幻の恋

 

 「人間は不完全でいいんだよ、できそこないでいいんだよ。悩んで、苦しんで、泣いて、笑って、恥かいて、それでいいんだよ」拓也はもっと会話が続くことを願った。「ママってね、他人に自慢できる、エリート人間になれって言うの。成績は一番、品行方正、常に模範生。そんな人間になんてなれっこないのに。もっとムカつくのは男の子からメールが来ると目を吊り上げたりするの。いつも監視されてるの。佳織はママのロボットじゃないわ」佳織の声は悲しげであった。

 


 佳織の心の傷がとても深いことに気づいた。拓也は女性の心理は苦手であったが自分の気持ちを素直に話すことにした。「先生も逃げ出したくなるときが何度もあったな。スポーツ音痴だから運動会は死ぬほどいやだった。水泳もだ。まったく泳げなかったから、水泳の時間は仮病を使ってたな。それに、口下手だから女の子と話せなくて、話しかけられると逃げてたっけ。高校の合格発表の日も怖くて見にいけなかったな」拓也は学生のころを思い出しぼそぼそと話した。佳織は子供のような瞳で流れる景色をじっと見つめていた。

 


 佳織は静かに小さな声で話し始めた。「確かに逃げているの。自分を救ってくれる夢の中に。だけど、いつまで、逃げればいいのかしら」佳織は本当の悩みを見つけようとしていた。「そうだなー、おかしなもので、とことん逃げてもメビウスの輪みたいに、いつの間にか元のところに戻ってくるんだな。ほら、楽しい夢を見ていて終わらないで、このまま夢が続いてって、思ったことがあるだろ。だけど、目が覚めたとき、やはり、夢の中の自分はうその自分であることに気づくんだな。夢は夢でいいじゃないか。

 

 

 

 誰でも、夢に生きることは普通なんだ。夢があるから生きていけるのかもしれない。子供のころ、猫が苦手でね、夢で猫に追いかけられたんだ。ひたすら逃げても追いかけてくるんだ。ますます後ろを見るのが怖くなってひたすら走るんだ。だけど、いくら走っても早く走れない。疲れてくるし、怖くなるし、もうだめだと思ったとき、エイ!って思い切って振り向いたんだ。すると、猫が消えていたんだ。面白いだろー」

 


 子供が昼寝をして、夢で笑っているかのような佳織の笑顔に、拓也はしばらく見入っていた。浜松駅の文字が目に入ったとき、甘い香りが鼻を包んだ。15歳ぐらいの少女が長い脚をこの世のすべての女性に対し自慢するかのように、大またで拓也の横を通り過ぎた。彼女は通路を挟んだ斜め前の通路側の席にポンと腰掛けた。窓際には彼女の友達と思われる髪をブロンドに染めたほぼ同じ年の少女が座っていた。

 


 脚の長い彼女の前にはそ知らぬ顔をしたコロンダ君が眉間にしわを寄せ目をつぶって静かに座っていた。ドクターに頼まれて二人を尾行している。ドクターの友達の弟で25歳のキャリアである。この若さで警察署長の役職についている。これは経歴のためではあるが異例の出世であろう。だが、キャリアに似合わずとても優しい性格をしている。典型的な草食系で見た目はひょろっとしていて、風が吹けば飛んでいきそうなほどひ弱な体格をしている。コロンダは時々躓く彼を見てドクターがつけたあだ名である。

 

 

 

 拓也は”美のいたずら”について思う。彼はいたって品行方正だ。両手を腿の上に置き黙って座っている。偶然にも、美少女が下着が見えんばかりのレザーの超ミニスカートで男の好奇心を刺激しながら、美しい足を眼前にプレゼントしている。彼女は好意を持って「美」をプレゼントしているが彼にとってはありがた迷惑に違いない。男であれば痛いほどわかる。

 


 少女が自分の美しいものを他人に見せたい、と思う気持ちはわかるような気もする。確かに、美しい脚は周りの人の心を清める。このように、長く、美しい脚は希少価値があり、特に男に対し多大の貢献をしている。だが、若い精力旺盛な青年にとってどれほど酷か。心臓が痛むほどだ。この手の拷問に耐えるには全理性を総動員しなければならない。

 


 拓也はコロンダ君の役目を考えると気の毒になってきた。この旅行が終わったら食事にでも誘ってねぎらうことにした。今回の役目は単なる尾行であろうが、彼が引き受けたのにはもっと他の意図があったのかもしれない。K教団と国際的人身売買地下組織BSHのと関係についてドクターから先日話を聞いていた。佳織が予想以上に危険な状況にあるとすれば、拓也はとても重要なボディガードということになる。

 

 

 

 

 息で佳織の長いまつげをくすぐると、佳織を窓際に押しやり席を立った。5分ほどして戻ってくると佳織はいなかった。周りを見渡したが姿は無かった。佳織はトイレに違いないと思い、左手で胸を抑え元の席に静かに座った。そのとき、鋭い目つきのドクターの顔が突然脳裏に浮かんだ。とても暗く長い時間に襲われた。

 


 「先生」佳織が後ろから覗き込んだ。振り向くと佳織の笑顔があった。ほっとした拓也はほほを緩め目を閉じた。横に佳織が腰掛けるとバラの甘い香りが流れてきた。「もうすぐ、名古屋かしら」佳織は拓也に訊ねると、拓也の正面に腰掛けている婦人を一瞥した。拓也がハンカチで額の汗を拭き取ると偶然、本から目を上げた正面の婦人と目があった。すぐに目をそらしたが、60歳半ばを過ぎたと思われる、金縁のメガネをかけた品のある和服姿の婦人が声をかけてきた。

 


 「どちらまでですの?」婦人は本を閉じると拓也を覗き込むようにして訊ねた。見知らぬ婦人からの突然の質問にとまどったが即座に返事した。「京都までです」婦人は目を輝かせ身を乗り出してきた。「あら、私もでざいますのよ。孫に会いに行きますの。娘さんと京都観光でいらっしゃるのね。お美しい娘さんでいらっしゃるわね」婦人の一方的な話にむかついたが丁寧に訂正した。「いえ、生徒です。京都で家族と合流することになっています」拓也は目を佳織に移したが婦人は話を止めなかった。

 

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
幻の恋
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