「『花見酒』だにゃぁ! お前の人を見極める目ぇは正しかったようだにゃ」
猫は少女を見上げながら、嬉しそうに例の壺を抱えていた。壺の蓋を開けると、ひょうたんの中へ流し込んだ。
猫が肉球の手でよく壺を持てるなと、誠は感心しながらその光景を見つめていた。
「空になった壺はどうするの」
素朴に疑問符が浮かんだ。
「どうするって、こんな貴重な壺、滅多に拝めにゃあよ、コレクションするにゃ」
「へぇー」と半分笑いながら誠は口端を引き攣らせた。誰のおかげで入手できたのか、少しは感謝してほしい。
「あの、ところで名前教えてよ、まだ聞いてない気がする」
早速、杯で酒を酌み交わし始めていた少女と猫は、同時にぴたりと止まった。
きゃっきゃとはしゃいでいた少女は、どことなく不安げに眉根を寄せていた。
「えーっと……」
「さー、小僧! 次の場所だ!」
猫がフンと腕を上げると、少女の答えを聞く前に映像が頭の中に再生された。
どこなのか見当はつく。
「さっさと取ってこいにゃー」
それが人にものを頼む態度か、とイライラしながらも「わかったよ」、とスネ気味に強く言い返した。
それから、何度『花見酒』を取りに行かされたことか。そこで出くわす妖怪? なのか、何なのかよく分からない彼等は、潔くとまではいかないが、皆、『花見酒』をくれた。または、分けてくれた。
揚げ物をするにパン粉が足りないからと、近隣にパン粉を貰いに行くようなひどく懐かしい感覚を思い出して、これってパシリに使われているだけなんじゃないかと、誠は日に日に不満をつもらせた。
幼い頃、おそらくまだ十歳にも満たない頃、近所へパン粉を分けてもらいに行ったのは本当の話だ。昔の記憶をよみがえらせ、なぜ、自分は今こんなことをしているんだと、本気で直談判をしたくなってきた。
学校では、畔戸朱香を盗み見に行くたび、やはり杯を持った着物少女とそっくりだった。
髪の長さも、色も全然違う。畔戸朱香は黒髪で、ちょうど肩につく長さだ。でも大きな瞳も、笑窪ができる笑顔もまるで一緒だ。素朴感がありながらも、惹きつけられる雰囲気は人一倍持っている、気がする。
「やっぱり、あの子が好きなんだろ、でもさぁ、ちょっとレベル高くない? キレイだし、スタイルもいいし」
真也が意地悪っぽく肘で突いてきた。
「だから違うって」
「じゃあなんで何回も見に来るんだよ、言い訳してもムダだって」
「夢に出てくる子に似てるんだって、前に言ったじゃん」
「夢に何度も出てくるほど好きなんだ!」
これ以上何を言っても真也の妄想が覆りそうになかったので、誠は諦めてほっとくことにした。
「もう勝手にしろ」
そもそも何故、自分に頼むのだろうかと、訊きたいことは山ほどある。なのに、猫に指図されるまま『花見酒』という意味不明の酒を入手し続けている自分は、なんてお人好しなのだろうかと、誠は自分で自分を褒めたくなった。
教室の中で友達とおしゃべりをしている畔戸朱香は、周りを囲んでいる女子たちより均整が取れている顔立ちだ。顔がいいから付き合いたい、と思わないと言えばウソになるが、やはり外見だけで良し悪しをつけたくない。
でも恋に発展したら? 要らぬ妄想が悶々湧いてきて、誠はイカンイカンと下唇をかみしめた。
「真也って、何が切っ掛けで人を好きになる?」
「なんだよ急に、切っ掛けかぁ、やっぱり顔?」
正直な友人に、ある意味、悔しさを感じた。素直に「顔」という真也に、罪悪感がないところも悔しい。
「顔」と言えば、少なからずは「人としてどうなのだろうか?」と、イヤでも葛藤させられる。それが真也の中でなさそうなのも、また羨ましい。
「そりゃあ第一印象ってのはあるだろ、それで何かを切っ掛けに話す時があって、それからも偶然何回か話すようになれば、やっぱり好きになるんじゃないか」
まともな回答が真面目に返ってきて、「あーそうかぁ」と誠もしみじみ受け取った。
「何回か話すか」
あの子は猫と酒を飲んでいるばっかりで、まともに話したことはあっただろうかと思い返す。
頼んでくるのはいつも猫で、いまだに名前さえ聞き出せていない。寧ろ、少女が目を合わせようとしてくれない。誠は必要以上に少女の顔を見つめているが、適度に潤んだ大きな瞳とまともに数秒間、見つめ合ったことがない。
目があっても直ぐに逸らしてしまう。嫌われているんじゃないかとさえ思う。
「で、次はどこに取りに行かされるんでしょうか」
嫌味交じりに誠は猫に訊ねた。
花が満開の桜の木は、粉雪を散らせるかのごとく、いつまでも花びらを降らせていた。かなり長い間咲いている気がする、なのにいつまでも葉桜にならないのは、やはりここが夢の中なのかもしれないが、否に現実味が強すぎた。
「ほぉ、進んで訊いてきてくれるとは、成長したにゃぁ。次は、ここだ」
猫がフンと腕を出すと、眼前に映像が再生された。
川沿いに住宅が立ち並んでいる。商店街らしき先に滝が現れた。滝の近くには観光客用の宿泊施設が点在しているような風景だった。昔、見たことある景色だ。親が連れて行ってくれた場所とよく似ていた。
夏になると、涼みにくる観光客でにぎわう場所だ。しかも、誠の地元から車で北へ上がった山中の田舎町だったはずだ。
「まさか、今度はあそこまで取りに行けっていうのか!?」
「そうにゃ」
そうにゃ、じゃねえ! 心の中では言い返せるが、現実には怒鳴れない。
なぜか少女が見ている手前、カッコ悪いところは見せたくないなどという余計な見栄が、猫への反発を邪魔する。
「わかったよ、行けばいいんだろ、行けば」
嫌々ながらも素直に返事はした。猫から杯に酒を注がれている少女を横目に、踵を返した誠は、これでまた夢から目が覚めるのか、と胸の奥から息を押し出そうとした時。
「気を付けてね!」
声が飛んできてクルッと誠は振り返った。
猫の手を止めてさせて、少女は身を乗り出していた。
意外な光景に目を惹いた誠は、「う、うん」とシャキッとしない返事をした。そのまま何事もなかったかのように、向き直ろうとした足をピタッと止めた。
「今度は名前教えて」
声を張ったのと同時に、誠はぼんやり目を覚ました。
雨戸の隙間から朝日が差し込んでいた。鳥の鳴き声がうるさいぐらい聞こえて、少し静かにしてくれと本気で頼みたくなる。
でも今朝はそんなちっぽけな苛立ちも吹き飛んでいた。
「一歩前進の夢だったな」
にやにやが止まらなくて、誠はもう一度布団を被った。
土曜の午前十時前、誠はバスに乗った。
山奥行のバスだ。始めは堤防沿いを走っていたが、次第に山々が近づく。
切れることなく住宅や商店が続いていた。道幅も細くなり、両側に緑豊かな山が立ちはだかっていても、住宅も店もあるし、学校もある。ここに住む住民の生活感あふれる喧噪は、見ていて新鮮味を覚えた。
滝まではまだもう少し先だろう。
昨晩、ネットで誠の記憶にある滝について調べた。猫が映像で見せた滝が、今向かっている滝で合っているのか、一抹の不安はあった。
だが、今までの傾向からすると、とんでもなく遠くにあるわけではなさそうだ。どの『花見酒』も地元圏内で入手できた。なぜどれも地元にあるのかは分からないが、パシリにされる方としては助かっている。
山中にある町中の道路はかろうじて車が二台通れる程度の幅しかない。
カーブがあるので、誠は外を眺めながらなんとか車酔いは防ごうと、へそ辺りに力だけは入れていた。
次第に、右側に川が流れる光景に変わった。
幅はかなり広い。向こう側は、雑木林が生い茂る山の斜面だ。
川の流れは、向かう方とは逆へ流れていく。透明色から、澄んだ青へと川の深さが増していく。
滝が近くなってきた予感がして、誠は少々緊張してきた。
カーブの先に広い橋が見えた、橋の先には民宿らしき建物が数件軒を連ねていた。バスが橋を渡ると、ちょうど右方向の正面に、落差十メートルはありそうな滝が現れた。
滝つぼの深い青さに感嘆なため息が押し出された。まだ、川で泳ぐには少し肌寒いかもしれない、だが滝つぼの水はそれ以上に、凍えるほど冷たそうだ。
バスはちょっと古そうな民宿の前で停車した。
土曜ということもあり、何十人かの観光客がぞろぞろバスから降りた。誠は最後の方でバスを降りた。
空気の循環が止まったバスから解放されると、外は異常なぐらい清々しかった。滝も近いせいか、空気が少しひんやりしている。これがマイナスイオンかぁと、しみじみと肺に新鮮な空気を送り込む。
バスから降りた人たちは、滝の方へと道路を下って行く。または民宿に入ったり、お土産屋に入ったりと様々だった。
誠は滝と『花見酒』だけが目的だったので、まっすぐ滝へと向かった。
民宿やお土産屋沿いの道路を下った先に、滝つぼのある川岸まで降りられる階段があった。ここまで来ると、水が落下する豪快な水しぶき音にも迫力が増す。
この滝が県内で有名なのは落差だけではなく、白糸のような細い滝がカーテンのように流れ落ちている様が有名なのだ。
家族連れの観光客が多かった。小学生ぐらいの子供は、川岸まで行ってぴしゃぴしゃ水で遊んでいた。
「どこに『花見酒』があるっていうんだよ」
押し出したような独り言は、滝が発する音色でかき消された。
誠も川岸に降りて、滝つぼ近くまで近寄った。やっぱり肌寒い、水しぶきも飛んできて、真夏なら絶好の避暑地だ。
どうすることもできず誠は立ち尽くした。今まで『花見酒』があった場所には、人ではない生き物? はいたが、ここまで人がいたことはない。
人が引くのを待つしかないのかと、誠は階段まで戻り、腰を下ろしてぼう然と滝を眺めた。
「君、ちょっと君、起きなさい、君」
体を揺すっられているのに気づいた誠は、ハッと顔を上げた。
膝を抱えていた腕にぴったり顔を付けていたらしく、顔半分がヒリヒリした。おまけに腕にも顔にもよだれがベッタリ張り付いていた。
「君いつからここにいるんだ?」
「え?」と眠気眼をぼんやりと上げた。あたりは既に薄暗くなっていたので、体を揺らして起こしてくれたオジさんは、訝しげに顔をひそめていた。
「どこからきた、バスできたなら、ついさっき最後のが出たよ」
「え! そうなんですか」
飛び起きた誠は、民宿前のバス停を見つめてから、ガックリ肩を落とした。
「もっと早く気付いてやればよかったなぁ」
後頭部を掻いたオジさんは、自分のことのように困り果てた様子でうろたえていた。オジさんに気を取られて、逆に誠は冷静になっていた。
こうなったら民宿に泊まるしかないか、と覚悟を決めたとき、「それなら」とオジさんが声のトーンを上げた。
「うちの民宿にきなよ、学生さんだろ、学生割引してあげるよ。帰れないんじゃあ、泊まるしかないしな」
「本当ですか! ありがとうございます!」
生き返ったような気分だ。飛び跳ねて喜びたいところだったが、誠はペコペコ頭を下げた。
「すぐそこだから」の台詞通り、滝の音がよく聞こえる所に建っていた民宿だった。
部屋に案内され、食事の用意ができたら呼びに来るからと言って、オジさんは笑顔で去って行った。
とりあえず家に連絡しなくてはと、携帯をカバンから取り出した。だが、一人で民宿に泊まると言ったら、さすがに心配するかもしれない。口うるさい親ではない、放任主義ではないが、勉強をしろとも、帰りが遅いとも言われたことはあまりない。
自分は不真面目な方ではないと、誠自身分かっているので、親もうるさくないのだ。だから今回も大丈夫だろうと、高を括ってみようとも思ったが。
「母さん、俺、誠。あのさぁ、今日、真也んちに泊まることになった」
『そうなの、お家の方にご迷惑にならない? なんなら家からもちゃんとお礼言わないと』
やはり渋りはしたが、しつこくは訊いてこない。
「大丈夫だよ、迷惑はかけないから、それに家の人は今日留守なんだって」
『そう、じゃあ明日は帰ってくるの?』
「帰るよ、じゃあね」
彼女と秘密のお泊りをするわけでもないのに、なんでこんなウソをつかなきゃいけないんだと、ドッと疲れが体中を駆け巡り始めた。次に、真也の番号を出して、電話を掛ける。
『おお、なんだよ、珍しいな、電話とか』
「そうか? でさぁ、今日、お前んちに泊まってることにしてくんない」
『ハァ?』
突然、真也の声が吊り上った。無理もないだろう、逆の立場だったら誠も同じ反応をしているだろう。
「いや、ごめん、ちょっとね。出かけた先でバスがなくなって」
『どこに行ってんだよ、っていうかまだ六時じゃん、もうバスがない所って何処だよ』
意外に真也が鋭くツッコんでくるので、誠は苦笑いしかでてこなかった。
「ちょっと滝を見に」
『ハァ? 滝? って山奥の? なんでそんな所にいるんだよ、まさか滝デート?』
「全然違うけど、まぁ、それでもいいや」
さらに苦笑いしか出てこない。こんな友人がいて、本当に恵まれていると、つくづく誠は何かに感謝した。
『まさか、例の夢のやつでか? お前最近付き合い悪いしさ、帰りとか絶対先に消えるしさ、夢なんかほっとけよ、取りつかれたみたいに滝まで行くかよ、フツー』
真也の口調が次第に苛立ってきた。本気で心配してくれているのは重々承知している。
「帰ってから説明するよ、今晩だけはよろしくな、じゃあ学校でな」
『ああ、じゃあな』
不貞腐れた感じで真也は電話を切った。
画面が暗くなった携帯を畳の上に放った誠は、ぐたっと仰向けに横になった。説明してほしいのはこっちだよ、と心の内で呟いた。
「気を付けてね」そう言った彼女の声が、頭の中で何度も再生されていた。
窓を開けて眠ったら、鳥の鳴き声がうるさくて誠は目を覚ました。
遮光カーテンの外側からうっすら朝焼けが見える。
布団から這い出て、ぼんやりカーテンをめくってみると、まだ夜明け前だった。夜明け前に目が覚めるなんて、普段ならあり得ないことだが、『花見酒』のことを気にしていたせいかもしれない。
「ったく」と舌打ちしながら、誠は上着を着て、部屋を出た。
静まり返った中で、一階の厨房らしき奥の方からはカチャカチャと食器が当たる音だったり、人の声がした。
横目で通り過ぎて、誠は民宿から表に出た。
少し肌寒い気がしたが、清々しさで胸がいっぱいになった。滝の飛沫音が静寂な集落の中にこだましていた。
そのまま歩いて、昨日居眠りをした場所まで行く。
さすがに観光客の姿も、住民の姿もなかった。川岸まで降りられる階段まで来たとき、滝つぼ近くの川岸に何か白い物体を見つけて、誠は目を凝らした。
白い物体とはまだ距離があるが、人より数段大きい。縦にではなく横に長いのだ。さらによく見ると、白いものは犬や猫みたいな毛並だと分かった。
巨大な生き物だと分かった瞬間、誠はその場で固まった。握った拳が震えて、どうすれば良いのか、頭の中が真っ白になった。
ヒラッと動いたのは尻尾だった。巨大な白い犬が、前足に顎を乗せてのんびり眠っているように見えた。だが白いそいつは三角耳をピクッと動かして、ゆっくり瞼を持ち上げた。
ウソだろ、と誠は全身の毛を逆立てるほどに、すくみ上った。
白くて巨大な犬はこちらの気配に気づいて、上半身を上げた。顔をこちらに向けると、しばらくジッと見つめられた。
「頼みごとがあるなら、こっちへ来たらどうだ」
口を閉じたまましゃべったような、低くこもった声が、冷えた空気を振動させて、誠の耳まで届いた。
ゴクリと生唾を飲み込んだ誠は、恐る恐る足を踏み出し、丸い石だらけの川岸へ降りた。膝をガクガク震わせながら白くて巨大な犬の近くへ歩み寄った。
とんでもなく艶やかな毛並は雪のようだ。犬の瞳は琥珀色だが、顔の大きさは大の大人が両手をいっぱいに広げても間に合わないぐらいに、巨大だった。もちろん胴体も頭の何倍もデカかった。
「で、何しに来た、昨日は一日中ここにいたようだが」
誠は一瞬、ゾクリとした。見透かされているような気がして、琥珀色の瞳から目が逸らせなくなった。
「は、はい」
「何故だ」
「それは、あの『花見酒』を貰いに来ました。持っているなら、分けてもらうだけでもいいんです。お願いします」
意外とすらすら言葉が出てきた。それ以上に、自分が懸命に頼み込んでいる現実に誠は驚いた。
未だに正体不明のあの二人の為に、懸命になっている。民宿にまで泊まって、巨大な犬を目の前にしてまで、『花見酒』を手に入れたいと思っているのは本心だと、誠は気づいていた。
少女の喜ぶ顔を素直に思い描いていたのだ。もう一度、あの笑顔が見たくて。会いたい。
「何故だ」
また同じ質問をされたと思った。
「えっと、必要なんです。それがないと、ある人に会えないから」
「それは口実だ。真に必要な理由を言え」
「真に必要な理由?」と繰り返した誠は、険しく眉根を寄せた。
取って来いと猫に頼まれたと、素直に白状した方がいいんだろうかと、迷った。妖怪の類かもしれない『彼ら』に理由を聞かれたのは初めてだった。
「あの、頼まれたんです、『花見酒』を入手してきてくれと。だから、必要なんです」
見透かされているなら、黙っていても始まらない。
すると、巨大な犬はゆっくり瞬きをして、睨むように瞼を細く開けた。
「お前は『花見酒』がどのような物なのか知っていて、私に分けてくれと言っているのか」
「い、いえ、どんな物かは知りませんが、お酒、だと思います」
何故そんな質問がきたのか理解できず、誠は猫がしゃべった内容を必死に思い出そうとした。
だが『花見酒』について何か言っていた記憶はまったく思い出せなかった。いや、猫は「取ってこい」としか言っていないのだ。
「どんなものか、知らずに、しかも依頼主から『花見酒』の用途を訊かずに、ここまで来たというのか」
図星し過ぎて、誠はどう答えてよいか分からず口をつぐんだままだった。
「帰れ、私はそこまで甘くない。お前は、我々に好かれるだろう、お前の持っている「仁」が我々を引き寄せる、だからこそ浅はかになるな」
すると巨大な犬の体が半透明になると、最後に琥珀色の瞳の輝きを残して姿を消した。
「えっ、ちょ、え? 収穫なしってこと」
ここまできて、しかも一泊までして入手できなかった。しかもついさっき気づいたことだが、『花見酒』を入手した晩でなければ、少女と猫に会えないのだ。それ以外の夜は、一度も少女と猫が出てくる夢を見ない。
『花見酒』が何なのか、知る必要がある。でも少女と猫に会えないとなると、もう手は一つしかない。
白くて巨大な犬が鎮座していた滝を眺めてから、誠は民宿へと戻った。
「で、理由を聞かせてもらおうか」
登校してくるなり真也が詰め寄ってきた。
意外としつこい友人に嬉しくもあったが、誠は複雑な面持ちで椅子にもたれかかった。
「理由って、だから滝まで行ったらそこで寝ちゃって、バスがなくなったんだ」
「それは分かったから、何で滝まで行ったんだよ、ぶらりバスの途中下車か?」
「だーかーらーぁ……」
頭をかく誠は、腹をくくるしかないかなぁと苦汁を飲み込んで、真也を横目で見遣った。
「畔戸朱香にそっくりな女子と猫が夢に出てきて、『花見酒』を取ってこいって指図するんだ。取に行く場所は毎回ばらばらだけど、地元からはそう遠くはない。だから土曜に行った滝もそれ目当てだよ」
机に肘をついて唖然とした顔で話を聞いていた真也は、「はぁー、マジか」とぼんやり呟いた。
「べつに、信じなくてもいいけど、俺だっていまだに半信半疑なんだから」
誠も同じように机に肘をついて、手の甲に顎を載せた。こんな話ができるのは真也相手ぐらいだろうなと、つくづく確信させられた。
しばらく黙っていた真也は、教室を眺めたまま「確かになぁ」ともらした。
「でもさぁ、畔戸朱香が夢の中の女子とは限らないだろ、ただのそっくりサンかもしれないだろ」
「だから確かめてみる」
「はぁ」と真也は目を丸くして、上半身だけグイッと向けてきた。
「まさか、直接訊くのか?」
「そうだよ、そうするしかないじゃん」
自棄になる誠は、悪気はないが真也に対して怒鳴り口調になった。
「『花見酒』を入手しないと、その子と猫が出てくる夢を見ないんだ、だから畔戸朱香に直接聞く」
他人事だが一応心配してくれている真也に、当たってしまった罪悪感を感じて、誠は冷静に取り繕った。
「あっそう、よく分からんけどさ、俺は完全に外野みたいだからさ、納得するまでやってみれば」
鼻で笑った真也は納得したのか、いつものように壁に寄りかかり、ふんぞり返った。
窓際の席だが、真也の横にはちょうどコンクリートの柱が通っていたので、いつも背もたれにしている。
誠は真也の後ろだが窓が真横にあるので、授業中も外を眺め放題で、ある意味集中できない場所だ。
「で、いつ声掛けんの、俺がそばで見守っててやろうか?」
今にも吹き出しそうなニヤついた顔を向けてきた。
「お前には教えない、絶対!」
「なんだよ、ケチー」
ガクッと肩を脱力させ、また壁に寄りかかった。
放課後、校舎の北側にあるグランドへやって来た。
本当は昼休みに声を掛けるつもりだったが、畔戸朱香は相変わらず友人たちに囲まれていたので、結局放課後にまで持ち越してしまった。
陸上部は女子も男子も混じって、百メートルダッシュの練習をしていた。だが、全員ではない。数人はグランド隅で砲丸投げの練習をしていたり、他数人はグランドをひたすら周回していたりしていた。
畔戸朱香はすぐに見つかった。彼女は、百メートルダッシュに励んでいた。
彼女だけ異様に白く、ちょっと茶色味のある髪は後頭部で一つに結われていた。大きな瞳が彼女とよく似ていた。笑った顔も、背格好も雰囲気も、瓜二つだ。膝にある大きな傷跡も、ぴったり同じだ。
見付けられたのはいいが、畔戸朱香にいつ声を掛ければいいのだろうか。
休憩時間は必ずある、それがダメなら、部活が終わり部室へ戻る途中でもいいかもしれない、と考えながら誠は適当な木陰に入って、花壇に使われているコンクリートブロックに尻を付けた。
一時間ほど眺めていると、やはり休憩に入った。
陸上部員がそれぞれ自由に移動し始めた。木陰で休む者や、部室へ戻る者、そんな中で畔戸朱香は部員に何かを言うと、誠の方へと歩いてきた。まさかの行動に、ハッと立ち上がった誠は心の準備も追いつかないまま、オロオロと戸惑った。
自分の所に来ると思っていると、畔戸朱香は誠を通り過ぎて、さらに向こうのお手洗いへと入って行った。
「なんだ、ビックリした」
一先ずは安心したが、出てきたら声を掛けなくてはと、誠は拳を作って自分を叱咤した。
数分後に畔戸朱香はお手洗いから出てきた。来た道をまっすぐ戻ってくる、ゴクリと唾を飲み込んだ誠は自分から歩み寄って、「あの」と若干震える声で畔戸朱香の足を止めた。
「あの、君は畔戸朱香さん、ですよね」
二、三度瞬きした彼女は「そうだけど」と透る声で返事をした。
訊かないと夢の事、決めていたフレーズを脳内でリピートしていた誠だったが、いざとなると喉に詰まる。
「き、君と……えっと、だから、そうだ、『花見酒』、を知ってる? 聞いたことあるか」
心臓が口から飛び出そうだった。探偵にでもなった気分だ、だがこんなどぎまぎした探偵なんていないだろうなと、誠は自分に蹴りを入れたいぐらい情けなかった。
「知ってるよ、誠くん」
また心臓が飛び上がった。一瞬、呼吸を忘れて、誠は双眸を見開いた。
「やっぱり君が、桜の下で猫と一緒に杯を持ってた人」
汗ばんだ肌を首に掛けたタオルで拭きながら、にやりと笑った畔戸朱香は「うん」と頷いた。
「猫って言わないで、あの子の名前は、雉丸(きじまる)っていうの」
ほがらかな口調だった。柔らかすぎて、くにゃっと誠はニヤけたくなった。猫の名前など右から左だ。
「今晩、美濃の根公園に来て、東端に立ってる桜の木の下にいるから」
口角をきゅっと上げて笑顔を作った畔戸朱香は、部員の元へと歩いて行った。
ほんのり甘い香が揺れて、誠はまた鼓動を高鳴らせていた。