京都の街は、100万都市の割には意外と小さい。
これが京都府下となると、北は日本海に面し、南は大阪府、奈良県、兵庫県、滋賀県と接して、多彩な色を持っている都道府県なのだが、京都市域は周りを山に囲まれた典型的な盆地で、冬には滋賀県との県境にそびえる比叡山からの吹き降ろしである「比叡おろし」で、他府県の人の想像以上に冷え込む。その上、盆地特有のいわゆる「底冷え」が重なって、なお一層寒さが厳しくなる。
夏には、盆地が故に空気が淀み、湿度が異常に高くなる。空調が効いた建物から外に出たときには、重く湿った空気が体中に纏わり着き、不快この上ない状態になってしまう。
その盆地のちょうど底にあたる部分が、京都の繁華街四条河原町界隈である。この界隈以外では、これといって目立った繁華街が無く、大阪のキタやミナミといったような選択肢が無い。したがって、休みの日になると、老いも若きも四条河原町界隈に集まり、すごく混雑してしまう。
そんな京都の鴨川に、冬の風物詩であるユリカモメが見られるようになった頃の少し暖かな日に、洋子は一人、皆と同様四条界隈に買い物に出かけていた。年末も近くなった頃、急な仕事が入って、年末年始の休暇もほぼ返上し、仕事に明け暮れていた。年を越して、やっと休みが取れたのだった。一通りの買い物を済ませ、この界隈に来るといつも寄るオープンカフェに座って、窓の外を行く人並みを眺めていた。年が明けてまだそんなに日がたってないせいか、平日にもかかわらず、人手は多かった。その中の一人が冷たい空気を纏って洋子のいるカフェへ入ってきた。見覚えのある顔、河原晃輔だった。
「あれ、こんにちは。」
声をかけたのは、晃輔の方が先だった。洋子は少し驚いて、
「こんにちは、ご無沙汰です。」
と答え、軽く微笑んだ。
「ここ、いいですか。」
と晃輔は洋子の向かいの席を指差した。
「あ、いいですよ。どうぞ。」
洋子は席に置いていた紙袋を取り、自分の座っている椅子の横に置いた。晃輔は、カウンターへ行き、コーヒーを買って戻ってきた。
「汚れますよ。」
と晃輔は椅子の横に置かれた紙袋を見た。
「大丈夫ですよ、濡れていませんし。」
「そうですか、何か悪いことしちゃったな。」
と少し表情を歪めて、手に持っていたカップをテーブルに置き、洋子の前に座った。
洋子は、まだ晃輔のことをよく知らないし、その何か掴み所の無い雰囲気にどう反応したら困惑していた。
「会社は、お休みですか。」
話のきっかけは、洋子が作った。「知り合いの知り合い」レベルの関係ではあったが、かの新婚夫婦との付き合いも考えると、もう少し深く知っておいても損は無い人物だった。それに、対応に困ったまま話をするのも疲れるし、あの不思議な雰囲気を作り出すものが何かも知りたかった。
「今日は、元々休みだったんだけど、残務整理で少し出勤することにしたんだ。あ、俺の会社、このすぐ近所。」
洋子は、話を聞きながら無意識に相槌を打っていたが、よく考えてみると、この界隈には京都だけでなく日本中に、いや、世界中にも名の知れた一流企業の支店や事務所が多かった。
「失礼ですけど、河原さんて、どちらにお勤めなんですか。」
「「コースケ」でいいよ。仕事場以外で「河原さん」って呼ばれるの、そんなに好きじゃないんだ。呼びやすいでしょ、「コースケ」って。」
晃輔は、カップを口に運びながら爽やかに笑って、コーヒーを一口飲んだ。洋子は、少し待ってみたが一向に答えを返そうとはしないかった。
「で、どちらに...」
洋子は、その答えから、何か別の、期待を見事に裏切ってくれるような言葉が出てくるものと信じていた。
「ああ、ごめん。ここから、見えるだろ、あのビルの6階。」
「いや、そうではなくて...」
「あ、そうか、会社の名前ね。すいません。」
という言葉の後に晃輔が告げた会社の名前は、あまりにも期待を裏切らない有名IT企業だった。そこで、プロジェクトマネージャーの補佐的な仕事をしていると聞いた洋子は、暫く晃輔の顔を見たまま固まってしまっていた。
「木崎さん、木崎洋子さん、だったよね。」
と聞かれ、はたと我に返った洋子は、それでもまだショックから立ち直れず、コーヒーのカップを胸の前で両手で持ったまま、頷くのがやっとだった。洋子は、冷めかかったコーヒーをごくりと飲み、気を取り直した。晃輔は洋子の様子を見ていたが、洋子が微笑み返したのを見て、少し首をかしげてはいたが、ゆっくりと残りのコーヒーを飲み干した。
「いいところにお勤めですね。」
「いやぁ、そんなことは無いよ。良いのは外面だけでね、内情はどこも同じだよ。」
そんな会話が2、3出た後は、お互いの仕事での愚痴や最近あった面白いことなどの他愛も無い話しが続いた。小一時間ほど経ったころ、晃輔はすっと目の前に腕を出して腕時計に目を遣り、おっという顔をした。
「あ、そろそろ、俺、行きます。じゃ。」
と言って、席を立った。
「それじゃ、また。」
洋子は、自然に答えていた。店を出ようとしていた晃輔が、振り返って手を上げた。答えるように、洋子は軽く会釈をした。ほんの少しの間話しただけ。それも、大したことの無い内容だったが、ただ何となく、「また」がある予感が洋子には感じられた。
洋子は、しばらくそのカフェで晃輔が来る前と同じように舗道を行き交う人を眺めていた。そして、冬の早い夕暮れが近くなってきた頃、店を出た。人混みを暫く歩いて、おもむろに立ち止まって小さく溜め息をつき、そしてスッと姿勢を正して、駅までの道を急いだ。
それから暫くして、そろそろ桜かと言われ始める季節には、洋子と晃輔は付き合い始めていた。洋子の予感は、そのまま形となって目の前に現れた。例の新婚夫婦の家に晃輔も同様に夕食に招待された帰り道に、食事に誘われた。そのデートの日に晃輔から告白され、洋子は迷わずにOKしてしまった。それでも晃輔は、流石にその時は喜んでいたが、その後はいつものペースで、特に何が変わったということは無かった。洋子も仕事が忙しく、なかなか会えなかったので、そんな晃輔のペースに甘えていた。
少なくとも洋子には、俗に言う恋愛感情が芽生えたわけではなかった。浮かれたような感じは一切無く、至極冷静な自分が居ることを洋子は意識できていた。話をしたり一緒にいたりすると、同じ方向を向いているベクトルのようなものを何となく感じていただけだった。
ただ、洋子が知っている恋愛と言うものは、相手の思いや感情は洋子の方を向いているものだと信じていた。それが晃輔の場合は明らかに違い、一緒に同じ方へ引っ張られるような感じがしていた。今までに無い、そんな洋子の心中に晃輔は気付くはずも無く、洋子と一緒に居ることを純粋に楽しんでいるようだった。
晃輔の愛情は確かに洋子の方を向いていた。会う度にそれはひしひしと洋子には感じられた。それでも、愛情とは別の洋子が感じるベクトルは、明らかに洋子を指しているのではなく、洋子のと同じ向きであることも確かだった。思考の方向のような明確な形のものとは少し違った、感じ方の指向性とでもいうものが同じなのだと思った。同じ感情を同じ環境で表面化させる心の動かし方が似ているのかもしれないとも思った。
実際、物憂げな春という季節が洋子をこんな気持ちにさせたのかもしれない。この季節が晃輔の人柄と同調して、洋子のいる空間を知らない間に包み込んで、何もかもを馴染ませてしまって境目を見えなくしてしまったようでもあった。二つの空間が一つになり、その違和感の無くなったことで、あまりにもシームレスに二人でいることを実在化していた。それが思った以上に心地よく、洋子は素直に幸福な気分にさせていたせいで、晃輔と離れている時間も、それほど苦痛を感じることが無いまでに、晃輔の創り出す空気は洋子の心の中心にまで浸透していた。
こんな今までに感じたことのない肌触りの空気を、洋子はいつも感じることができた。よく考えてみると、洋子の部屋に例の新婚夫婦と初めてやって来た日の帰り際に感じた不思議な空気の色の変化は、晃輔の仕業に違いなかった。
洋子は、ずっと晃輔の傍にいたいと思ったことは今まで一度も無かった。逆に、いつも晃輔の空間に包まれているという感覚があった。晃輔の仕事が忙しくなり、暫く会えない日が続いても、それを妬ましく思うことはなかった。
ある日突然、晃輔が新しいプロジェクトのためにオーストラリアにある提携会社に長期の出張に行くことになった。
「半年も行っているのなら、私も一度はシドニーに行ってみようかな。」
そろそろ春も終わり初夏の風が吹き始めたころ、晃輔はシドニーに向け発とうとしていた。その見送りに空港で、洋子は何気なく言ってみた。
「そうだね、遊びに来ればいい。俺がちゃんと付き合ってあげられるかどうか分からないけど、少なくともホテル代は浮くからね。」
と相変わらずの笑顔で晃輔は答えた。その時、発着の表示盤が手続き開始を知らせた。
「じゃ、行くわ。」
「体に気を付けてね。メール、忘れずに。」
「分かったよ。」
スーツ姿の晃輔は、去り際に右手をいつもより少し高く挙げて歩いていった。洋子が後姿を追っていると、それに気付いたように、振り向きもせずに、晃輔はまた右手を挙げた。
二人が遠く離れてしまうことで、二人の心も同時に離れてしまうという世間で言われる不安は、やはり洋子も持っていた。しかし、自惚れとも過大評価とも取れる妙な自信が、洋子の中で次第に大きくなっていき、毎日の生活も充実していた。
洋子の仕事は、特にこれと言って大きな変化も無く、今まで通り淡々と毎日が進んでいた。以前は日々の生活をこなしていくという使命感のようなものを携えて生きていたが、活き活きと仕事にも接していた。
ある日、後輩の男性社員から、
「最近、何か、変わりましたね。彼氏でもできたんですか。」
と、からかわれたが、後半の問いは無視し、
「え、何か変わった、どんな風に。」
洋子は、自分では全く気付くところが無かったので、素直に聞き返した。
「厳しいのは依然と変わらないのですけど、クールなところが少し。」
「どんな風に。」
「前は、何か、突き刺さるようなところがあったんですけど、最近は染み入ってくるというか、何かそんな感じです。厳しいのは一緒ですけど。」
そして、
「感じが良くなったって、部長あたりでも評判になってますよ。」
と付け加えた。
良く言われることには悪い気はしないのだが、洋子は、自分の意識の中では、そんなところが一つも思い当たる部分が無いので、逆に妙な気分になって苦笑した。
「厳しいのは、変わり無しか...」
と独り言を吐いて、洋子は、少しだけ遥かな地にいる晃輔に思いを馳せてみた。そして、静かに気を取り直して、
「彼氏は、できたわよ。」
と言い残し、その場を去った。
その男子社員たちのざわめきを背に廊下を歩いて、こんな形で晃輔の影響が出ていることに洋子はあらためて感じ、胸の前に拳を当て、ギュッと力をこめて、その存在を確かめていた。
晃輔がシドニーに発ってから2ヶ月。何時遊びに行こうかと思案しているときに、赴任期間が延びるかもしれないという晃輔からメールが来た。流石の洋子もどういうことかといろいろと問いただしたが、今はまだ未確定で、何とも言えないというのが晃輔の返事だった。
話を聞いて、まさかそんな事態になるとは想像もしていなかった洋子は、晃輔の許へ行くために、急いで仕事のスケジュール調整を始めた。とにかく、何を置いても、晃輔に会って話をしないとと焦っていた。晃輔と話したからといって何ら解決するものはないのは十分に理解していたが、どうするのか、どうしたらいいのか、これからのことについて、晃輔の思いを聞きたかった。
これからのこと。それは、一緒に暮らすこと。
洋子も、これまで全く意識しなかったわけではないが、具体的に考えようとしたことは、この時が初めてだった。そんなことを二人で話をするのは、もう少し先のことだと思っていた。
スケジュールの方は努力の甲斐あって、何とか2ヶ月先くらいに無理矢理一週間ほどの隙間を作ることができた。相変わらず遅い夕食を摂りながら、パスポートの手続きなどに考えを巡らせていた時のことだった。
「ピン、ポン」
インターホンが来客を知らせた。こんな遅い時間に、まして何の連絡もせずに洋子の部屋を訪れるような人物には、洋子は心当たりが無かった。不審に思いながらも、
「はい、どなたですか。」
とインターホンのモニタを見た洋子は、玄関に走り出した。チェーンロックを外し、慌ててドアのロックを開けるのをすっかり忘れてドアノブを何回も廻していた。気を取り直してロックを開け、ドアをいっぱいに開けた。
そこには、何ヶ月か前にオーストラリアへ発って行った時のスーツ姿のままの晃輔が佇んでいた。理由は何も無かった。何も無かったのに、洋子は涙ぐんでいた。数秒間固まっていた空気が突然弾けたように、洋子は晃輔に抱きついた。
「おいおい、「おかえり」が先だろう。」
あの時、空港で別れたときのままの声。洋子の泪は既に溢れ、頬を伝って落ちた雫は、晃輔の上着に落ちて、すっと滲んで消えた。
「何、これ。」
晃輔に抱きついたままの洋子は、涙声でやっとその言葉を出した。
「ちょっと驚かそうと思ってね。」
晃輔は悪戯っぽく笑っていた。
「この前話した期間延長の話の結論が出たわけじゃないんだ。急に日本に帰って来なければならないことができて、ついさっき着いたところなんだ。」
少し残念そうに晃輔は話し始めた。
「一週間ほどはこっちに居るけど、またすぐに戻らないとダメなんだ。」
そして、少し間を置いて、いつまでも離れない洋子に、
「こんな夜中に訪ねて来る非常識なヤツは、中に入れてくれないのかい。」
と言った。晃輔は洋子の肩を持って優しく体を離して、首を傾げて微笑みながら洋子の顔を覗き込んだ。玄関先だったことに全く気付いていなかった洋子は、
「いぢわるね。」
と晃輔の手を取って、久々に晃輔の暖かさを手のひらに感じながら部屋に招き入れた。
それから、晃輔の向こうで住んでいる街のことや会社のことなど、今まで何度もメールで話をしたようなことを、笑ったり愚痴を言ったりしながら、もう一度確認するかのように二人は話した。気が付けば既に日付が変わってから、かなりの時間が過ぎていた。
「泊まっていく?」
言葉が出てから、自分が何を言ったか理解していなかった洋子は、自分でも驚き口元を手で押さえていた。でもそれは、何の違和感も無く、自然な流れの中から出た言葉だった。
「いや、明日も早いし、ホテルも押さえてあるし。それに、一緒に来た現地の社員には、ちょっと出てくるとしか言ってないから。そう言えば、そんなことすっかり忘れてしまってた。」
洋子の表情の変化には気にも留めず、晃輔は一しきり大笑いした後、スーツの上着を手に取り、
「時間があれば、食事でもしようよ。もし、時間が取れなくても、必ずもう一度連絡するから。」
と言って、時計を見て、苦笑いをしながら玄関の方へ歩いていった。洋子は慌てて席を立ち、後を追った。晃輔が靴を履いている間に、
「必ずよ。」
と洋子は晃輔の背に言った。
「必ず。」
と答え、顔を上げた晃輔の目の前には、洋子の顔があった。
二人は、そっと唇を合わせた。洋子の目からは、また涙がひとすじ流れた。
「なんか、洋子らしくないな。」
と洋子に晃輔は微笑みながら言った。洋子は、自分でもそう思いながら、
「ばか。」
と一言だけ答え、晃輔を送り出した。
「必ず連絡してね。」
部屋の外に出てからも、晃輔の去り際に再び洋子は言った。
「必ず。」
晃輔はまた笑って答え、そうして帰っていった。
洋子は、晃輔が見えなくなった後も、先ほどのキス余韻を確かめるように暫く部屋の前で佇んでいた。
「ばか。」
と独り言を呟いて、部屋のノブに手を掛けた。金属の冷ややかな感触が、少々興奮気味の洋子の手のひらには心地よかった。