幻の恋

 誰でも、夢に生きることは普通なんだ。夢があるから生きていけるのかもしれない。子供のころ、猫が苦手でね、夢で猫に追いかけられたんだ。ひたすら逃げても追いかけてくるんだ。ますます後ろを見るのが怖くなってひたすら走るんだ。だけど、いくら走っても早く走れない。疲れてくるし、怖くなるし、もうだめだと思ったとき、エイ!って思い切って振り向いたんだ。すると、猫が消えていたんだ。面白いだろー」

 


 子供が昼寝をして、夢で笑っているかのような佳織の笑顔に、拓也はしばらく見入っていた。浜松駅の文字が目に入ったとき、甘い香りが鼻を包んだ。15歳ぐらいの少女が長い脚をこの世のすべての女性に対し自慢するかのように、大またで拓也の横を通り過ぎた。彼女は通路を挟んだ斜め前の通路側の席にポンと腰掛けた。窓際には彼女の友達と思われる髪をブロンドに染めたほぼ同じ年の少女が座っていた。

 


 脚の長い彼女の前にはそ知らぬ顔をしたコロンダ君が眉間にしわを寄せ目をつぶって静かに座っていた。ドクターに頼まれて二人を尾行している。ドクターの友達の弟で25歳のキャリアである。この若さで警察署長の役職についている。これは経歴のためではあるが異例の出世であろう。だが、キャリアに似合わずとても優しい性格をしている。典型的な草食系で見た目はひょろっとしていて、風が吹けば飛んでいきそうなほどひ弱な体格をしている。コロンダは時々躓く彼を見てドクターがつけたあだ名である。

 

 

 

 拓也は”美のいたずら”について思う。彼はいたって品行方正だ。両手を腿の上に置き黙って座っている。偶然にも、美少女が下着が見えんばかりのレザーの超ミニスカートで男の好奇心を刺激しながら、美しい足を眼前にプレゼントしている。彼女は好意を持って「美」をプレゼントしているが彼にとってはありがた迷惑に違いない。男であれば痛いほどわかる。

 


 少女が自分の美しいものを他人に見せたい、と思う気持ちはわかるような気もする。確かに、美しい脚は周りの人の心を清める。このように、長く、美しい脚は希少価値があり、特に男に対し多大の貢献をしている。だが、若い精力旺盛な青年にとってどれほど酷か。心臓が痛むほどだ。この手の拷問に耐えるには全理性を総動員しなければならない。

 


 拓也はコロンダ君の役目を考えると気の毒になってきた。この旅行が終わったら食事にでも誘ってねぎらうことにした。今回の役目は単なる尾行であろうが、彼が引き受けたのにはもっと他の意図があったのかもしれない。K教団と国際的人身売買地下組織BSHのと関係についてドクターから先日話を聞いていた。佳織が予想以上に危険な状況にあるとすれば、拓也はとても重要なボディガードということになる。

 

 

 

 

 息で佳織の長いまつげをくすぐると、佳織を窓際に押しやり席を立った。5分ほどして戻ってくると佳織はいなかった。周りを見渡したが姿は無かった。佳織はトイレに違いないと思い、左手で胸を抑え元の席に静かに座った。そのとき、鋭い目つきのドクターの顔が突然脳裏に浮かんだ。とても暗く長い時間に襲われた。

 


 「先生」佳織が後ろから覗き込んだ。振り向くと佳織の笑顔があった。ほっとした拓也はほほを緩め目を閉じた。横に佳織が腰掛けるとバラの甘い香りが流れてきた。「もうすぐ、名古屋かしら」佳織は拓也に訊ねると、拓也の正面に腰掛けている婦人を一瞥した。拓也がハンカチで額の汗を拭き取ると偶然、本から目を上げた正面の婦人と目があった。すぐに目をそらしたが、60歳半ばを過ぎたと思われる、金縁のメガネをかけた品のある和服姿の婦人が声をかけてきた。

 


 「どちらまでですの?」婦人は本を閉じると拓也を覗き込むようにして訊ねた。見知らぬ婦人からの突然の質問にとまどったが即座に返事した。「京都までです」婦人は目を輝かせ身を乗り出してきた。「あら、私もでざいますのよ。孫に会いに行きますの。娘さんと京都観光でいらっしゃるのね。お美しい娘さんでいらっしゃるわね」婦人の一方的な話にむかついたが丁寧に訂正した。「いえ、生徒です。京都で家族と合流することになっています」拓也は目を佳織に移したが婦人は話を止めなかった。

 

 

 

 

「今の若い子は派手でざーますわね。女は和服が一番ですわよね」婦人の通路を挟んだ斜め前には顔に絵を描いたような奇妙な化粧をした少女が座っていた。拓也は返事をしなかったがそれでも話を止めなかった。「ところで、どこかでお目にかかったような気がしますわ。あ!思い出しましたわ。テレビだわ。ヒロシがいついも見ていた。数学の先生でいらっしゃるのね」

 


 「はあ~」拓也はとんでもない婦人に絡まれたと思ったがやむを得ず返事した。婦人は笑顔を作り目まで輝かせてメガネの右端を少し持ち上げた。「先生はアーベルでいらしたわね。私もアーベルですの。孫のヒロシもアーベルに行かせたいと思ってますの。そう、ヒロシは先生を尊敬してますの。よろしければ、こちらにサインいただけません?きっと喜びますわ」膝の上の本を開き拓也の目の前に差し出した。拓也は筆記体のローマ字でサインすると佳織の顔色をうかがった。

 


 佳織の目はつりあがっていた。「先生、次は何処かしら?」佳織は足を組み拓也の手をしっかりと握った。それを見た婦人は目を大きくした。「名古屋・・名古屋・・」心地よいアナウンスが流れてきた。「もうすぐね。早く佳恵さんに会いたいわ。待ち合わせは何処なの?」佳織は少し怒った口調で睨みつけた。拓也はどうして急に怒り出したのかわからず硬い笑顔を作って防御した。

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
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