幻の恋

 

 息で佳織の長いまつげをくすぐると、佳織を窓際に押しやり席を立った。5分ほどして戻ってくると佳織はいなかった。周りを見渡したが姿は無かった。佳織はトイレに違いないと思い、左手で胸を抑え元の席に静かに座った。そのとき、鋭い目つきのドクターの顔が突然脳裏に浮かんだ。とても暗く長い時間に襲われた。

 


 「先生」佳織が後ろから覗き込んだ。振り向くと佳織の笑顔があった。ほっとした拓也はほほを緩め目を閉じた。横に佳織が腰掛けるとバラの甘い香りが流れてきた。「もうすぐ、名古屋かしら」佳織は拓也に訊ねると、拓也の正面に腰掛けている婦人を一瞥した。拓也がハンカチで額の汗を拭き取ると偶然、本から目を上げた正面の婦人と目があった。すぐに目をそらしたが、60歳半ばを過ぎたと思われる、金縁のメガネをかけた品のある和服姿の婦人が声をかけてきた。

 


 「どちらまでですの?」婦人は本を閉じると拓也を覗き込むようにして訊ねた。見知らぬ婦人からの突然の質問にとまどったが即座に返事した。「京都までです」婦人は目を輝かせ身を乗り出してきた。「あら、私もでざいますのよ。孫に会いに行きますの。娘さんと京都観光でいらっしゃるのね。お美しい娘さんでいらっしゃるわね」婦人の一方的な話にむかついたが丁寧に訂正した。「いえ、生徒です。京都で家族と合流することになっています」拓也は目を佳織に移したが婦人は話を止めなかった。

 

 

 

 

「今の若い子は派手でざーますわね。女は和服が一番ですわよね」婦人の通路を挟んだ斜め前には顔に絵を描いたような奇妙な化粧をした少女が座っていた。拓也は返事をしなかったがそれでも話を止めなかった。「ところで、どこかでお目にかかったような気がしますわ。あ!思い出しましたわ。テレビだわ。ヒロシがいついも見ていた。数学の先生でいらっしゃるのね」

 


 「はあ~」拓也はとんでもない婦人に絡まれたと思ったがやむを得ず返事した。婦人は笑顔を作り目まで輝かせてメガネの右端を少し持ち上げた。「先生はアーベルでいらしたわね。私もアーベルですの。孫のヒロシもアーベルに行かせたいと思ってますの。そう、ヒロシは先生を尊敬してますの。よろしければ、こちらにサインいただけません?きっと喜びますわ」膝の上の本を開き拓也の目の前に差し出した。拓也は筆記体のローマ字でサインすると佳織の顔色をうかがった。

 


 佳織の目はつりあがっていた。「先生、次は何処かしら?」佳織は足を組み拓也の手をしっかりと握った。それを見た婦人は目を大きくした。「名古屋・・名古屋・・」心地よいアナウンスが流れてきた。「もうすぐね。早く佳恵さんに会いたいわ。待ち合わせは何処なの?」佳織は少し怒った口調で睨みつけた。拓也はどうして急に怒り出したのかわからず硬い笑顔を作って防御した。

 

 

 

 

 二人は京都駅に着くと駅のみやげ物売り場で時間をつぶすことにした。なぜか佳織は機嫌を損ねたらしく、急に笑顔を消してしまった。佳織は拓也から少しはなれて、時々拓也を一瞥するとみやげ物に目をやった。拓也はどうやって機嫌を取り戻せばいいか悩んだあげく手鏡を手に取った。「佳織、ほら、かわいい手鏡見てごらん!」佳織は鏡に映った自分の顔を見てニコッと笑った。「オヤ!オードリー・ヘプバーンが笑っているぞ」拓也はやっと思いついたほめ言葉を投げかけた。二人は3時に佳恵と合流した。佳織は佳恵と二人で京都巡りを楽しむことにした。
              *黄色い風船*

 


 3ヶ月の入院はようやく現実と向かい合える佳織を取り戻させた。無事退院を許された佳織は久しぶりに自分の部屋のベッドに寝転がり、京都旅行をしたときのことを思い出していた。二人は佳恵の部屋で未来について一晩中語り合った。「東京か。ええやろなー」パジャマの佳恵は窓から星を眺めていた。「私は嫌いよ。空気も、心も汚いし、うんざりだわ」シルクのナイトドレスの佳織はベッドに腰掛、駅で買った手鏡の中のすましている自分の顔をじっと見つめていた。

 


 「ずっと東京に憧れてたんやわ。他人の芝生はよく見えるってやつやろか」佳恵は星空に向かってつぶやくと佳織の横にジャンプして座った。「私は京都に住みたいわ。ところで、佳恵さんの彼氏ってどんな人?」佳織は笑顔で訊ねた。「彼氏って言うか、なんと言うか・・高一のとき、テニスの試合会場で知り合ってな、そいで、あいつ、ほんまにやぼったいんけど、なんとなく好きになってしもうてんな、まあいいかっと思って、やっちゃった。佳織さんは?」佳恵は誰にも話したことの無い経験を告白した。

 

 

 「いないのよ、ごめんね」悲しい声で答えると佳織は目を閉じてうつむいた。佳恵は急に立ち上がると机のに置いてあった小さな箱を取りに行った。「気に入ってくれるといいんやけど」佳恵が小箱を手渡すと佳織は即座に開いた。「ステキ!西陣織の財布。ありがとう」藤色の地に真っ赤なバラが描かれた財布を手に取りお礼を言った。佳織はバッグの中からホテルで買った赤ワインを取り出した。

 


「佳恵さん、今夜は飲み明かしましょ。二人の未来に乾杯よ」佳恵は将来は世界各国を飛びまわり、テニス、ゴルフを取材するスポーツジャーナリストになる夢を語った。まだ、現実を見つめることができない佳織は卒業までに決めると誓った。そのときの情景が鮮明に映画を見るように佳織の脳裏に広がっていた。

 


 拓也は何度と無く佳織の安否を気遣い見舞いに行った。3ヶ月の期間は佳織の傷ついた心に拓也の優しさがゆっくりと深くしみ込むには十分であった。佳織にとって男性からの初めての優しさであった。京都旅行のとき今までに経験したことの無い男性への感情を抱いたことを佳織はやっと気づいた。自宅療養をしている間でも佳織の心には拓也の優しい瞳がいつもあった。

春日信彦
作家:春日信彦
幻の恋
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