土曜の午前十時前、誠はバスに乗った。
山奥行のバスだ。始めは堤防沿いを走っていたが、次第に山々が近づく。
切れることなく住宅や商店が続いていた。道幅も細くなり、両側に緑豊かな山が立ちはだかっていても、住宅も店もあるし、学校もある。ここに住む住民の生活感あふれる喧噪は、見ていて新鮮味を覚えた。
滝まではまだもう少し先だろう。
昨晩、ネットで誠の記憶にある滝について調べた。猫が映像で見せた滝が、今向かっている滝で合っているのか、一抹の不安はあった。
だが、今までの傾向からすると、とんでもなく遠くにあるわけではなさそうだ。どの『花見酒』も地元圏内で入手できた。なぜどれも地元にあるのかは分からないが、パシリにされる方としては助かっている。
山中にある町中の道路はかろうじて車が二台通れる程度の幅しかない。
カーブがあるので、誠は外を眺めながらなんとか車酔いは防ごうと、へそ辺りに力だけは入れていた。
次第に、右側に川が流れる光景に変わった。
幅はかなり広い。向こう側は、雑木林が生い茂る山の斜面だ。
川の流れは、向かう方とは逆へ流れていく。透明色から、澄んだ青へと川の深さが増していく。
滝が近くなってきた予感がして、誠は少々緊張してきた。
カーブの先に広い橋が見えた、橋の先には民宿らしき建物が数件軒を連ねていた。バスが橋を渡ると、ちょうど右方向の正面に、落差十メートルはありそうな滝が現れた。
滝つぼの深い青さに感嘆なため息が押し出された。まだ、川で泳ぐには少し肌寒いかもしれない、だが滝つぼの水はそれ以上に、凍えるほど冷たそうだ。
バスはちょっと古そうな民宿の前で停車した。
土曜ということもあり、何十人かの観光客がぞろぞろバスから降りた。誠は最後の方でバスを降りた。
空気の循環が止まったバスから解放されると、外は異常なぐらい清々しかった。滝も近いせいか、空気が少しひんやりしている。これがマイナスイオンかぁと、しみじみと肺に新鮮な空気を送り込む。
バスから降りた人たちは、滝の方へと道路を下って行く。または民宿に入ったり、お土産屋に入ったりと様々だった。
誠は滝と『花見酒』だけが目的だったので、まっすぐ滝へと向かった。
民宿やお土産屋沿いの道路を下った先に、滝つぼのある川岸まで降りられる階段があった。ここまで来ると、水が落下する豪快な水しぶき音にも迫力が増す。
この滝が県内で有名なのは落差だけではなく、白糸のような細い滝がカーテンのように流れ落ちている様が有名なのだ。
家族連れの観光客が多かった。小学生ぐらいの子供は、川岸まで行ってぴしゃぴしゃ水で遊んでいた。
「どこに『花見酒』があるっていうんだよ」
押し出したような独り言は、滝が発する音色でかき消された。
誠も川岸に降りて、滝つぼ近くまで近寄った。やっぱり肌寒い、水しぶきも飛んできて、真夏なら絶好の避暑地だ。
どうすることもできず誠は立ち尽くした。今まで『花見酒』があった場所には、人ではない生き物? はいたが、ここまで人がいたことはない。
人が引くのを待つしかないのかと、誠は階段まで戻り、腰を下ろしてぼう然と滝を眺めた。
「君、ちょっと君、起きなさい、君」
体を揺すっられているのに気づいた誠は、ハッと顔を上げた。
膝を抱えていた腕にぴったり顔を付けていたらしく、顔半分がヒリヒリした。おまけに腕にも顔にもよだれがベッタリ張り付いていた。
「君いつからここにいるんだ?」
「え?」と眠気眼をぼんやりと上げた。あたりは既に薄暗くなっていたので、体を揺らして起こしてくれたオジさんは、訝しげに顔をひそめていた。
「どこからきた、バスできたなら、ついさっき最後のが出たよ」
「え! そうなんですか」
飛び起きた誠は、民宿前のバス停を見つめてから、ガックリ肩を落とした。
「もっと早く気付いてやればよかったなぁ」
後頭部を掻いたオジさんは、自分のことのように困り果てた様子でうろたえていた。オジさんに気を取られて、逆に誠は冷静になっていた。
こうなったら民宿に泊まるしかないか、と覚悟を決めたとき、「それなら」とオジさんが声のトーンを上げた。
「うちの民宿にきなよ、学生さんだろ、学生割引してあげるよ。帰れないんじゃあ、泊まるしかないしな」
「本当ですか! ありがとうございます!」
生き返ったような気分だ。飛び跳ねて喜びたいところだったが、誠はペコペコ頭を下げた。
「すぐそこだから」の台詞通り、滝の音がよく聞こえる所に建っていた民宿だった。
部屋に案内され、食事の用意ができたら呼びに来るからと言って、オジさんは笑顔で去って行った。
とりあえず家に連絡しなくてはと、携帯をカバンから取り出した。だが、一人で民宿に泊まると言ったら、さすがに心配するかもしれない。口うるさい親ではない、放任主義ではないが、勉強をしろとも、帰りが遅いとも言われたことはあまりない。
自分は不真面目な方ではないと、誠自身分かっているので、親もうるさくないのだ。だから今回も大丈夫だろうと、高を括ってみようとも思ったが。
「母さん、俺、誠。あのさぁ、今日、真也んちに泊まることになった」
『そうなの、お家の方にご迷惑にならない? なんなら家からもちゃんとお礼言わないと』
やはり渋りはしたが、しつこくは訊いてこない。
「大丈夫だよ、迷惑はかけないから、それに家の人は今日留守なんだって」
『そう、じゃあ明日は帰ってくるの?』
「帰るよ、じゃあね」
彼女と秘密のお泊りをするわけでもないのに、なんでこんなウソをつかなきゃいけないんだと、ドッと疲れが体中を駆け巡り始めた。次に、真也の番号を出して、電話を掛ける。
『おお、なんだよ、珍しいな、電話とか』
「そうか? でさぁ、今日、お前んちに泊まってることにしてくんない」
『ハァ?』
突然、真也の声が吊り上った。無理もないだろう、逆の立場だったら誠も同じ反応をしているだろう。
「いや、ごめん、ちょっとね。出かけた先でバスがなくなって」
『どこに行ってんだよ、っていうかまだ六時じゃん、もうバスがない所って何処だよ』
意外に真也が鋭くツッコんでくるので、誠は苦笑いしかでてこなかった。
「ちょっと滝を見に」
『ハァ? 滝? って山奥の? なんでそんな所にいるんだよ、まさか滝デート?』
「全然違うけど、まぁ、それでもいいや」
さらに苦笑いしか出てこない。こんな友人がいて、本当に恵まれていると、つくづく誠は何かに感謝した。
『まさか、例の夢のやつでか? お前最近付き合い悪いしさ、帰りとか絶対先に消えるしさ、夢なんかほっとけよ、取りつかれたみたいに滝まで行くかよ、フツー』
真也の口調が次第に苛立ってきた。本気で心配してくれているのは重々承知している。
「帰ってから説明するよ、今晩だけはよろしくな、じゃあ学校でな」
『ああ、じゃあな』
不貞腐れた感じで真也は電話を切った。
画面が暗くなった携帯を畳の上に放った誠は、ぐたっと仰向けに横になった。説明してほしいのはこっちだよ、と心の内で呟いた。
「気を付けてね」そう言った彼女の声が、頭の中で何度も再生されていた。
窓を開けて眠ったら、鳥の鳴き声がうるさくて誠は目を覚ました。
遮光カーテンの外側からうっすら朝焼けが見える。
布団から這い出て、ぼんやりカーテンをめくってみると、まだ夜明け前だった。夜明け前に目が覚めるなんて、普段ならあり得ないことだが、『花見酒』のことを気にしていたせいかもしれない。
「ったく」と舌打ちしながら、誠は上着を着て、部屋を出た。
静まり返った中で、一階の厨房らしき奥の方からはカチャカチャと食器が当たる音だったり、人の声がした。
横目で通り過ぎて、誠は民宿から表に出た。
少し肌寒い気がしたが、清々しさで胸がいっぱいになった。滝の飛沫音が静寂な集落の中にこだましていた。
そのまま歩いて、昨日居眠りをした場所まで行く。
さすがに観光客の姿も、住民の姿もなかった。川岸まで降りられる階段まで来たとき、滝つぼ近くの川岸に何か白い物体を見つけて、誠は目を凝らした。
白い物体とはまだ距離があるが、人より数段大きい。縦にではなく横に長いのだ。さらによく見ると、白いものは犬や猫みたいな毛並だと分かった。
巨大な生き物だと分かった瞬間、誠はその場で固まった。握った拳が震えて、どうすれば良いのか、頭の中が真っ白になった。
ヒラッと動いたのは尻尾だった。巨大な白い犬が、前足に顎を乗せてのんびり眠っているように見えた。だが白いそいつは三角耳をピクッと動かして、ゆっくり瞼を持ち上げた。
ウソだろ、と誠は全身の毛を逆立てるほどに、すくみ上った。
白くて巨大な犬はこちらの気配に気づいて、上半身を上げた。顔をこちらに向けると、しばらくジッと見つめられた。
「頼みごとがあるなら、こっちへ来たらどうだ」
口を閉じたまましゃべったような、低くこもった声が、冷えた空気を振動させて、誠の耳まで届いた。
ゴクリと生唾を飲み込んだ誠は、恐る恐る足を踏み出し、丸い石だらけの川岸へ降りた。膝をガクガク震わせながら白くて巨大な犬の近くへ歩み寄った。
とんでもなく艶やかな毛並は雪のようだ。犬の瞳は琥珀色だが、顔の大きさは大の大人が両手をいっぱいに広げても間に合わないぐらいに、巨大だった。もちろん胴体も頭の何倍もデカかった。
「で、何しに来た、昨日は一日中ここにいたようだが」
誠は一瞬、ゾクリとした。見透かされているような気がして、琥珀色の瞳から目が逸らせなくなった。
「は、はい」
「何故だ」
「それは、あの『花見酒』を貰いに来ました。持っているなら、分けてもらうだけでもいいんです。お願いします」
意外とすらすら言葉が出てきた。それ以上に、自分が懸命に頼み込んでいる現実に誠は驚いた。
未だに正体不明のあの二人の為に、懸命になっている。民宿にまで泊まって、巨大な犬を目の前にしてまで、『花見酒』を手に入れたいと思っているのは本心だと、誠は気づいていた。
少女の喜ぶ顔を素直に思い描いていたのだ。もう一度、あの笑顔が見たくて。会いたい。
「何故だ」
また同じ質問をされたと思った。
「えっと、必要なんです。それがないと、ある人に会えないから」
「それは口実だ。真に必要な理由を言え」
「真に必要な理由?」と繰り返した誠は、険しく眉根を寄せた。
取って来いと猫に頼まれたと、素直に白状した方がいいんだろうかと、迷った。妖怪の類かもしれない『彼ら』に理由を聞かれたのは初めてだった。
「あの、頼まれたんです、『花見酒』を入手してきてくれと。だから、必要なんです」
見透かされているなら、黙っていても始まらない。
すると、巨大な犬はゆっくり瞬きをして、睨むように瞼を細く開けた。
「お前は『花見酒』がどのような物なのか知っていて、私に分けてくれと言っているのか」
「い、いえ、どんな物かは知りませんが、お酒、だと思います」
何故そんな質問がきたのか理解できず、誠は猫がしゃべった内容を必死に思い出そうとした。
だが『花見酒』について何か言っていた記憶はまったく思い出せなかった。いや、猫は「取ってこい」としか言っていないのだ。
「どんなものか、知らずに、しかも依頼主から『花見酒』の用途を訊かずに、ここまで来たというのか」
図星し過ぎて、誠はどう答えてよいか分からず口をつぐんだままだった。
「帰れ、私はそこまで甘くない。お前は、我々に好かれるだろう、お前の持っている「仁」が我々を引き寄せる、だからこそ浅はかになるな」
すると巨大な犬の体が半透明になると、最後に琥珀色の瞳の輝きを残して姿を消した。
「えっ、ちょ、え? 収穫なしってこと」
ここまできて、しかも一泊までして入手できなかった。しかもついさっき気づいたことだが、『花見酒』を入手した晩でなければ、少女と猫に会えないのだ。それ以外の夜は、一度も少女と猫が出てくる夢を見ない。
『花見酒』が何なのか、知る必要がある。でも少女と猫に会えないとなると、もう手は一つしかない。
白くて巨大な犬が鎮座していた滝を眺めてから、誠は民宿へと戻った。
「で、理由を聞かせてもらおうか」
登校してくるなり真也が詰め寄ってきた。
意外としつこい友人に嬉しくもあったが、誠は複雑な面持ちで椅子にもたれかかった。
「理由って、だから滝まで行ったらそこで寝ちゃって、バスがなくなったんだ」
「それは分かったから、何で滝まで行ったんだよ、ぶらりバスの途中下車か?」
「だーかーらーぁ……」
頭をかく誠は、腹をくくるしかないかなぁと苦汁を飲み込んで、真也を横目で見遣った。
「畔戸朱香にそっくりな女子と猫が夢に出てきて、『花見酒』を取ってこいって指図するんだ。取に行く場所は毎回ばらばらだけど、地元からはそう遠くはない。だから土曜に行った滝もそれ目当てだよ」
机に肘をついて唖然とした顔で話を聞いていた真也は、「はぁー、マジか」とぼんやり呟いた。
「べつに、信じなくてもいいけど、俺だっていまだに半信半疑なんだから」
誠も同じように机に肘をついて、手の甲に顎を載せた。こんな話ができるのは真也相手ぐらいだろうなと、つくづく確信させられた。
しばらく黙っていた真也は、教室を眺めたまま「確かになぁ」ともらした。
「でもさぁ、畔戸朱香が夢の中の女子とは限らないだろ、ただのそっくりサンかもしれないだろ」
「だから確かめてみる」
「はぁ」と真也は目を丸くして、上半身だけグイッと向けてきた。
「まさか、直接訊くのか?」
「そうだよ、そうするしかないじゃん」
自棄になる誠は、悪気はないが真也に対して怒鳴り口調になった。
「『花見酒』を入手しないと、その子と猫が出てくる夢を見ないんだ、だから畔戸朱香に直接聞く」
他人事だが一応心配してくれている真也に、当たってしまった罪悪感を感じて、誠は冷静に取り繕った。
「あっそう、よく分からんけどさ、俺は完全に外野みたいだからさ、納得するまでやってみれば」
鼻で笑った真也は納得したのか、いつものように壁に寄りかかり、ふんぞり返った。
窓際の席だが、真也の横にはちょうどコンクリートの柱が通っていたので、いつも背もたれにしている。
誠は真也の後ろだが窓が真横にあるので、授業中も外を眺め放題で、ある意味集中できない場所だ。
「で、いつ声掛けんの、俺がそばで見守っててやろうか?」
今にも吹き出しそうなニヤついた顔を向けてきた。
「お前には教えない、絶対!」
「なんだよ、ケチー」
ガクッと肩を脱力させ、また壁に寄りかかった。
放課後、校舎の北側にあるグランドへやって来た。
本当は昼休みに声を掛けるつもりだったが、畔戸朱香は相変わらず友人たちに囲まれていたので、結局放課後にまで持ち越してしまった。
陸上部は女子も男子も混じって、百メートルダッシュの練習をしていた。だが、全員ではない。数人はグランド隅で砲丸投げの練習をしていたり、他数人はグランドをひたすら周回していたりしていた。
畔戸朱香はすぐに見つかった。彼女は、百メートルダッシュに励んでいた。
彼女だけ異様に白く、ちょっと茶色味のある髪は後頭部で一つに結われていた。大きな瞳が彼女とよく似ていた。笑った顔も、背格好も雰囲気も、瓜二つだ。膝にある大きな傷跡も、ぴったり同じだ。
見付けられたのはいいが、畔戸朱香にいつ声を掛ければいいのだろうか。
休憩時間は必ずある、それがダメなら、部活が終わり部室へ戻る途中でもいいかもしれない、と考えながら誠は適当な木陰に入って、花壇に使われているコンクリートブロックに尻を付けた。
一時間ほど眺めていると、やはり休憩に入った。
陸上部員がそれぞれ自由に移動し始めた。木陰で休む者や、部室へ戻る者、そんな中で畔戸朱香は部員に何かを言うと、誠の方へと歩いてきた。まさかの行動に、ハッと立ち上がった誠は心の準備も追いつかないまま、オロオロと戸惑った。
自分の所に来ると思っていると、畔戸朱香は誠を通り過ぎて、さらに向こうのお手洗いへと入って行った。
「なんだ、ビックリした」
一先ずは安心したが、出てきたら声を掛けなくてはと、誠は拳を作って自分を叱咤した。
数分後に畔戸朱香はお手洗いから出てきた。来た道をまっすぐ戻ってくる、ゴクリと唾を飲み込んだ誠は自分から歩み寄って、「あの」と若干震える声で畔戸朱香の足を止めた。
「あの、君は畔戸朱香さん、ですよね」
二、三度瞬きした彼女は「そうだけど」と透る声で返事をした。
訊かないと夢の事、決めていたフレーズを脳内でリピートしていた誠だったが、いざとなると喉に詰まる。
「き、君と……えっと、だから、そうだ、『花見酒』、を知ってる? 聞いたことあるか」
心臓が口から飛び出そうだった。探偵にでもなった気分だ、だがこんなどぎまぎした探偵なんていないだろうなと、誠は自分に蹴りを入れたいぐらい情けなかった。
「知ってるよ、誠くん」
また心臓が飛び上がった。一瞬、呼吸を忘れて、誠は双眸を見開いた。
「やっぱり君が、桜の下で猫と一緒に杯を持ってた人」
汗ばんだ肌を首に掛けたタオルで拭きながら、にやりと笑った畔戸朱香は「うん」と頷いた。
「猫って言わないで、あの子の名前は、雉丸(きじまる)っていうの」
ほがらかな口調だった。柔らかすぎて、くにゃっと誠はニヤけたくなった。猫の名前など右から左だ。
「今晩、美濃の根公園に来て、東端に立ってる桜の木の下にいるから」
口角をきゅっと上げて笑顔を作った畔戸朱香は、部員の元へと歩いて行った。
ほんのり甘い香が揺れて、誠はまた鼓動を高鳴らせていた。
畔戸朱香が言っていた、美濃の根公園は誠の家から自転車で二十分の距離にある。微妙に遠い距離だ、行く途中には長丁場の上り坂があるので、さらにしんどい。
駐車場が北と南に設置されたかなり広い公園だ。木造のアスレチックや夏は水遊びもできる噴水広場、公園の奥には陸上競技ができるトラック設備やテニスコート、弓道場、体育館がある。
森林浴が楽しめる遊歩道も作られているので、花見の季節や、紅葉の季節になると地方からも観光客が集まってくる。
公園の東側は桜がメインに植えられているのは誠も知っていた。中学に上がる前までは、よく家族と花見をしに来ていた。
中学に上がり弓道部に入部してからは、土日も試合や練習で家にいない日が多かった。上手くなかったので、高校に上がってまで続けようとは思わなかった。
そんな過去を思い返しながら自転車をこいでいると、「ちょっと待ち、自転車小僧」とどすの利いた声で止められた。
急ブレーキを掛けた誠は、背中にゾワリと寒気が走って、横目で気配を確認した。
恐々見遣った先には、スキンヘッドになんだかよく分からない模様の入れ墨をした男と、金髪を肩口で揺らしているやたらに美形の男が立っていた。
「おわっ」と小さく声を出して驚いた誠は、対照的な二人を交互に見ながら、「ハイ」と返事をした。
「お前か、最近『花見酒』を掻き集めてる小僧は」
スキンヘッドの男が噛み付くように声を張った。
一瞬ドキリとした誠はハンドルから手が離せず、地に足を付けている爪先までジンジン痺れた。
「どうなんだ!」と怒鳴られたと同時に、誠は肩に力が入った。
「お、俺ですが、なんですか」
「今後一切、『花見酒』を彼女に渡すことは止めていただきたい、それと彼女の居場所を教えてくれ」
今度は金髪の男が丁寧に頼み込んできた。
考えるまでもなく、彼女とは畔戸朱香だろうと確信した。
まさに今向かっていた先に畔戸朱香がいるとは、口を避けても言いたくない。
「知りません」
この男二人の存在感に現実味がないのは容姿が異様だから、だけではなくやはり人ではない感じがしたからだ。
つまり『花見酒』を持っていた『彼ら』と同じだと思えば、鼻を摘まみたくなるような異質的な空気にも、なんとか臆することもなくなった。
「知ってるだろ! あいつは罪を犯したんだぞ! 『花見酒』を飲むことでこっち側に留まってる奴だ」
スキンヘッドの男はやたらに怒鳴ってくる。周り近所にもさぞ響き渡ってるに違いないだろうが、誰一人、様子を窺いに来る住民はいない。
「罪って、なんですか?」
意味が分からず誠は無意識的に訊ねていた。
「向こう側の住人は、こちら側に来て人に接触することは禁止されています、ましてや人に化け、学校の生徒に成りすますなど言語道断。『花見酒』を飲み続けていれば、こちら側に留まることができ、尚且つ連れ戻される心配もありません。そういう呪が掛かるのです」
滑舌の良い金髪男が並べた言葉の半分も、誠は理解できなかった、というより聞き取れなかった。
困惑するだけの誠は「へぇ?」と眉をゆがめたまま、「向こう側?」と首をかしげた。
「お前は犯罪者に手を貸してるんだぞ! 居場所を吐かなければ、これからもお前につきまとうからな!」
殴ることができない衝動を拳に込めているスキンヘッドの男は、血走った目で誠を睨みつけた。
「本当に知りませんか?」
知らないと答えても尾行されたら一発でバレてしまう。でも、誠は明かしたくなかった。
『花見酒』も入手できなかったなら、畔戸朱香は『向こう側』と呼ばれている場所へ戻されるのだ。それだけは理解できた誠は、グッとハンドルを握った。
「知りません、それに犯罪者に手を貸したと言われても、俺はそもそも向こう側の住人じゃないから、手を貸そうが何しようが俺には関係ありません」
言い放った誠はペダルをこいで、逃げるようにその場から去った。
そのまま美濃の根公園に向かうのは、奴らに居場所を突き止められる可能性があるので、一度迂回て自宅へ戻った。
翌日、誠は畔戸朱香がいる隣の教室まで訪れ、彼女を呼び出した。もちろん周りの視線が興味津々に二人に注がれた。
教室が連なる廊下から離れて、吹き抜けになっている廊下まで出てきた。
「呼び出してゴメン、それと昨日はゴメン、公園に行けなくて」
呼び出したものの、畔戸朱香の顔が見られず、誠の視線は常に斜め下だった。
「待ってたのに、どうして来てくれなかったの?」
どこか寂しげな口調に、誠の鼓動は高鳴る。なんだか恋人同士みたいな会話に、顔面が一気に熱くなった。ただの勘違いだ、ただの妄想だ、と誠は自分を叱り正気を保たせた。
「それが変な男が二人、現れた。君は犯罪者だから、『花見酒』を渡すな、居場所を教えろって言ってきた。もちろん言わずにその場から逃げたよ、うちの学校の生徒に成りすましてるって、どういうこと」
そこでやっと誠は畔戸朱香の顔を見ることができた。
彼女は少しだけ眉間にしわを寄せていた。すると糸がほころぶように、儚げに微笑んだ。
「そっか、バレちゃったんだ、ゴメンね黙ってて」
「別にそんなのいいって、ただ『花見酒』がないとこちら側に居られないって、本当?」
ますます眉間のしわが深くなり、ついに畔戸朱香は視線を落とした。
「本当よ、だから君に頼んだの。君なら、『花見酒』を無事に持ってきてくれるって、思ったから。私に手を差し伸べてくれた君だから。皆も、君になら『花見酒』を分けてあげようと思ったのは、……そんな君だからだよ」
何度も『君』と連呼されたのは初めてかもしれない、くすぐったい感覚が誠の背筋に走った。
「俺は別に何も、っていうか、君に手を差し伸べたって、何の話?」
解せない点を見つけて、誠は俯く彼女を少しだけ覗き込んだ。白い肌が、艶のある黒髪に良く映えていた。
「雨の日だった、私はまだ自転車に慣れてなくて、西門の手前で滑って転んだの。そこに君が通りかかって、起き上がるのを手伝ってくれた。通りかかる人は皆、そのまま通り過ぎたけど、君だけは足を止めてくれた」
薄ピンク色の唇を小さく動かす畔戸朱香は、スカートのポケットから一つのハンカチを取り出した。
誠はハッと体を引いた。見覚えのあるハンカチに、記憶が呼び起される。
その日は遅刻しそうで、猛烈に急いでいた。だが、西門の前でびしょ濡れになりながら、自転車を起こそうとしていた人を見つけたので、遅刻を覚悟した誠はヤケクソ状態で手を貸したのだ。
それがまさか、こんな形で返ってこようとは。
「思い出した? 膝をすりむいていたのを見て、君がハンカチを貸してくれたから、夢に呼ぶこともできた」
だから膝に傷跡があったのかと、誠は納得した、というより思い出した。
畔戸朱香はハンカチを大事そうに両手で掴んでから、差し出した。
「もう必要なさそうだから、ありがとう」
顔を上げたが、彼女は目を合わせようとはせず、目じりに溜まった露をこぼさないように踏ん張っていた。
誠はハンカチに手を伸ばさなかった、伸ばしたくなかった。畔戸朱香の涙も見たくなかった。
「それはあげる、だからこれからも俺を夢の中に呼んでよ」
大きな瞳が上を向いて、目が合った。
「『花見酒』は俺が取りに行く、それに君が突然いなくなったら、みんな驚くし、心配するだろ」
誠が苦笑いすると、畔戸朱香の口端が引き攣るように笑んだ。
「それなら大丈夫、私はここの生徒に成りすます時、皆の記憶を書き換えたの。私が元々ここの生徒だったという記憶を、だから私が向こう側へ帰れば、元々いなかった記憶に戻るだけ」
「それじゃあ、俺も君を忘れるってこと」
「そうだね」
綿毛がふわりと風に舞うように、畔戸朱香は笑うものだから、誠は奥歯を噛みしめ込み上がった苛立ちを必死に抑えた。
「そんなの納得できるわけないだろ、俺が『花見酒』を持ってくる」
「もういいの、気持ちは嬉しい、これ以上動いたら、君は危険な目に遭うかもしれない。彼らはいざとなれば君にも手を出す、そんなことさせたくない。巻き込んじゃってごめんなさい」
頭を垂れた畔戸朱香の目尻から、ついに露がぽろぽろ零れ落ちた。
女子が校舎内で泣いているという大事件に、誰も気づくなよと、内心誠は気が気ではなかった。周りに人はいなかったが、それでも女子を泣かせた罪深い男子と思われたくない。
「そんなことないって、これから先は俺の我が儘だから、君が気にすることないって、『花見酒』を取ってくる」
それでも畔戸朱香は首を横に振った。
「こうしてこちら側を満喫できて嬉しかったから、それにずっと君に逢いたかったから。美濃の根公園の弓道場で、初めて君を見てからずっと会いたくて、まさか転んだところに君が通りかかるなんて予想もしてなかった。ずっと好きだった」
たぶん告白をされているんだな、と理解できたのは畔戸朱香が話し終って、五秒は経ってからだった。
唾が喉に詰まって誠は思わず咳き込んだ。
胸の奥で苦しいぐらいに鼓動が高鳴る。妄想ではない、とんでもない現実に誠はどう対応して良いか分からず、思考回路が停止寸前だ。
それでもまた解せない点が浮上して、熱くなった額を掻きながら声を震わせた。
「で、でも俺は君に会うの初めてなんだけど、しかも弓道してたの中学の時だよ?」
急に色々告白され、何が何だか分からなくなってきた誠は頭を掻くしかなかった。
「うん、知ってる、私はこちらとあちらを自由に行き来できるけど、こちら側にずっといることはできない。でも行きたい所には行けるの、幽霊じゃないから」
じゃあ妖怪か? とはちょっと確認しづらかったが、まあそうだろうなと勝手に納得した。
「美濃の根公園の桜の木と私は繋がりがあって、その桜の木が出入り口になってるの、それで弓の練習をしていた君を見つけたの」
顔を背けた畔戸朱香は教室へ向かって歩き始めた。
何かを言いたいのに、引き留める勇気も振り絞れない自分に、誠は無性に腹が立った。畔戸朱香は自分の気持ちをさらけ出したのに、それどころか誠に逢いに来るために罪を犯しているというのに、どうして逃げ腰になるのか誠は自分で自分が理解できなかった。
何か、何か出来ることはないかと、誠はフル回転で思考を巡らせた。
「俺は!」
言えた、後はもう勢いに任せて言うしかないと、誠は自分に叱咤する。
「このままさよならはさせない、だから『花見酒』を持って――」、と誠が話している途中だったが、畔戸朱香が無理やり言葉を挟んだ。
「美濃の根公園の東端の桜の下に来て、待ってるから」
くるっと振り返った畔戸朱香は、桜の薄ピンク色みたいに柔らかく笑むと、くるっと向き直って歩いて行った。