背中あわせ

「『百合先生』とお呼び」
いきなり高飛車に言われて、明は眉をひそめた。平凡な建売り住宅の一室、明の部屋でだ。ローテーブルの側に座る明の向かいで、百合が立ったまま偉そうに腰に手を当てている。
「なんでだよ」
不機嫌な返答にも百合はめげない。
「授業に付いていけなくて、課題を出された明くん、百合先生って呼びなさい、って言ってるの」
馬鹿にしているのだろう、一言ひとこと噛んで含めるような言い方だ。百合の顔は生き生きしている。
「嫌だよ」
「じゃあ課題見てあげなくていーのね?」
「うっ……
明は気まずそうに首をすくめた。テーブルの上には課題のプリントが積まれている。
「私はおばさんに頼まれて、し・か・た・な・く、来てあげてるんだから!」
……分かったよ……。課題教えて下さい、百合先生」
「よろしい!」
百合は仰々しく頷くとやっと座り、プリントをパラパラめくって1枚をテーブルに広げた。残りは床に下ろす。
「とりあえず、基本のところからね。晴海先生も優しいわよね、こんな基礎から出してくれるなんて」
百合が指差すプリントには、一問目に「5-8=」と書かれている。
……これって基礎なの?」
……もしかして分からないの?」
……だって5より大きい数を5から引くなんて無……
「馬鹿じゃないの!?」
明の言葉に被せて百合が怒鳴る。
「授業受けてないわけ!?」
「受けてるよ!受けてるけどちんぷんかんぷんで」
「何で先生に質問とかしないのよ!!」
「いや、授業中断させるの悪いかなって……
明の言葉はだんだん尻すぼみになっていく。
百合は暫く呆然と明を見た後、盛大にため息をついて頭を抱えた。
「引き受けるんじゃなかった……
……えーっと、よろしくお願いします百合先生……
うなだれる百合を前に、明にはそれしか言えなかった。

「晴海先生、課題できた分持って来ました」
数学の授業の後、明は晴海を呼び止めてプリントを渡した。昨日1日でなんとかプラスとマイナスが何であるかを理解し、「5-8」を解けるようになったのだ。
「おぉ今野、さっそくやって来たか。自力でできたか?」
「いえ、分からなかったので小坂井さんに教えて貰いました」
小坂井は百合の名字だ。自力でできなかったことを恥じる明の肩をぽんぽんと叩き、女子生徒に絶大な人気を誇る爽やかな笑顔で晴海は言った。
「ま、優秀な小坂井が見てくれるなら安心だな。良かったな、いい幼馴染みがいて」
百合が聞いたら喜びに身を震わせること必至の台詞だ。百合も晴海に憧れている生徒の一人なのだ。
「じゃあまたプリントできたら持って来いよ、採点してやるから」
じゃあな、と言って晴海は職員室へ戻って言った。晴海にきゃあきゃあ騒ぐ女子生徒の心境も分かる気がする。さっぱりとしたいい先生だ。晴海の背中を見送っていると、すすすと百合が近づいて来た。
「ちゃんとプリント渡した?」
「出したよ、昨日の分」
「晴海先生、私のこと何か言ってた?」
やっぱりそんな用事か。白けた気分で明はそっけなく言い放つ。
「別に、何も」
「え~、ちゃんと言ってよ、私が明の勉強手伝ってるって!」
「そんなに言いたいなら自分で言えばいいじゃないか」
「それもそうね」
頷く百合に明は呆れた。こいつの頭には謙虚とか謙遜とか恥じらいとかがないのか。
「今度からプリント提出する時には私も付き合うから!」
満面の笑みで百合は宣言した。

その日の夕方、部活でくたくたになって帰って来ると、百合はすでに家に来ていた。ちゃっかりリビングに居座り、明の母を相手にケーキを食べている。
「なんでこんな早いの……
「あっ明おかえり!早く晩ごはん食べちゃいなよ、数学やるよ!」
「百合ちゃん悪いねぇ、この馬鹿をよろしくね。ホラ明!さっさと荷物置いて来な!」
俺の味方はどこだ。と少し脱力しながら、明は二階の自室に上がり、着替えてからリビングに戻った。百合は幸せそうにチョコレートケーキをほおばっている。
「おばさん!これ、めちゃくちゃおいしい!」
「でしょう。百合ちゃんチョコ好きだものね。こんなもので良かったら毎日用意しとくから、明をよろしくね」
「もちろん、ビシビシやって今授業でやってるところまで持っていくから!」
「百合ちゃんが見てくれるなら安心だわー」
女二人が和やかなムードをかもしだす横で明は夕飯をがっついた。さっさと食べてさっさと課題を終わらせ、ゲームでもしたい。
その思考を読んだかの様に百合が言った。
「今日は最低3枚は終わらせるからね!」
道のりは遠い。

それでも百合の教え方は丁寧で、辛抱強かった。最初は「5から8下がったらマイナス3でしょ?」から始まった勉強も、数日後には 「(-5)-(-8)+(-4)」が解けるまでに進歩した。優等生の百合なら自分の勉強もしたいだろうに、律儀に明の家に来て、時には宿題も見てくれた。 課題のプリントはゆっくりだが着実に減っていく。
明としてはありがたいし文句を言う気はないのだが、百合に下心があるのであまりいい気分ではない。
今日、晴海にプリントを一緒に提出しに行った時のことを思い出しても嫌な気分になる。
晴海に
「小坂井は頭もいいし優しいし、いい女になるなぁきっと」
と言われて、百合は舞い上がっていた。
「先生口が上手いんだから~」
とその場では照れてみせたものの、後で明に
「ねぇねぇ、先生私みたいなのが好みなのかな!?どうしよう禁断の愛に発展したら!」
ぴょんぴょんはしゃいでいた。明としてはそんなわけないだろう、と言いたい。相手は教師なのだ、気まぐれに言っただけに決まっている。そう指摘すると百合 が怒って面倒なことになるし、うかれた気分に水をさすこともないので口にはしないが。そもそも、どうして自分が不愉快な気持ちになっているのかも分からな い。明は自分の気持ちを持て余していた。

高谷実里
作家:高谷実里
背中あわせ
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