春の夜の夢

ついに初対面

「で、理由を聞かせてもらおうか」

 登校してくるなり真也が詰め寄ってきた。

 意外としつこい友人に嬉しくもあったが、誠は複雑な面持ちで椅子にもたれかかった。

「理由って、だから滝まで行ったらそこで寝ちゃって、バスがなくなったんだ」

「それは分かったから、何で滝まで行ったんだよ、ぶらりバスの途中下車か?」

「だーかーらーぁ……」

 頭をかく誠は、腹をくくるしかないかなぁと苦汁を飲み込んで、真也を横目で見遣った。

「畔戸朱香にそっくりな女子と猫が夢に出てきて、『花見酒』を取ってこいって指図するんだ。取に行く場所は毎回ばらばらだけど、地元からはそう遠くはない。だから土曜に行った滝もそれ目当てだよ」

 机に肘をついて唖然とした顔で話を聞いていた真也は、「はぁー、マジか」とぼんやり呟いた。

「べつに、信じなくてもいいけど、俺だっていまだに半信半疑なんだから」

 誠も同じように机に肘をついて、手の甲に顎を載せた。こんな話ができるのは真也相手ぐらいだろうなと、つくづく確信させられた。

 しばらく黙っていた真也は、教室を眺めたまま「確かになぁ」ともらした。

「でもさぁ、畔戸朱香が夢の中の女子とは限らないだろ、ただのそっくりサンかもしれないだろ」

「だから確かめてみる」

「はぁ」と真也は目を丸くして、上半身だけグイッと向けてきた。

「まさか、直接訊くのか?」

「そうだよ、そうするしかないじゃん」

 自棄になる誠は、悪気はないが真也に対して怒鳴り口調になった。

「『花見酒』を入手しないと、その子と猫が出てくる夢を見ないんだ、だから畔戸朱香に直接聞く」

 他人事だが一応心配してくれている真也に、当たってしまった罪悪感を感じて、誠は冷静に取り繕った。

「あっそう、よく分からんけどさ、俺は完全に外野みたいだからさ、納得するまでやってみれば」

 鼻で笑った真也は納得したのか、いつものように壁に寄りかかり、ふんぞり返った。

 窓際の席だが、真也の横にはちょうどコンクリートの柱が通っていたので、いつも背もたれにしている。

 誠は真也の後ろだが窓が真横にあるので、授業中も外を眺め放題で、ある意味集中できない場所だ。

「で、いつ声掛けんの、俺がそばで見守っててやろうか?」

 今にも吹き出しそうなニヤついた顔を向けてきた。

「お前には教えない、絶対!」

「なんだよ、ケチー」

 ガクッと肩を脱力させ、また壁に寄りかかった。

 

 

 放課後、校舎の北側にあるグランドへやって来た。

 本当は昼休みに声を掛けるつもりだったが、畔戸朱香は相変わらず友人たちに囲まれていたので、結局放課後にまで持ち越してしまった。

 陸上部は女子も男子も混じって、百メートルダッシュの練習をしていた。だが、全員ではない。数人はグランド隅で砲丸投げの練習をしていたり、他数人はグランドをひたすら周回していたりしていた。

 畔戸朱香はすぐに見つかった。彼女は、百メートルダッシュに励んでいた。

 彼女だけ異様に白く、ちょっと茶色味のある髪は後頭部で一つに結われていた。大きな瞳が彼女とよく似ていた。笑った顔も、背格好も雰囲気も、瓜二つだ。膝にある大きな傷跡も、ぴったり同じだ。

 見付けられたのはいいが、畔戸朱香にいつ声を掛ければいいのだろうか。

 休憩時間は必ずある、それがダメなら、部活が終わり部室へ戻る途中でもいいかもしれない、と考えながら誠は適当な木陰に入って、花壇に使われているコンクリートブロックに尻を付けた。

 一時間ほど眺めていると、やはり休憩に入った。

 陸上部員がそれぞれ自由に移動し始めた。木陰で休む者や、部室へ戻る者、そんな中で畔戸朱香は部員に何かを言うと、誠の方へと歩いてきた。まさかの行動に、ハッと立ち上がった誠は心の準備も追いつかないまま、オロオロと戸惑った。

 自分の所に来ると思っていると、畔戸朱香は誠を通り過ぎて、さらに向こうのお手洗いへと入って行った。

「なんだ、ビックリした」

 一先ずは安心したが、出てきたら声を掛けなくてはと、誠は拳を作って自分を叱咤した。

 数分後に畔戸朱香はお手洗いから出てきた。来た道をまっすぐ戻ってくる、ゴクリと唾を飲み込んだ誠は自分から歩み寄って、「あの」と若干震える声で畔戸朱香の足を止めた。

「あの、君は畔戸朱香さん、ですよね」

 二、三度瞬きした彼女は「そうだけど」と透る声で返事をした。

 訊かないと夢の事、決めていたフレーズを脳内でリピートしていた誠だったが、いざとなると喉に詰まる。

「き、君と……えっと、だから、そうだ、『花見酒』、を知ってる? 聞いたことあるか」

 心臓が口から飛び出そうだった。探偵にでもなった気分だ、だがこんなどぎまぎした探偵なんていないだろうなと、誠は自分に蹴りを入れたいぐらい情けなかった。

「知ってるよ、誠くん」

 また心臓が飛び上がった。一瞬、呼吸を忘れて、誠は双眸を見開いた。

「やっぱり君が、桜の下で猫と一緒に杯を持ってた人」

 汗ばんだ肌を首に掛けたタオルで拭きながら、にやりと笑った畔戸朱香は「うん」と頷いた。

「猫って言わないで、あの子の名前は、雉丸(きじまる)っていうの」

 ほがらかな口調だった。柔らかすぎて、くにゃっと誠はニヤけたくなった。猫の名前など右から左だ。

「今晩、美濃の根公園に来て、東端に立ってる桜の木の下にいるから」

 口角をきゅっと上げて笑顔を作った畔戸朱香は、部員の元へと歩いて行った。

 ほんのり甘い香が揺れて、誠はまた鼓動を高鳴らせていた。 

追ってきた者たち

 畔戸朱香が言っていた、美濃の根公園は誠の家から自転車で二十分の距離にある。微妙に遠い距離だ、行く途中には長丁場の上り坂があるので、さらにしんどい。

 駐車場が北と南に設置されたかなり広い公園だ。木造のアスレチックや夏は水遊びもできる噴水広場、公園の奥には陸上競技ができるトラック設備やテニスコート、弓道場、体育館がある。

 森林浴が楽しめる遊歩道も作られているので、花見の季節や、紅葉の季節になると地方からも観光客が集まってくる。

 公園の東側は桜がメインに植えられているのは誠も知っていた。中学に上がる前までは、よく家族と花見をしに来ていた。

 中学に上がり弓道部に入部してからは、土日も試合や練習で家にいない日が多かった。上手くなかったので、高校に上がってまで続けようとは思わなかった。

 そんな過去を思い返しながら自転車をこいでいると、「ちょっと待ち、自転車小僧」とどすの利いた声で止められた。

 急ブレーキを掛けた誠は、背中にゾワリと寒気が走って、横目で気配を確認した。

 恐々見遣った先には、スキンヘッドになんだかよく分からない模様の入れ墨をした男と、金髪を肩口で揺らしているやたらに美形の男が立っていた。

「おわっ」と小さく声を出して驚いた誠は、対照的な二人を交互に見ながら、「ハイ」と返事をした。

「お前か、最近『花見酒』を掻き集めてる小僧は」

 スキンヘッドの男が噛み付くように声を張った。

 一瞬ドキリとした誠はハンドルから手が離せず、地に足を付けている爪先までジンジン痺れた。

「どうなんだ!」と怒鳴られたと同時に、誠は肩に力が入った。

「お、俺ですが、なんですか」

「今後一切、『花見酒』を彼女に渡すことは止めていただきたい、それと彼女の居場所を教えてくれ」

 今度は金髪の男が丁寧に頼み込んできた。

 考えるまでもなく、彼女とは畔戸朱香だろうと確信した。

 まさに今向かっていた先に畔戸朱香がいるとは、口を避けても言いたくない。

「知りません」

 この男二人の存在感に現実味がないのは容姿が異様だから、だけではなくやはり人ではない感じがしたからだ。

 つまり『花見酒』を持っていた『彼ら』と同じだと思えば、鼻を摘まみたくなるような異質的な空気にも、なんとか臆することもなくなった。

「知ってるだろ! あいつは罪を犯したんだぞ! 『花見酒』を飲むことでこっち側に留まってる奴だ」

 スキンヘッドの男はやたらに怒鳴ってくる。周り近所にもさぞ響き渡ってるに違いないだろうが、誰一人、様子を窺いに来る住民はいない。

「罪って、なんですか?」

 意味が分からず誠は無意識的に訊ねていた。

「向こう側の住人は、こちら側に来て人に接触することは禁止されています、ましてや人に化け、学校の生徒に成りすますなど言語道断。『花見酒』を飲み続けていれば、こちら側に留まることができ、尚且つ連れ戻される心配もありません。そういう呪が掛かるのです」

 滑舌の良い金髪男が並べた言葉の半分も、誠は理解できなかった、というより聞き取れなかった。

 困惑するだけの誠は「へぇ?」と眉をゆがめたまま、「向こう側?」と首をかしげた。

「お前は犯罪者に手を貸してるんだぞ! 居場所を吐かなければ、これからもお前につきまとうからな!」

 殴ることができない衝動を拳に込めているスキンヘッドの男は、血走った目で誠を睨みつけた。

「本当に知りませんか?」

 知らないと答えても尾行されたら一発でバレてしまう。でも、誠は明かしたくなかった。

『花見酒』も入手できなかったなら、畔戸朱香は『向こう側』と呼ばれている場所へ戻されるのだ。それだけは理解できた誠は、グッとハンドルを握った。

「知りません、それに犯罪者に手を貸したと言われても、俺はそもそも向こう側の住人じゃないから、手を貸そうが何しようが俺には関係ありません」

 言い放った誠はペダルをこいで、逃げるようにその場から去った。

 そのまま美濃の根公園に向かうのは、奴らに居場所を突き止められる可能性があるので、一度迂回て自宅へ戻った。

 

 

 翌日、誠は畔戸朱香がいる隣の教室まで訪れ、彼女を呼び出した。もちろん周りの視線が興味津々に二人に注がれた。

 教室が連なる廊下から離れて、吹き抜けになっている廊下まで出てきた。

「呼び出してゴメン、それと昨日はゴメン、公園に行けなくて」

 呼び出したものの、畔戸朱香の顔が見られず、誠の視線は常に斜め下だった。

「待ってたのに、どうして来てくれなかったの?」

 どこか寂しげな口調に、誠の鼓動は高鳴る。なんだか恋人同士みたいな会話に、顔面が一気に熱くなった。ただの勘違いだ、ただの妄想だ、と誠は自分を叱り正気を保たせた。

「それが変な男が二人、現れた。君は犯罪者だから、『花見酒』を渡すな、居場所を教えろって言ってきた。もちろん言わずにその場から逃げたよ、うちの学校の生徒に成りすましてるって、どういうこと」

 そこでやっと誠は畔戸朱香の顔を見ることができた。

 彼女は少しだけ眉間にしわを寄せていた。すると糸がほころぶように、儚げに微笑んだ。

「そっか、バレちゃったんだ、ゴメンね黙ってて」

「別にそんなのいいって、ただ『花見酒』がないとこちら側に居られないって、本当?」

 ますます眉間のしわが深くなり、ついに畔戸朱香は視線を落とした。

「本当よ、だから君に頼んだの。君なら、『花見酒』を無事に持ってきてくれるって、思ったから。私に手を差し伸べてくれた君だから。皆も、君になら『花見酒』を分けてあげようと思ったのは、……そんな君だからだよ」

 何度も『君』と連呼されたのは初めてかもしれない、くすぐったい感覚が誠の背筋に走った。

「俺は別に何も、っていうか、君に手を差し伸べたって、何の話?」

 解せない点を見つけて、誠は俯く彼女を少しだけ覗き込んだ。白い肌が、艶のある黒髪に良く映えていた。

「雨の日だった、私はまだ自転車に慣れてなくて、西門の手前で滑って転んだの。そこに君が通りかかって、起き上がるのを手伝ってくれた。通りかかる人は皆、そのまま通り過ぎたけど、君だけは足を止めてくれた」

 薄ピンク色の唇を小さく動かす畔戸朱香は、スカートのポケットから一つのハンカチを取り出した。

 誠はハッと体を引いた。見覚えのあるハンカチに、記憶が呼び起される。

 その日は遅刻しそうで、猛烈に急いでいた。だが、西門の前でびしょ濡れになりながら、自転車を起こそうとしていた人を見つけたので、遅刻を覚悟した誠はヤケクソ状態で手を貸したのだ。

 それがまさか、こんな形で返ってこようとは。

「思い出した? 膝をすりむいていたのを見て、君がハンカチを貸してくれたから、夢に呼ぶこともできた」

 だから膝に傷跡があったのかと、誠は納得した、というより思い出した。

 畔戸朱香はハンカチを大事そうに両手で掴んでから、差し出した。

「もう必要なさそうだから、ありがとう」

 顔を上げたが、彼女は目を合わせようとはせず、目じりに溜まった露をこぼさないように踏ん張っていた。

 誠はハンカチに手を伸ばさなかった、伸ばしたくなかった。畔戸朱香の涙も見たくなかった。

「それはあげる、だからこれからも俺を夢の中に呼んでよ」

 大きな瞳が上を向いて、目が合った。

「『花見酒』は俺が取りに行く、それに君が突然いなくなったら、みんな驚くし、心配するだろ」

 誠が苦笑いすると、畔戸朱香の口端が引き攣るように笑んだ。

「それなら大丈夫、私はここの生徒に成りすます時、皆の記憶を書き換えたの。私が元々ここの生徒だったという記憶を、だから私が向こう側へ帰れば、元々いなかった記憶に戻るだけ」

「それじゃあ、俺も君を忘れるってこと」

「そうだね」

 綿毛がふわりと風に舞うように、畔戸朱香は笑うものだから、誠は奥歯を噛みしめ込み上がった苛立ちを必死に抑えた。

「そんなの納得できるわけないだろ、俺が『花見酒』を持ってくる」

「もういいの、気持ちは嬉しい、これ以上動いたら、君は危険な目に遭うかもしれない。彼らはいざとなれば君にも手を出す、そんなことさせたくない。巻き込んじゃってごめんなさい」

 頭を垂れた畔戸朱香の目尻から、ついに露がぽろぽろ零れ落ちた。

 女子が校舎内で泣いているという大事件に、誰も気づくなよと、内心誠は気が気ではなかった。周りに人はいなかったが、それでも女子を泣かせた罪深い男子と思われたくない。

「そんなことないって、これから先は俺の我が儘だから、君が気にすることないって、『花見酒』を取ってくる」

 それでも畔戸朱香は首を横に振った。

「こうしてこちら側を満喫できて嬉しかったから、それにずっと君に逢いたかったから。美濃の根公園の弓道場で、初めて君を見てからずっと会いたくて、まさか転んだところに君が通りかかるなんて予想もしてなかった。ずっと好きだった」

 たぶん告白をされているんだな、と理解できたのは畔戸朱香が話し終って、五秒は経ってからだった。

 唾が喉に詰まって誠は思わず咳き込んだ。

 胸の奥で苦しいぐらいに鼓動が高鳴る。妄想ではない、とんでもない現実に誠はどう対応して良いか分からず、思考回路が停止寸前だ。

 それでもまた解せない点が浮上して、熱くなった額を掻きながら声を震わせた。

「で、でも俺は君に会うの初めてなんだけど、しかも弓道してたの中学の時だよ?」

  急に色々告白され、何が何だか分からなくなってきた誠は頭を掻くしかなかった。

「うん、知ってる、私はこちらとあちらを自由に行き来できるけど、こちら側にずっといることはできない。でも行きたい所には行けるの、幽霊じゃないから」

 じゃあ妖怪か? とはちょっと確認しづらかったが、まあそうだろうなと勝手に納得した。

「美濃の根公園の桜の木と私は繋がりがあって、その桜の木が出入り口になってるの、それで弓の練習をしていた君を見つけたの」

 顔を背けた畔戸朱香は教室へ向かって歩き始めた。

 何かを言いたいのに、引き留める勇気も振り絞れない自分に、誠は無性に腹が立った。畔戸朱香は自分の気持ちをさらけ出したのに、それどころか誠に逢いに来るために罪を犯しているというのに、どうして逃げ腰になるのか誠は自分で自分が理解できなかった。

 何か、何か出来ることはないかと、誠はフル回転で思考を巡らせた。

「俺は!」

 言えた、後はもう勢いに任せて言うしかないと、誠は自分に叱咤する。

「このままさよならはさせない、だから『花見酒』を持って――」、と誠が話している途中だったが、畔戸朱香が無理やり言葉を挟んだ。

「美濃の根公園の東端の桜の下に来て、待ってるから」

 くるっと振り返った畔戸朱香は、桜の薄ピンク色みたいに柔らかく笑むと、くるっと向き直って歩いて行った。

 

杯を残して

 自転車をこぎながら誠は不安に駆られていた。

 畔戸朱香を追ってきたと思われる、男二人に遭遇したと言ったはずなのに、なのに何故また美濃の根公園に来てほしいなどと言うのだろうか。奴らにツケられいていたら、逃げようがない。

 だからと言って彼女との約束を破りたくない。あの時、一方的に「来てね」と言われて、その後どんなに呼んでも畔戸朱香は足を止めてくれなかった。

 誠は公園へ向かいながら、周囲に気を配っていた。時々、止まっては後方を確認したりする。

 途中の、長い上り坂を立ちこぎで踏ん張り続けたが、途中でへばってしまい自転車から降りた。

 夏の足音が聞こえてくる季節は、自転車をモリモリこぐと、額から蟀谷(こめかみ)から汗がだらだら流れた。

 上り坂も終わり、さらに真っ直ぐ走った先に待ち合わせになっている公園がある。

 いつでも公園内には入れるが、トラック施設や体育館などは、既に明かりを落としている。

 誠は自転車を駐輪場へ停めると、東端を目指して公園内の舗装道路を歩いた。夜風が汗を掻いた肌を撫でて、涼しくなった。

 とぼとぼと暗い公園内を歩いて行く。葉と葉が夜風に揺れてこすれるざわめき音が静寂な公園に響く。青々と生い茂っているので、月の明かりすら路上には射さない。小川のせせらぎが清涼感を倍増させる。

 公園の正門から伸びている一番広い舗装道路の両サイドには、桜が植えられている。

 他にも公園内には何十本と桜が植えられている。

 一番東端の桜の木、だとするなら確かに弓道場が近くにある。人ではない、異質なモノがこの公園に存在していると思うと、ちょっとだけ寒気が走ったが、それが畔戸朱香と分かれば胸の奥が熱くなった。

 弓道場とテニスコートに挟まれた道を通り過ぎ、一番東端の舗装されていない側道に入る。側道からは弓道場の中が見える。下手くそだったなあ、自分の弓道は、と誠はしみじみと懐かしくなった。

 目的の桜の木が見えてきて、誠の鼓動は歩調と同化するように、どんどん強まった。

 月明かりに照らされた人影が見えて、ドキリとした誠はゆっくり歩調を落とした。

「ありがとう、来てくれて」

 地面から盛り出した太い根に腰かけていた畔戸朱香が先に声を掛けてきた。

「今日は猫、……雉丸はいないんだな」

「雉丸は夢の中と向こう側しか行き来できないから。それに、今日は君と二人だけで話したかったから、雉丸も一緒に行きたいって聞かなかったんだから」

 フフッと思い出し笑いをした畔戸朱香は杯を持った手を膝の上に置いた。

 杯には何も注がれていない。

「『花見酒』がないと向こう側に戻されるって言ってただろ、だ、大丈夫なのか」

 誠は恐る恐る答えを求めた。

「もっと早く、君に声を掛けておくんだったな、そうしたら思い出も作れたかもしれないのに」

 暗闇で顔がよく見えない。もっとハッキリ見たくて、誠は数歩近づいた。近くの街頭の明かりを頼りに、畔戸朱香の顔をよくよく覗き込む。

 白い頬に一筋、涙腺ができていた。

 ここまで見せられても、誠は躊躇するばかりで言葉さえ浮かばなかった。誠も自分の気持ちは確信している、それなのに足が固まる。おそらく、もう時間がないのだ。誠と畔戸朱香がこうやって顔を見合わせている時間が。

 畔戸朱香のために、もうこれ以上何もすることはない、のだろうか。

「まだ方法はある、『花見酒』が間に合わないなら、それなら、逃げよう! 俺と一緒に」

 無我夢中で畔戸朱香の手を掴むと、「えっ」と驚く声が飛んできたが、誠は無視して強く手を掴んだ

 強引に腕を引っ張り、当てもなくとにかく陸上トラックへ向かって走った。トラックはフェンスで囲まれているが、フェンス沿いを回って公園の正門へと向かった。

 とりあえず自転車がある、畔戸朱香を後ろに乗せて、公園から出て、それから、それから……?

 あと少しで正門というところで、グイッと手を後ろに引っ張られた。

 ぎこちなく後ろを向いた誠は、肩で呼吸を繰り返す畔戸朱香を険しく凝視した。奴らが追ってくるかもしれないのに、こんな所で突っ立っているヒマはないと、豪語したかったが、無理に引っ張れば泣き出してしまいそうな顔をしていた。

「早くいかないと!」

「もういいの、満足だよ」

 泣きそうになりながらも、儚く微笑む畔戸朱香の姿が、女子高生から夢で着ている着物の姿になり、髪も伸びて白に近い銀色に染まった。ウサギ耳が頭の上に生えて、瞳が琥珀色に変貌した。

 ゾクリと震えた誠は、畔戸朱香の手を放しそうになったが、ぎゅっと握り返した。

「その姿じゃあ、逃げるにも目立つと思うんだけど、制服姿に戻ってよ」

 冗談気に苦笑いする誠は青白い月明かりに照らされた、目の前にいる妖艶な彼女に目を惹いた。これが畔戸朱香の本当の姿だと、改めて見せられると、突如、見えない壁に阻まれた気がした。

「ごめんね、『花見酒』がないとこちら側に留まれなくて、人の姿にも限界がきたみたい」

 夜風が吹いて、着物の長い裾がひらりと揺れた。

 空気が動くと、甘くてお香みたいな匂いが鼻をついた。

「っていうことは、奴らが君を捕まえに来るってこと」

 琥珀色の大きな瞳を濡らしながら、畔戸朱香はコクリと頷いた。

「じゃあ、早く逃げないと!」

 腕を引っ張ったが、ぴくりとも動こうとはしなかった。

「私が君を公園に呼んだのは、彼らに私の居場所を教えるため、だから。もう、逃げられないの」

 え、と喉の奥で言葉が止まったまま、誠は呼吸も忘れた。苦しくなって、一気に空気を吸い込んだ。

 するとウサギ耳がせわしなく傾き、畔戸朱香の双眸は誠の後方を見据えて、険しなく眉間を寄せた。

 様子の異変に気付いた誠は踵を返した。やはり、公園に向かっていた時に引き止められた、例の男二人だ。

「その通り! 堪忍してくれたかな、お嬢さん」

 スキンヘッドの男が嬉しそうに口端を吊り上げていた。

 下唇を噛みしめた誠は畔戸朱香の前に立ちはだかり、男二人には見えないようにした。

「暮井誠、そこをどいた方がいい、彼女は素直に従おうとしているのです、何をやっても無駄ですよ」

 金髪の男が怜悧に見下してきた。

 まだ畔戸朱香に何も気持ちを伝えていないのに、くずくずしていた自分が悪いのは分かっている、だから足掻いてでも彼女を死守したいと本気で思った。

 誰かを守りたいなんて、初めて思ったかもしれないと、誠は笑みを引き攣らせた。

「それでも! 俺はどかないっ、ぐぁっ」

 言った瞬間、ハリセンのような平べったいものが頬を張り飛ばした。

 あまりに強い衝撃だったので、踏ん張りきれずそのまま地面に突っ伏した。

「きゃっ」と畔戸朱香が小さく叫んだ。

「やめて、彼には手を出さないで、大人しく従うから!」

 地面に膝をついた畔戸朱香が、突っ伏した誠を覆うように上半身を重ねた。

 彼女の体温が伝わってきて、誠は一瞬にして頬の痛みを忘れ、ぬくもりを噛みしめた。

 すると、するっと横から畔戸朱香の手が伸びてきた。手には緋色の杯が握られていた。

「お願い、持ってて。また、取りに来るから、ありがとう」

 一筋、涙を零した畔戸朱香は強く頷くと、いつまでも手を出さない誠の手に杯を握らせた。

 凛と立ち上がった彼女の背中を、誠は見開きっぱなしの双眸で見上げた。腰が抜けたみたいに、誠は地面から立ち上がるのを忘れていた。

「じゃあ、行こうか」

 両側を二人の男に挟まれ連れて行かれる。畔戸朱香の姿がどんどん暗闇の中へと吸い込まれていく。

 立て、立ち上がれよと、自分の足に叱咤し、誠は這うように膝をずりながら立ち上がった。

「絶対戻ってこい! でないとこの杯でコーラ飲んでやる! 関節キスだからな!」

「なんだそりゃ」とスキンヘッドの男が笑いこけた。金髪の男も肩を小刻みに震わせ、笑いを堪えているようだった。

 きょとんとした顔をしていた畔戸朱香は、強張った頬がほころぶようにきゅるんと笑った。

「うん!」と特大な笑顔を作り、暗闇の中へと消えていった。

 消える瞬間、畔戸朱香の手には、誠が貸したハンカチが握られていたのを見つけた。

新たなる一歩

「なんだよ、抜け殻みたいな面して、やっぱりフラれたか? でも安心しろ、女子はその子だけじゃないからさ」

 席に戻ってきた真也はまるで他人事だったが、逆にその方が誠の気も楽だった。

「そうだよな、畔戸朱香以外にもたくさんいるもんな」

 窓の外を眺めながら、誠は流されるまま特に意味はない台詞を返した。

「は? 誰だよ、そのクロトシュカって、うちの生徒か」

「え?」と視線を真也に移した誠は、手の平に乗せていた顎を離した。

 昨日まで畔戸朱香の名前を出して話していたのに、突然、何を真也は寝ぼけているんだと思ったが、ハッと誠は思い出した。

 記憶が元に戻ったのだ。畔戸朱香は元々ここの生徒ではない、だから元々存在しない記憶に戻ったのだ。

 だが、解せないのはどうして誠だけ、畔戸朱香の記憶が残っているのか。普通に考えて、誠の中にある畔戸朱香の記憶もなくなるはずだ。

「もしかして、ハンカチ……」

「ん、何か言ったか?」

「いや、なにも」

 誠は慌てて誤魔化した。

 記憶が残って嬉しい気もするが、切な過ぎた。いや、残った記憶を大切にしよう、いつか忘れてしまうかもしれないが、それまでは大切にしよう、緋色の杯と一緒に。

「夢に出てきたんだよ、そんな名前の女子が」

 前にも説明したような気がする、と思いながら誠はまた手の平に顎を載せた。

「ああ、前にも言っていた夢の話か、夢の中の女子がお前に何かを取ってきてくれって、お願いする夢だろ、まだ見てたのかよ」

 独り言みたいに呟きながら真也は携帯をぱちぱち打ち始めた。

 意外な真也のセリフに、誠は「いや、最近はあんまり」と半信半疑に返事をした。夢の話は真也も覚えているらしかったが、畔戸朱香という名前だけが欠落したようだった。

 本当に夢だったんじゃないかと、思ってしまいそうなほど静かな午前だった。時計の長針がもうすぐ十五分を指そうとしていた。

「確か三限目って、進路の講習だろ、真也は卒業したら就職?」

 誠は、携帯をいじっている真也に何気なく訊いてみた?

「うーん、まだ分からねぇけど、今時高卒で就職ってどうなんだ、っていうかまだ俺たち一年なんだから気が早くないか」

「そうか? 三年なんてすぐだろ」

 机から肘を離して、まだ携帯をいじっている真也を覗いた。

 誰かとメールでもしているのか、にしても文章を打ち込んでいる指の動きではない。

「何ずっと見てんだよ」

「ん、ほら、お前が夢をどうのこうの話すから、調べてやったんだろ、ありがたく思えよ」

「はぁ? 何を調べたの」

 誠は思わず真也の携帯画面を覗き込んだ。

「春の夜の夢は短くて儚いものの喩だと、んで、『春に見る夢は実現しない』だとさ。良かったな、その女子が実際に現れて、お前にあれやこれや注文するような、エロ可愛い現実は起きないってさ」

「エロ可愛いってなんだよ」

 苛っとした誠は唇を尖らせた。

 口端を上げて笑う真也は携帯をポケットにしまった。と同時に予鈴が鳴り響いた。

 教室の前のドアが開いて、担任が入ってきた。事務的に挨拶が済まされ、進路についての話が始まった。

「もうすぐ六月です、学校にも慣れてきたと思いますが、進路は早いうちから考えることに越したことありません」

 担任は淡々と話し始めた、声に張りがあっていつも以上に真剣みを帯びていた。

 チラッと窓の外を見ると、青々とした桜の木が風に吹かれ、枝を気持ち良さそうに揺らしていた。

 酒を酌み交わしていた少女と猫。本当に短くて儚い夢だった、いや、あれは現実だった。そう誠は確信していた。

 そうでなければ今ポケットにある杯の説明ができない。

 人生も春の夜の夢のような一瞬の時間でしかないのかもしれない、でもその儚い時をどれだけ濃厚にするかは自分で決められる。

 畔戸朱香のように、俺も後悔しない人生を選ぶよ。

 

おわり

yuuma
作家:yuuma
春の夜の夢
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