恋愛の微妙な偏差値

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 成美がこのデザイナーズビルの地下にある、弓永のクリニックに足を踏み入れたのは、自分が勤務するオフィスにほど近い場所にあったからだ。駅までの大通りから一本入ったこのお洒落なビルが、以前から目に留まっていた。
 成美は最近、考えていることがあった。
 派遣社員として企業で働く自分も、もう今年で二十八。特に何の資格があるわけでもない。もし突然派遣契約を切られたら、果たしてすぐに次が見つかるだろうか。
 少しぐらいの蓄えはあるが、不安は拭えなかった。
 企業の多くが雇用縮小をしている今、同じような現実にぶつかっている人は周りにも多い。
彼女は決して、魅力のない女性ではなかった。スラリとした、どちらかというと気品のあるタイプだ。だから、男性にモテないというわけでもなかった。
 成美自身も、もしもの場合に頼れる彼氏でもいれば安心だとは思っていた。仲の良い友達もそれを勧める。
 しかしこの年齢で男性と付き合うなら、プラトニックはあり得ない。つまり必ず、セックスとセットというわけだ。そして万が一結婚となれば、毎日それを強いられるかもしれない。
 その恐怖は、成美をかなり憂鬱にした。
 長野から東京の大学に進学し、そのまま一人暮らしをしていた。彼女にとって、この都会はそれなりに快適な場所。まだ離れたくはない。
 というより、積極的に実家に戻りたくない理由があった。
 罪悪感で固められたトラウマにも似た感情……。
 それは月日が経つごとに心の中で大きく膨らみ、故郷をより遠くにしていた。
 進む道が見えない、後戻りすらできないという焦り。
 近頃はただ、流されるごとく生きているような気がしていた。何かが、気だるく重い。
 成美はその日、真っ直ぐ帰路つくことが得策ではないかのように思え、気分転換がしたくなった。
 回り道でもしてみようか……。
 ちょうど空が赤く焼ける時刻で、気持ちを高揚させた。
 そういえば、この近くにお洒落なビルができたはず。たまにはお茶でも……。
 そして立ち寄ったのが、弓永のクリニックのあるビルというわけだ。
 モダンなコンクリート打ちっぱなしの外観が、目を惹いた。窓を数えると七階建。しかしそこにはカフェはなく、すべてがオフィス仕様だった。
 諦めて立ち去ろうとした成美の目に、地階を案内する小さな立て看板が飛び込んだ。 
 メンタルクリニック弓永、『性の悩み相談室』 
 どなたもお気軽にどうぞ。
 『お気軽にどうぞ』とは、おもしろい。まるで宮沢賢治の「注文の多いレストラン」のようだ。中で待っているのは、どんな怪物医師なのだろうか。
 それは読書好きの成美をクスリと笑わせた。同時に興味も湧いてくる。
 これまで誰かに、その種の相談したことはない。もちろん今後もそんな予定はなかった。多少のプライドもあるし、どうしてと訊かれると、説明して口走る内容が何より恥ずかしかった。
 それに自分は、絶対に結婚したいというわけでもない。だからセックスが嫌いというのも、それほど深刻な問題ではなかったのだ。
 見ると、心療内科のイメージを一新するような、豪華な待合室の写真が貼ってある。幻想的な大きな水槽に、高級家具、皮のソファーまで。インテリアも好みのカラーで統一されていた。
 ちょっと覗いてみるくらいなら……。
 成美はそのまま地下へと向かい、医院のガラスドアを開けたのだ。
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オリオンブックス
作家:松本るい
恋愛の微妙な偏差値
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