
彼らが夜に帰ってきたとき、集団は他の住民で動ける者も加わり、それに赤松陽司も小園佑子も一緒だった。

第五章 遥かな道( 1 / 2 )


「春日さんには参ったなあ。俺を殺してみろ、ちゃんと殺されてやる、その代わりほっとくんや、お前らの行く末がこの俺や、自分を殺してみろ、それも出来んならこの辺の元締めから逃げ出すんや。命のあるうちに。深入りするなや。さあどうする。俺を殺すか。よう殺さんか。生まれ変わるか」


バンドの二人が上手に再現してみせるので、全員が心から笑った。
「そこで赤松さんは説教するは、小園さんは説得するは」
「でも春日さん、大丈夫。疲れたやろ。さあ、みんな夕食食べよ。ありがとう、春日のおじいさん」
全員が小山幸平の振る舞いを受けた。狭い部屋が暑くてたまらなくなると、庭に出てそれぞれの踊りを踊った。

翌日は快晴であった。画家とシンガーソングライターと、用心棒の一行は駅前の広場に場所を移した。ここなら交番も近い。町役場への許可に関しては赤松陽司が手を打ってくれていた。
数日するとよその町からも、観客がくるようになった。といっても列が三重になるくらいだが。春日老人が例の杖を手に、少し離れて無言の圧力を及ぼしているせいか、芸術活動は滞りなく発揮された。

特にバンドが心も浮き立つようなリズムで人生の応援歌のような歌詞を歌うと、リズムの波が観客の中に生じる。ついには誘い出されるように中学生くらいの連中が両手両足をくねらせ、腰を巧みにリズムに乗せてそこらで踊り始めた。アメリカのストリートダンスをまねたり、学校の体育祭でやらされたソーラン踊りを数人で行うようになった。
カラオケ気分で、バンドに曲を注文してマイクなしで歌いだす者、演歌にあわせて踊るおばあさん、観客だった人々がそれぞれが好きに動いて参加した。最後には理由もなく、ありがとう、といって寄付してくれるのだった。

沈みがちで自分を抑えがち、人の目を気にしがちな普通の人々の固い殻も、滝野駅前広場ではカチンとはじけてもいいんだ、というそんな雰囲気が定着していった。
小山幸平となずさの親子もその輪の中で、理由もなく笑いに笑い、笑いすぎて涙をにじませ、気を許して手を握り合う。そしてできるだけ踊ってみた。

第五章 遥かな道( 2 / 2 )

週末、テレビを見るのが好きな普通の人たちも数時間広場で過ごして、笑ったり体をゆすったりしてから家に向かう。
露店も出たりする。バンドがベースやドラムを雇うこともあった。ただ、生活の糧を頂くことは東天アパート住人の生活程度を維持するほどにははかどらない。小山幸平はいつもあてにされていて、最後の拠り所となっていた。

ところが、すぐにこの騒ぎを聞きつけて、近隣から集まってきたのが、いわゆる暴走族、バイクの騒音で自らをアピールしたい少年達であった。
政治も行政も倫理も働かないところで、清貧の人々がすぐに集まった。派出所から警官は出ていたが、笑いながら眺めている。年かさの一人が、
「どうしたんや、今夜は踊りに来たんか」
と、少年らを止めて話しかける。すばやく赤松陽司らが話を引き継ぐ。バイクをひとところに集めさせて、ソラ、踊れ、と輪の中に入れる。お客が拍手する。お客もリズムで体が揺れているのだ。

牛山が、暴走族取り巻きの少女に手招きする。手まねで絵を描いてあげる、と合図すると、少女達は二、三人どう反応したらいいのかわからないような表情で近づく。猫ちゃんが、可愛く描いてもらい、と無邪気な可愛い声で言う。
「どうや、今日は。どんな気分?」
輪郭を魔法のような手つきで描きながら、牛山が気軽に問う。どんな、ってどうもない、と少女は髪を直しながら口ごもる。
「家の人に怒られた?」
「おかん?大嫌いや。男にばっかり」
「そうか。君大丈夫?困ってることない?」
「いっぱい困ってる。でもバイクと音楽とダンス好きやもん」
と、ふとにっこりする。
「お、その顔その顔」
と、牛山がうまく誘い出した。いいなあ、いい笑顔持ってるねぇ、と腕を動かす。少女は待ちきれないように両手を差し出している。出来上がり、と貰った紙の中に、もっと笑いたいようなくすぐったいような瞳の、幼い女の子がこちらを見ていた。


「いやぁ、なんと愛くるしいねえ」
と、バトンタッチしたのは小山だ。
「これがあんただよ、誰でも好きになるよ、あんたの本質はピカピカだね」
少女は突然涙を溢れさせた。悲しみがのど元まで溢れてせき止められていたのだ。人に聞かれまいと小山の胸に顔を押し付けて体中で号泣した。どんな辛さがこの小さな全身に溜め込まれているのだろう、小山なずさは、昔父親に一度だけこうして抱きついて号泣したことがあったのを思い出した。

「そうかそうか、よく我慢してたね。もう大丈夫や。相談に乗ってあげる。勉強も見てあげるから心配なしや。いい?」
小山は自分に驚いた。こんな計画があったのか?
泣いている背中を撫ぜてやりながら、いろいろなことを小山は少女に約束した。そして友達と一緒に来たらいい、と言った。その間にもうひとりの少女も自画像を描いてもらい、同じく感激していた。少年のひとりもそこに加わりたそうにしていた。

翌日日曜日の午後、駅前で、中学生三人がそれぞれ勉強道具持参で待っていた。小山は連休で戻っていたカズちゃんも連れていた。近くの公園まで行き、まずは秋の陽を浴びた。
チューインガムをかみつつそれぞれの宿題をした。小山は一人一人の髪やほっぺたや背中を時々触った。子供達は甘えたいから小山に質問するかのようであって、質問するや否やすでに答えに達しているのがおかしかった。何かひとつでも今日、「そうかっ」とわかればしめたものだ。そのひとつの経験が脳の快感回路を強化する発端となる。カズちゃんはこれまた飛びっきりの理解力を示した。小山は彼のおでこに自分のをコツンとぶっつけて賛嘆の意を示した。


仮名東天ホスピスで初めて永遠の旅人が出た。秋野さんが不運の中でせめて他利に生きた見事な一世を終えた。医師が派遣され、モルヒネを使った。息が間遠くなっていくのをみんなが取り囲んで見守った。秋野さんは薄目を開けた。たくさんの人の気配を感じたらしく、ふふ、と笑った。その息はもうほとんど出てこなかったが、笑った。

小さな葬儀がアパートで執り行われた。野に咲く白い花が集められた。加えて、花村のお婆さんが数本の立派な白菊を供花としてカイコさんに切らせたという。そんな花に慎ましく囲まれて遺骨は部屋に置いてある。秋野さんの慎ましい微笑の写真が一枚あった。小園佑子がこれまでも親族を探したのだが、終戦後の中国からの引揚者らしく、辿る事ができなかったという。

国民の間で経済的な上流が五パーセント、中流十五パーセント、残り八十パーセントが貧しい、という時世になった。誕生より死亡のほうが多くなり、人口増は峠を越えた。安い労働力が求められたが、ここに至り政府は最低時間賃金を思い切って上げた。消費税は実質贅沢税ということになった。資源に関して、より少なくより効率的に使い、より再資源化するしかない地球となった。人という労働力も重要な資源である。ドライな見方ではあったが、政府の英断として後世位置づけられるはずだ。

冬が過ぎて、また飽くことなく春の気配をロウバイの香りが運んできた。
春日老人が早朝、日が昇るや庭に出てきた。大地にしっかりと根を張り、天を向いてホオーと叫んだ。何回かそれを繰り返すのでみな何事かと起きてきた。早出のカイコさんより早い朝だ。

春日さんは背筋を伸ばし、天からつるされたでんでん太鼓が左右に揺れるように体を捻る。両腕がそれについて振れる。重心が軽く左右の両脚を移動する。両腕が高くあるいは低く振られる。そのうちにぴたりと止まる瞬間が出来た。その形が立派だった。次にゆっくりと片足を一歩進め、反対の構えが生じた。
その超スローな移動の間にも春日老人の体はびくとも揺れなかった。


ハナミズキの枯れた枝先にはもう、小さな拳のように新芽が準備されているだろう。
性懲りもなくエネルギーの循環が行われていく。了

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