恋愛の微妙な偏差値

 私はセックスが嫌いです。
 ソレをしても、どうしても気持ちがいいと思えないのです。
 キスをして、胸の膨らみを触られ、中心を弾かれたときは、その刺激にゾクリとしました。男性の手が腰やお尻を伝って下に降り、私自身に届いたときには、砕け落ちそうな疼きさえも感じました。
 でも、その先からはダメなんです。
 野生動物のように腰を振る男(ひと)を見ると、とにかく早く終わってくれないかと、ただ冷めきった想いで待っているだけなのです。
 『初体験は痛いけど、だんだん良くなる』とか、『一人目より二人目の方が深い快感が得られる』という噂も聞いていました。
 女性雑誌の投稿欄には、『そのテクニックにも上手い下手がある』とか、『満足するセックスには男性との相性が大切』などとも書かれていました。
 だから私も、回数を重ねればきっと感じると信じて、何度か試してみましたが……。
 やはり、無理でした。
 どうしてもそのような、またしたくなるような快感が訪れることはありませんでした。
 そして男性と付きあった先には、セックスが待っていると思うと気が重くなり、最近では人を好きになることすら躊躇(ためら)われます。

「つまり今まで、セックスをして良いと思えたことはないわけですね」
「はい」
「今後は望まないと?」
「……望まないというより、できれば避けたいというか。だから、男性とも積極的には付き合えません」
「それは困りましたね」
 そう、麻生(あそう)成美に答えたのは、糊(のり)の効いた真っ白な白衣を纏(まと)う若い心療内科医、弓永健太郎だった。
 軽く額にかかった前髪に、知的だがどこか優しい印象を与える切れ長の目。引き締まった甘い唇に、鼻筋の通った端正な顔立ちからは、彼がモデルだと言っても通用しそうだった。
 歳は三十代前半だろうか。
 第一印象では、結婚しているようには思えない。しかしどこか、女性を扱い慣れているような、そんなプレイボーイ特有の要領の良さが見え隠れする。
 成美は今日、なぜかこのメンタルクリニックで、性の悩みに関するカウンセリングを受けていた。
 しかし本当は切迫した理由も、ましてや必然性も感じていなかった。ただ、少しだけ沈んだ気持ちを持て余していただけなのだ。
 だからここに座っていることにすら、戸惑いを感じていた。
 この若い医師を目の前にして、自分はなんと恥ずかしい話を始めてしまったのだろうか。もう、帰ろうか。突然立ち上がって背を向けたら、この先生は驚くだろうか。
 おそらく彼女に混在する能動的な女の本能が、彼を医師ではなく、男として認識してしまったのかもしれない。
「一般的にセックスをして感じない、苦痛に思えるというのは、肉体に原因がある場合と、精神的な問題による場合とがあります。ホルモン異常などでそれが引き起こされるときには、その、行為の途中に……」
「……」
「あなたの下半身は、男性性器を受け入れるための体液を放出しましたか?」
「え……?」
「つまり、挿入口が濡れたかどうかということです」
「あ、はい……たぶん……」
 こんな露骨な質問にまで、答えなくてはいけないのかと、成美は小さくため息をついた。
 やはり、いい加減な気持ちで来るんじゃなかった。戸惑いは後悔へと変化していく。
「男性に乳房や性器を触れられたときは、どうでしたか? 気持ちいいと思えましたか?」
「え、まあ……」
 これ以上は続けられない。成美は赤面しながらそう思っていた。
 この医師と会うのは今日が初めてだ。どちらかというとイケメンの、自分好みであることは間違いない。
 そんな対象人物に、このようにせきららな性体験を告白するのは、どう考えても抵抗がある。例えこれが、診察に必要な問診であったとしてもだ。
 それにもともと、治療を受けようとここにやってきたのではなく、本当に偶然、ただの気まぐれで立ち寄っただけなのだから。

「初めてのとき、痛みはありましたか?」
「はい」
「初体験が原因で、セックスに嫌悪感を抱いている感じですか?」
「そこまでは、わかりません」
 彼の横顔は、とても素敵だった。見ているだけで絵になっている。それは外見だけではなく、この人の持つ雰囲気や中に潜む魂がそう表現しているのだと、成美は思った。
 派遣先である一流企業のオフィスを見渡しても、これほど魅力的な男(ひと)はなかなかいない。こんな場所で会わなければ、おそらく好意を持っていただろう。
 これまで成美は、異性に対して臆病になっていた。好きになることを恐れていた。しかし弓永とは、もっと話してみたいと思っている。
 その感情は何より、成美自身を驚かせていた。
「初体験はいつでしたか?」
「高校生のときです」
「最初の男性に愛情はありましたか?」
「もちろんです」
「ただの好奇心で、男と寝てみたかっただけじゃなくて?」
「そんなじゃありません! 本当に好きだったんです、彼のことは!」
「これは、失礼」
 この医師に人格を疑われているようで、向きになった。自分らしくもない。
「それに私……、特に治療を受けたいのではなくて」
「と、いうと?」
「なんとなく、ここに来ちゃったんです。お洒落なビルができたので、ただ中を覗いてみたかったというか……」
「なら余計に、縁を感じますね」
「だからもう、帰ってもいいでしょうか?」
「それはご自由ですが」
 成美は立ち上がり、頭を下げた。
「でも、個人的には残念です。あなたが幸せになる手伝いをしたかったから」
「幸せ?」
「生涯男性を好きになれないなんて、悲しいじゃないですか」
「……」
「結婚は考えないんですか?」
「どうせ無理ですから……」
「ということは、独身主義者ではないんですね?」
「まあ」
「なら、座ってください」
 狐につままれたように、成美は椅子に腰を戻した。
「麻生さん、あなたは……真面目できちんとしたマナーの持ち主のようです。そして人一倍、責任感もあるようだ」
「それは……」
 平素より自分で長所だと自覚する「責任感」を持ち出され、悪い気はしなかった。それどころか、よりこの医師に興味を抱き始めている。
「弓永健太郎です」
「え?」
「僕の名前」
「あ、はい」
 今まで数多くの医療機関を受診したが、医師から名前を名乗られたことはなかった。
「まだ帰りたい?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、こうしましょう。今日は診療ではなく、あなたの話し相手になりますよ」
「はあ……」
 そういえばさっきから、この医師以外の看護師や受付の人など、誰も見かけてはいない。こういったクリニックの、新しいスタイルなのだろうか。
 不思議に思いながらも、静まり返った二人だけのこの空間は、成美を妙に落ち着かせていた。
 成美がこのデザイナーズビルの地下にある、弓永のクリニックに足を踏み入れたのは、自分が勤務するオフィスにほど近い場所にあったからだ。駅までの大通りから一本入ったこのお洒落なビルが、以前から目に留まっていた。
 成美は最近、考えていることがあった。
 派遣社員として企業で働く自分も、もう今年で二十八。特に何の資格があるわけでもない。もし突然派遣契約を切られたら、果たしてすぐに次が見つかるだろうか。
 少しぐらいの蓄えはあるが、不安は拭えなかった。
 企業の多くが雇用縮小をしている今、同じような現実にぶつかっている人は周りにも多い。
彼女は決して、魅力のない女性ではなかった。スラリとした、どちらかというと気品のあるタイプだ。だから、男性にモテないというわけでもなかった。
 成美自身も、もしもの場合に頼れる彼氏でもいれば安心だとは思っていた。仲の良い友達もそれを勧める。
 しかしこの年齢で男性と付き合うなら、プラトニックはあり得ない。つまり必ず、セックスとセットというわけだ。そして万が一結婚となれば、毎日それを強いられるかもしれない。
 その恐怖は、成美をかなり憂鬱にした。
 長野から東京の大学に進学し、そのまま一人暮らしをしていた。彼女にとって、この都会はそれなりに快適な場所。まだ離れたくはない。
 というより、積極的に実家に戻りたくない理由があった。
 罪悪感で固められたトラウマにも似た感情……。
 それは月日が経つごとに心の中で大きく膨らみ、故郷をより遠くにしていた。
 進む道が見えない、後戻りすらできないという焦り。
 近頃はただ、流されるごとく生きているような気がしていた。何かが、気だるく重い。
 成美はその日、真っ直ぐ帰路つくことが得策ではないかのように思え、気分転換がしたくなった。
 回り道でもしてみようか……。
 ちょうど空が赤く焼ける時刻で、気持ちを高揚させた。
 そういえば、この近くにお洒落なビルができたはず。たまにはお茶でも……。
 そして立ち寄ったのが、弓永のクリニックのあるビルというわけだ。
オリオンブックス
作家:松本るい
恋愛の微妙な偏差値
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