その日の夕方、部活でくたくたになって帰って来ると、百合はすでに家に来ていた。ちゃっかりリビングに居座り、明の母を相手にケーキを食べている。
「なんでこんな早いの……」
「あっ明おかえり!早く晩ごはん食べちゃいなよ、数学やるよ!」
「百合ちゃん悪いねぇ、この馬鹿をよろしくね。ホラ明!さっさと荷物置いて来な!」
俺の味方はどこだ。と少し脱力しながら、明は二階の自室に上がり、着替えてからリビングに戻った。百合は幸せそうにチョコレートケーキをほおばっている。
「おばさん!これ、めちゃくちゃおいしい!」
「でしょう。百合ちゃんチョコ好きだものね。こんなもので良かったら毎日用意しとくから、明をよろしくね」
「もちろん、ビシビシやって今授業でやってるところまで持っていくから!」
「百合ちゃんが見てくれるなら安心だわー」
女二人が和やかなムードをかもしだす横で明は夕飯をがっついた。さっさと食べてさっさと課題を終わらせ、ゲームでもしたい。
その思考を読んだかの様に百合が言った。
「今日は最低3枚は終わらせるからね!」
道のりは遠い。
それでも百合の教え方は丁寧で、辛抱強かった。最初は「5℃から8℃下がったらマイナス3℃でしょ?」から始まった勉強も、数日後には 「(-5)-(-8)+(-4)」が解けるまでに進歩した。優等生の百合なら自分の勉強もしたいだろうに、律儀に明の家に来て、時には宿題も見てくれた。
課題のプリントはゆっくりだが着実に減っていく。
明としてはありがたいし文句を言う気はないのだが、百合に下心があるのであまりいい気分ではない。
今日、晴海にプリントを一緒に提出しに行った時のことを思い出しても嫌な気分になる。
晴海に
「小坂井は頭もいいし優しいし、いい女になるなぁきっと」
と言われて、百合は舞い上がっていた。
「先生口が上手いんだから~」
とその場では照れてみせたものの、後で明に
「ねぇねぇ、先生私みたいなのが好みなのかな!?どうしよう禁断の愛に発展したら!」
と ぴょんぴょんはしゃいでいた。明としてはそんなわけないだろう、と言いたい。相手は教師なのだ、気まぐれに言っただけに決まっている。そう指摘すると百合
が怒って面倒なことになるし、うかれた気分に水をさすこともないので口にはしないが。そもそも、どうして自分が不愉快な気持ちになっているのかも分からな
い。明は自分の気持ちを持て余していた。
翌日、百合に勉強を見て貰いながら、明はイライラしていた。
百合が「眼鏡をかけた晴海先生」のかっこよさに参っていたからだ。
「小物っての威力って凄いよね」
と百合は言う。
「晴海先生って普段は気さくなお兄さんって感じだけど、眼鏡かけると一気に理知的になるって言うか。数学の先生なんだから賢いのは分かってるんだけど、ギャップがあってぐっとくるっていうか」
今日たまたま晴海が普段かけない眼鏡をかけていたからなのだが、明としては果てしなくどうでもいい。いや、良くない。不愉快だ。
百合はそんな明には構わず、「先生また眼鏡で来てくれないかなぁ」などと言っている。
自称平和主義者として我慢していた明だが、明の学力の無さに呆れた百合に
「もぅ、明も晴海先生を見習ったら?」
と言われるに至って我慢できなくなった。
「どこがいいんだよ、あんなやつ!」
小さな声だがはっきりと、言ってしまった。
「あんなやつって何よ、晴海先生に失礼でしょ?」
百合は訳が分からない、と言う風にきょとんと明を見ている。
「あいつ、陰で生徒の悪口言ってるようなやつやんだぞ!」
「え?まさか。そんなわけないじゃない」
百合の顔がゆっくりと呆れた表情へ変わってゆく。
「本当だって、こないだ聞いたんだ!」
「晴海先生に限ってそれはないでしょー。何でそんな嘘つくの?」
首を傾げていた百合が不意に納得顔になった。
「分かった、明、あんた妬いてるのね?」
「は?」
今度は明がきょとんとする番だった。
「やっだー、明くんたら。私が晴海先生のことばっかり誉めるから面白くないんでしょ?」
「なッ……違う!」
明は力いっぱい否定するが、百合は心から楽しそうだ。
「もしかして私のこと好きなの?勉強教えて貰って好きになっちゃった?」
言葉だけではあきたらず、からかうように明の顔を指差して、指をくるくる回して見せる。
「違うって言ってるだろ!」
「ほんとにぃ~?」
「誰がお前みたいなのを好きになるんだよ!」
「あれれ、そんなこと言っちゃっていいのかなぁ。勉強教えてあげないよ?」
「うるさい頭でっかちのにきび女!」
しまった、と思った時には遅かった。さっきまで余裕たっぷりだった百合の表情が一瞬で真顔になった上にぴしっと凍りついた。
「あぁそう、そういうこと言っちゃうわけ」
「あ、いや、違……」
「毎日見たいテレビも見ずに勉強教えに来てたお返しがそれなわけね」
「あの、百合……」
「妬いてくれたのかと思って嬉しがった私が馬鹿でした」
真顔のままふぃっと横を向くと百合は宣言した。
「帰る」
そ してそのまま、止める間もなくすたすたと行ってしまった。階下で明の母に挨拶をする百合の声を聞きながら、明は頭を抱えた。あぁぁあれは明らかな失言だっ
た……最後冷静に敬語だったよ最大級に怒ってるよ……。と、思った所で何かにつまづいた。あれ?最後に百合は何て言ったっけ?
「エ!?」
思い当たった一つの事実に、一人間抜けに頭を抱えたまま明は真っ赤になった。