恋愛の微妙な偏差値

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「初体験はいつでしたか?」
「高校生のときです」
「最初の男性に愛情はありましたか?」
「もちろんです」
「ただの好奇心で、男と寝てみたかっただけじゃなくて?」
「そんなじゃありません! 本当に好きだったんです、彼のことは!」
「これは、失礼」
 この医師に人格を疑われているようで、向きになった。自分らしくもない。
「それに私……、特に治療を受けたいのではなくて」
「と、いうと?」
「なんとなく、ここに来ちゃったんです。お洒落なビルができたので、ただ中を覗いてみたかったというか……」
「なら余計に、縁を感じますね」
「だからもう、帰ってもいいでしょうか?」
「それはご自由ですが」
 成美は立ち上がり、頭を下げた。
「でも、個人的には残念です。あなたが幸せになる手伝いをしたかったから」
「幸せ?」
「生涯男性を好きになれないなんて、悲しいじゃないですか」
「……」
「結婚は考えないんですか?」
「どうせ無理ですから……」
「ということは、独身主義者ではないんですね?」
「まあ」
「なら、座ってください」
 狐につままれたように、成美は椅子に腰を戻した。
「麻生さん、あなたは……真面目できちんとしたマナーの持ち主のようです。そして人一倍、責任感もあるようだ」
「それは……」
 平素より自分で長所だと自覚する「責任感」を持ち出され、悪い気はしなかった。それどころか、よりこの医師に興味を抱き始めている。
「弓永健太郎です」
「え?」
「僕の名前」
「あ、はい」
 今まで数多くの医療機関を受診したが、医師から名前を名乗られたことはなかった。
「まだ帰りたい?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、こうしましょう。今日は診療ではなく、あなたの話し相手になりますよ」
「はあ……」
 そういえばさっきから、この医師以外の看護師や受付の人など、誰も見かけてはいない。こういったクリニックの、新しいスタイルなのだろうか。
 不思議に思いながらも、静まり返った二人だけのこの空間は、成美を妙に落ち着かせていた。
 成美がこのデザイナーズビルの地下にある、弓永のクリニックに足を踏み入れたのは、自分が勤務するオフィスにほど近い場所にあったからだ。駅までの大通りから一本入ったこのお洒落なビルが、以前から目に留まっていた。
 成美は最近、考えていることがあった。
 派遣社員として企業で働く自分も、もう今年で二十八。特に何の資格があるわけでもない。もし突然派遣契約を切られたら、果たしてすぐに次が見つかるだろうか。
 少しぐらいの蓄えはあるが、不安は拭えなかった。
 企業の多くが雇用縮小をしている今、同じような現実にぶつかっている人は周りにも多い。
彼女は決して、魅力のない女性ではなかった。スラリとした、どちらかというと気品のあるタイプだ。だから、男性にモテないというわけでもなかった。
 成美自身も、もしもの場合に頼れる彼氏でもいれば安心だとは思っていた。仲の良い友達もそれを勧める。
 しかしこの年齢で男性と付き合うなら、プラトニックはあり得ない。つまり必ず、セックスとセットというわけだ。そして万が一結婚となれば、毎日それを強いられるかもしれない。
 その恐怖は、成美をかなり憂鬱にした。
 長野から東京の大学に進学し、そのまま一人暮らしをしていた。彼女にとって、この都会はそれなりに快適な場所。まだ離れたくはない。
 というより、積極的に実家に戻りたくない理由があった。
 罪悪感で固められたトラウマにも似た感情……。
 それは月日が経つごとに心の中で大きく膨らみ、故郷をより遠くにしていた。
 進む道が見えない、後戻りすらできないという焦り。
 近頃はただ、流されるごとく生きているような気がしていた。何かが、気だるく重い。
 成美はその日、真っ直ぐ帰路つくことが得策ではないかのように思え、気分転換がしたくなった。
 回り道でもしてみようか……。
 ちょうど空が赤く焼ける時刻で、気持ちを高揚させた。
 そういえば、この近くにお洒落なビルができたはず。たまにはお茶でも……。
 そして立ち寄ったのが、弓永のクリニックのあるビルというわけだ。
 モダンなコンクリート打ちっぱなしの外観が、目を惹いた。窓を数えると七階建。しかしそこにはカフェはなく、すべてがオフィス仕様だった。
 諦めて立ち去ろうとした成美の目に、地階を案内する小さな立て看板が飛び込んだ。 
 メンタルクリニック弓永、『性の悩み相談室』 
 どなたもお気軽にどうぞ。
 『お気軽にどうぞ』とは、おもしろい。まるで宮沢賢治の「注文の多いレストラン」のようだ。中で待っているのは、どんな怪物医師なのだろうか。
 それは読書好きの成美をクスリと笑わせた。同時に興味も湧いてくる。
 これまで誰かに、その種の相談したことはない。もちろん今後もそんな予定はなかった。多少のプライドもあるし、どうしてと訊かれると、説明して口走る内容が何より恥ずかしかった。
 それに自分は、絶対に結婚したいというわけでもない。だからセックスが嫌いというのも、それほど深刻な問題ではなかったのだ。
 見ると、心療内科のイメージを一新するような、豪華な待合室の写真が貼ってある。幻想的な大きな水槽に、高級家具、皮のソファーまで。インテリアも好みのカラーで統一されていた。
 ちょっと覗いてみるくらいなら……。
 成美はそのまま地下へと向かい、医院のガラスドアを開けたのだ。
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オリオンブックス
作家:松本るい
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