春の夜の夢

杯を残して

 自転車をこぎながら誠は不安に駆られていた。

 畔戸朱香を追ってきたと思われる、男二人に遭遇したと言ったはずなのに、なのに何故また美濃の根公園に来てほしいなどと言うのだろうか。奴らにツケられいていたら、逃げようがない。

 だからと言って彼女との約束を破りたくない。あの時、一方的に「来てね」と言われて、その後どんなに呼んでも畔戸朱香は足を止めてくれなかった。

 誠は公園へ向かいながら、周囲に気を配っていた。時々、止まっては後方を確認したりする。

 途中の、長い上り坂を立ちこぎで踏ん張り続けたが、途中でへばってしまい自転車から降りた。

 夏の足音が聞こえてくる季節は、自転車をモリモリこぐと、額から蟀谷(こめかみ)から汗がだらだら流れた。

 上り坂も終わり、さらに真っ直ぐ走った先に待ち合わせになっている公園がある。

 いつでも公園内には入れるが、トラック施設や体育館などは、既に明かりを落としている。

 誠は自転車を駐輪場へ停めると、東端を目指して公園内の舗装道路を歩いた。夜風が汗を掻いた肌を撫でて、涼しくなった。

 とぼとぼと暗い公園内を歩いて行く。葉と葉が夜風に揺れてこすれるざわめき音が静寂な公園に響く。青々と生い茂っているので、月の明かりすら路上には射さない。小川のせせらぎが清涼感を倍増させる。

 公園の正門から伸びている一番広い舗装道路の両サイドには、桜が植えられている。

 他にも公園内には何十本と桜が植えられている。

 一番東端の桜の木、だとするなら確かに弓道場が近くにある。人ではない、異質なモノがこの公園に存在していると思うと、ちょっとだけ寒気が走ったが、それが畔戸朱香と分かれば胸の奥が熱くなった。

 弓道場とテニスコートに挟まれた道を通り過ぎ、一番東端の舗装されていない側道に入る。側道からは弓道場の中が見える。下手くそだったなあ、自分の弓道は、と誠はしみじみと懐かしくなった。

 目的の桜の木が見えてきて、誠の鼓動は歩調と同化するように、どんどん強まった。

 月明かりに照らされた人影が見えて、ドキリとした誠はゆっくり歩調を落とした。

「ありがとう、来てくれて」

 地面から盛り出した太い根に腰かけていた畔戸朱香が先に声を掛けてきた。

「今日は猫、……雉丸はいないんだな」

「雉丸は夢の中と向こう側しか行き来できないから。それに、今日は君と二人だけで話したかったから、雉丸も一緒に行きたいって聞かなかったんだから」

 フフッと思い出し笑いをした畔戸朱香は杯を持った手を膝の上に置いた。

 杯には何も注がれていない。

「『花見酒』がないと向こう側に戻されるって言ってただろ、だ、大丈夫なのか」

 誠は恐る恐る答えを求めた。

「もっと早く、君に声を掛けておくんだったな、そうしたら思い出も作れたかもしれないのに」

 暗闇で顔がよく見えない。もっとハッキリ見たくて、誠は数歩近づいた。近くの街頭の明かりを頼りに、畔戸朱香の顔をよくよく覗き込む。

 白い頬に一筋、涙腺ができていた。

 ここまで見せられても、誠は躊躇するばかりで言葉さえ浮かばなかった。誠も自分の気持ちは確信している、それなのに足が固まる。おそらく、もう時間がないのだ。誠と畔戸朱香がこうやって顔を見合わせている時間が。

 畔戸朱香のために、もうこれ以上何もすることはない、のだろうか。

「まだ方法はある、『花見酒』が間に合わないなら、それなら、逃げよう! 俺と一緒に」

 無我夢中で畔戸朱香の手を掴むと、「えっ」と驚く声が飛んできたが、誠は無視して強く手を掴んだ

 強引に腕を引っ張り、当てもなくとにかく陸上トラックへ向かって走った。トラックはフェンスで囲まれているが、フェンス沿いを回って公園の正門へと向かった。

 とりあえず自転車がある、畔戸朱香を後ろに乗せて、公園から出て、それから、それから……?

 あと少しで正門というところで、グイッと手を後ろに引っ張られた。

 ぎこちなく後ろを向いた誠は、肩で呼吸を繰り返す畔戸朱香を険しく凝視した。奴らが追ってくるかもしれないのに、こんな所で突っ立っているヒマはないと、豪語したかったが、無理に引っ張れば泣き出してしまいそうな顔をしていた。

「早くいかないと!」

「もういいの、満足だよ」

 泣きそうになりながらも、儚く微笑む畔戸朱香の姿が、女子高生から夢で着ている着物の姿になり、髪も伸びて白に近い銀色に染まった。ウサギ耳が頭の上に生えて、瞳が琥珀色に変貌した。

 ゾクリと震えた誠は、畔戸朱香の手を放しそうになったが、ぎゅっと握り返した。

「その姿じゃあ、逃げるにも目立つと思うんだけど、制服姿に戻ってよ」

 冗談気に苦笑いする誠は青白い月明かりに照らされた、目の前にいる妖艶な彼女に目を惹いた。これが畔戸朱香の本当の姿だと、改めて見せられると、突如、見えない壁に阻まれた気がした。

「ごめんね、『花見酒』がないとこちら側に留まれなくて、人の姿にも限界がきたみたい」

 夜風が吹いて、着物の長い裾がひらりと揺れた。

 空気が動くと、甘くてお香みたいな匂いが鼻をついた。

「っていうことは、奴らが君を捕まえに来るってこと」

 琥珀色の大きな瞳を濡らしながら、畔戸朱香はコクリと頷いた。

「じゃあ、早く逃げないと!」

 腕を引っ張ったが、ぴくりとも動こうとはしなかった。

「私が君を公園に呼んだのは、彼らに私の居場所を教えるため、だから。もう、逃げられないの」

 え、と喉の奥で言葉が止まったまま、誠は呼吸も忘れた。苦しくなって、一気に空気を吸い込んだ。

 するとウサギ耳がせわしなく傾き、畔戸朱香の双眸は誠の後方を見据えて、険しなく眉間を寄せた。

 様子の異変に気付いた誠は踵を返した。やはり、公園に向かっていた時に引き止められた、例の男二人だ。

「その通り! 堪忍してくれたかな、お嬢さん」

 スキンヘッドの男が嬉しそうに口端を吊り上げていた。

 下唇を噛みしめた誠は畔戸朱香の前に立ちはだかり、男二人には見えないようにした。

「暮井誠、そこをどいた方がいい、彼女は素直に従おうとしているのです、何をやっても無駄ですよ」

 金髪の男が怜悧に見下してきた。

 まだ畔戸朱香に何も気持ちを伝えていないのに、くずくずしていた自分が悪いのは分かっている、だから足掻いてでも彼女を死守したいと本気で思った。

 誰かを守りたいなんて、初めて思ったかもしれないと、誠は笑みを引き攣らせた。

「それでも! 俺はどかないっ、ぐぁっ」

 言った瞬間、ハリセンのような平べったいものが頬を張り飛ばした。

 あまりに強い衝撃だったので、踏ん張りきれずそのまま地面に突っ伏した。

「きゃっ」と畔戸朱香が小さく叫んだ。

「やめて、彼には手を出さないで、大人しく従うから!」

 地面に膝をついた畔戸朱香が、突っ伏した誠を覆うように上半身を重ねた。

 彼女の体温が伝わってきて、誠は一瞬にして頬の痛みを忘れ、ぬくもりを噛みしめた。

 すると、するっと横から畔戸朱香の手が伸びてきた。手には緋色の杯が握られていた。

「お願い、持ってて。また、取りに来るから、ありがとう」

 一筋、涙を零した畔戸朱香は強く頷くと、いつまでも手を出さない誠の手に杯を握らせた。

 凛と立ち上がった彼女の背中を、誠は見開きっぱなしの双眸で見上げた。腰が抜けたみたいに、誠は地面から立ち上がるのを忘れていた。

「じゃあ、行こうか」

 両側を二人の男に挟まれ連れて行かれる。畔戸朱香の姿がどんどん暗闇の中へと吸い込まれていく。

 立て、立ち上がれよと、自分の足に叱咤し、誠は這うように膝をずりながら立ち上がった。

「絶対戻ってこい! でないとこの杯でコーラ飲んでやる! 関節キスだからな!」

「なんだそりゃ」とスキンヘッドの男が笑いこけた。金髪の男も肩を小刻みに震わせ、笑いを堪えているようだった。

 きょとんとした顔をしていた畔戸朱香は、強張った頬がほころぶようにきゅるんと笑った。

「うん!」と特大な笑顔を作り、暗闇の中へと消えていった。

 消える瞬間、畔戸朱香の手には、誠が貸したハンカチが握られていたのを見つけた。

新たなる一歩

「なんだよ、抜け殻みたいな面して、やっぱりフラれたか? でも安心しろ、女子はその子だけじゃないからさ」

 席に戻ってきた真也はまるで他人事だったが、逆にその方が誠の気も楽だった。

「そうだよな、畔戸朱香以外にもたくさんいるもんな」

 窓の外を眺めながら、誠は流されるまま特に意味はない台詞を返した。

「は? 誰だよ、そのクロトシュカって、うちの生徒か」

「え?」と視線を真也に移した誠は、手の平に乗せていた顎を離した。

 昨日まで畔戸朱香の名前を出して話していたのに、突然、何を真也は寝ぼけているんだと思ったが、ハッと誠は思い出した。

 記憶が元に戻ったのだ。畔戸朱香は元々ここの生徒ではない、だから元々存在しない記憶に戻ったのだ。

 だが、解せないのはどうして誠だけ、畔戸朱香の記憶が残っているのか。普通に考えて、誠の中にある畔戸朱香の記憶もなくなるはずだ。

「もしかして、ハンカチ……」

「ん、何か言ったか?」

「いや、なにも」

 誠は慌てて誤魔化した。

 記憶が残って嬉しい気もするが、切な過ぎた。いや、残った記憶を大切にしよう、いつか忘れてしまうかもしれないが、それまでは大切にしよう、緋色の杯と一緒に。

「夢に出てきたんだよ、そんな名前の女子が」

 前にも説明したような気がする、と思いながら誠はまた手の平に顎を載せた。

「ああ、前にも言っていた夢の話か、夢の中の女子がお前に何かを取ってきてくれって、お願いする夢だろ、まだ見てたのかよ」

 独り言みたいに呟きながら真也は携帯をぱちぱち打ち始めた。

 意外な真也のセリフに、誠は「いや、最近はあんまり」と半信半疑に返事をした。夢の話は真也も覚えているらしかったが、畔戸朱香という名前だけが欠落したようだった。

 本当に夢だったんじゃないかと、思ってしまいそうなほど静かな午前だった。時計の長針がもうすぐ十五分を指そうとしていた。

「確か三限目って、進路の講習だろ、真也は卒業したら就職?」

 誠は、携帯をいじっている真也に何気なく訊いてみた?

「うーん、まだ分からねぇけど、今時高卒で就職ってどうなんだ、っていうかまだ俺たち一年なんだから気が早くないか」

「そうか? 三年なんてすぐだろ」

 机から肘を離して、まだ携帯をいじっている真也を覗いた。

 誰かとメールでもしているのか、にしても文章を打ち込んでいる指の動きではない。

「何ずっと見てんだよ」

「ん、ほら、お前が夢をどうのこうの話すから、調べてやったんだろ、ありがたく思えよ」

「はぁ? 何を調べたの」

 誠は思わず真也の携帯画面を覗き込んだ。

「春の夜の夢は短くて儚いものの喩だと、んで、『春に見る夢は実現しない』だとさ。良かったな、その女子が実際に現れて、お前にあれやこれや注文するような、エロ可愛い現実は起きないってさ」

「エロ可愛いってなんだよ」

 苛っとした誠は唇を尖らせた。

 口端を上げて笑う真也は携帯をポケットにしまった。と同時に予鈴が鳴り響いた。

 教室の前のドアが開いて、担任が入ってきた。事務的に挨拶が済まされ、進路についての話が始まった。

「もうすぐ六月です、学校にも慣れてきたと思いますが、進路は早いうちから考えることに越したことありません」

 担任は淡々と話し始めた、声に張りがあっていつも以上に真剣みを帯びていた。

 チラッと窓の外を見ると、青々とした桜の木が風に吹かれ、枝を気持ち良さそうに揺らしていた。

 酒を酌み交わしていた少女と猫。本当に短くて儚い夢だった、いや、あれは現実だった。そう誠は確信していた。

 そうでなければ今ポケットにある杯の説明ができない。

 人生も春の夜の夢のような一瞬の時間でしかないのかもしれない、でもその儚い時をどれだけ濃厚にするかは自分で決められる。

 畔戸朱香のように、俺も後悔しない人生を選ぶよ。

 

おわり

yuuma
作家:yuuma
春の夜の夢
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