もうひとつの夏の日

Ⅱ( 5 / 6 )

 晃輔がオーストラリアに戻る前日の夜に何とか時間が取れ、食事にでも行こうという連絡があった。そして、二人でよく行った少し洒落たレストランで食事をすることになった。周りからは、普通に、久々に会った恋人同志が食事をしながら再会を喜んでいるというように見えたに違いない。

 その雰囲気を晃輔が突然破った。

 「結婚しようか。」

 それは、話の流れからしても、あまりにも突然な言葉だった。

 「当然、俺が帰国してからということになるし、洋子の仕事のこともあるから、実際には1年近く先にになってしまうけど。それに、結婚式や披露宴のことを考えると、もう少し先になってしまうかも。」

 そこまで晃輔が言ったとき、洋子は、

 「結婚式って、する気なの。別に二人で暮らすだけなんだから、籍さえちゃんと入れれば特に問題無いんじゃない。あれって、労力とお金のムダだと思うけど。」

 洋子は、プロポーズされていることも忘れ、強い語調で一しきり言い切ってしまった。考えるまでも無く、プロポーズされたと自覚したのは言い切ってしまった後だった。今まで他人にはこんなことを考えているとは言ったことが無かったが、相手が晃輔だったことで、何の躊躇いも無く言葉が出てしまっていた。

 「やっぱり、そうじゃないと。」

 晃輔は、話を続けた。

 「そうじゃないと、洋子らしくないな。よよと泣き崩れるようなのは、洋子には似合わないよ。」

 と笑って言った。その表情は、洋子が想像していたものとは違って、至極穏やかなものだった。

 「ごめん。」

 返す言葉を必死になって探したが、洋子にはこれ以外のものは見付からなかった。

 暫く二人の間には、ガラス人形の置物のような無言の時間があった。洋子は膝の上で両手を握り締めて、伏せ目がちにワイングラスをじっと見つめていた。晃輔は、静かにワイングラスを取り、一口飲んだ。また、静かな時間が流れた。他の客の話し声や食器の触れる音が洋子の耳に着いた。しかし、洋子には、それらも時間が経つにつれ、聞こえなくなってきた。何らなす術も無く、言い訳もできない洋子は、ただ待った。時が自分の前を流れていくのを洋子は初めて見た。

 「そうだろうか。ムダなんだろうか。」

 沈黙を破ったのは、晃輔だった。

 「労力というのは、人に因って、遣ることに因って、かなり違うと思うから一概には言えないかもしれないけど、俺はムダだとは思わない。」

 それは、今までに聞いたことの無い力強い声だった。

 「単に親類や友人に対する「お披露目」というイベントと考えれば、洋子の言うように特にあらたまってやる必要は無いように思う。俺達二人が納得すればいいことだし、ああいう方法を取らなくても、知り合いに知らせる手段はいくらでもあるだろう。

 それと、幸せを分けてあげるというような言い方をする人もいるけど、俺は、それはちょっと違うんじゃないかと思う。俺達の幸せは俺達のもので、誰にも分けてあげる気は無いし、たとえ分けてあげられたとしても、それは俺達の幸せであって、それでその人が幸せになるとは限らないから。それに、分けてあげたら自分達のが減るように思えて。そういう意味では、結構わがままなんだ、俺って。アハハハッ。」

 と声を出して笑った晃輔は、そこまで言ってまたグラスを取り、少し多めにワインを飲んだ。テーブルの向かいに座っていた洋子は、黙って晃輔を見つめていた。そして、晃輔は続けた。

 「俺は、うまく言えないけど、ああいうのは、「機会」を持って帰ってもらうものだと思うんだ。披露宴とかには、いろんな人が来る。輝かしい未来が待っている若い人、既に人生の大半を過ごした人、最愛の伴侶を亡くしてしまった人、これからそれを見つけようとしている人、何でそこに居るのか分からない人、無理矢理押し込んででも来たい人、本当にいろんな人が来る。俺は、そんな人達が、これから共に生きていこうとしている二人を見て、どう思うのだろうと考えてみた。少し前のあいつらの披露宴に出た時に、そう思った。

 もしかしたら俺達は、そういう人達の席に小さな鉢植えを一つずつ置いて、持って帰ってもらおうとしているんじゃないかと。その鉢植えは真ん中に小さな双葉が出ているだけのもの。ある人はそれを見て、自分の子供達のことを思い、大きく育って素晴らしい花を咲かせている鉢植え思う。また別な人は自分達夫婦の結婚式を思い出して、清楚な白い花を咲かせている鉢植えを思う。ある人は、枯らせてしまうかもしれない。けど、どうして枯れてしまったのかを思う。

 俺達は、その鉢植えを用意するだけで、他に何もしない。いや、たぶん、何もできないのだと思う。すべては招待した人の心の中にしかないもの。だから、招待する人は選びたいと思うんじゃないかな。」

 晃輔は言葉を切り、グラスに残り少なくなったワインを一気に飲み、そこにまたワインを注ぎながら、

 「少し酔っ払ったかな。」

 と笑った。


 - この人は。


Ⅱ( 6 / 6 )


 それからまだ暫くはその店で話をしていたに違いないが、洋子には全くと言っていいほど記憶には残らなかった。店を出て、少し舗道を歩いている間、一言もしゃべっていないことに気が付いた洋子が俯いていた顔を上げた瞬間、

 「じゃ、今日はここで。またな。」

 と晃輔は横断歩道を渡っていった。

 「待って。」

 洋子は言ったつもりだったが、声にはなっていなかった。タクシーに乗り込み、遠ざかる晃輔を追いながら立ち竦んでいるのがやっとだった。

 次の日、予定通り晃輔は再びオーストラリアに発っていった。洋子は、仕事の都合でどうしても見送りに行けずにいた。オフィスの窓から見える空に向かって、思いを馳せるしかなかった。2、3日経ってからの晃輔からのメールには、偉そうなことを言って申し訳なかったこと、自分の思いを素直に伝えられたこと、プロポーズの話は真剣で、次の機会にゆっくりと話し合いたいことが書かれていた。最後に、洋子が洋子らしくあるために必要なものが何となく解ったことが書き添えられていた。

 自分が自分であるために、素直に生きるために必要なもの。洋子は何だろうと思いを巡らせた。直ぐにでもメールの返事を書こうと思ったが、いい加減なことは書きたくなかったので、ゆっくり考えて改めてメールすることだけを書いた返事を送った。次の日仕事から帰って夕食を摂って落ち着いてから、洋子は晃輔にメールの返事を書いた。遅くまで掛かってしまったが、それは洋子に必要な時間だった。


 そして、何が必要なのかも書き添えた。


 早朝、まだ外は明るく無く、日の出まではもう少し時間があり、それでも気の早い小鳥達は、太陽が昇るのを急かすように鳴いていた。そんな時刻に枕元に置いてあった洋子の携帯電話が鳴った。

 「おはよう、俺、コースケ。」

 洋子の寝惚けた頭は、直ぐに状況が把握できる状態にはなっていなかった。

 「おーい、洋子。俺だよ、コースケ。」

 何となく頭の中の歯車が噛み合いだして、思考が繋がろうとしていた。

 「もしもーし、洋子、もしもーし...」


Ⅲ( 1 / 1 )


-3-


 日差しが少し西に傾いたせいで、窓が向かいのビルの影に入り、ちょうどいい具合の明るさになった席で、洋子は目覚めた。目の前のテーブルには、少しだけコーヒーの残ったカップと伏せられた文庫本から挿んである栞が見えた。

 洋子は、完全に冷めてしまったコーヒーを飲み干し、バックを肩に掛け、席を離れた。ビル・エヴァンスが流れている。

 「愚かなりし我が心、か。」

 そっと呟いて、ひとりでに苦笑していた。

 少しはにかんだ笑顔を店のマスターに向けて、洋子はすっとドアを引いて外へ出た。店のドアは、洋子が帰っていくのを惜しむかのように、静かにトンと音を立てて閉じた。


 カランとドアのカウベルが鳴った。


しあき いさと
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