僕ら女の

第二章 接触( 2 / 4 )

僕の周囲には、川原の月見草が咲いては消え、消えたかと思うといつのまにか群生するのにも似て、女性の影が絶えない。

最初の一歩を踏み出し、最初の一語を喋り、最初の外出をしたとき、一秒後に何がおこるか、どうなるのか、どうするのか、分からなかった。

未知の世界へ踏み出す宇宙飛行士さながらだ。

渺々とした荒野が目の前にあるのみだ。
自分は男だ、と宣言したとき、それが単に女性を拒否したことを意味しなかった。

同時に、男性のまねをすることを意味していなかった。

そんなものを意味していなかったからこそ、人は今や、ただ混とんとして輪郭のぼやけた事象のただ中に、困惑して立っている自分を、知らざるを得ない。

これが脱女性人の現実である。

最初の開放感と全能感はたちまち虚脱感に変わる。

街は差別にあふれている。一行の広告も愕然とせずに読むことは無い。

女性は美しくあれ、低能であれ、恋愛ぼけであれ、結婚願望を持て、今年はこの色を着よ、プリンスを夢見よ、社会の労働力再生産プログラムの臨機応変な受け皿であれ。

僕はただ願うのだ、差異のままにしておいてほしい。
どうか差別しないでくれ。
劣った部分と見なさないでくれ、支配しよう命令しようとのみ対しないでくれ、と。

僕たち女も人間なのだ。
家族という日常生活のなかでどうか僕たち女を二十四時間隷属物扱いしないでくれ、誰もしたくないような原始的な仕事は女性に任せておけなどと思わないでくれ。

あるいは、人類はここまでの歴史的流れを通じて、社会生活の効率をこのやり方で上げてきたとも言える。

言いたくはないが、男性たちの倦くことなき好奇心と粘り強さと協力とによって。

しかしこの結果は決して洗練されているとは言えない。
僕たち女をここまで貶めることによって達成したのであれば。

たとえばこの近代社会が正しいルートにしたがっている、自らの権力思考に自ら抗し、人間生活の快適化進化に寄与しつつあるとしよう。

他民俗支配や人種支配を克服すること未だ遠しと雖も、あからさまな支配を行うには大義に照らして余りに目立ちすぎ、ままならぬ時代になったとしよう。

ここまで人間社会が洗練されてきたとして、そのただ今、しかし僕たち女性は人の男性にとって最後の秘かな個人的な隷属物、所有物、奴隷である。
最後に死守すべき領域、ということだ。

ある午後、僕は、ただの上着、ただのズボンを身に付けて、緑色のスカーフを首に巻いて歩きやすい靴でかっぽしながら、たくさんの夫たちとその妻たちのまだ見ぬ顔を思い描いていた。

第二章 接触( 3 / 4 )

彼、つまり僕の家の所有者にして戸籍筆頭者である僕のご亭主は言ったものだ。

「俺たち男性こそ君たち女性の使用人なんだよ。力仕事するだろ、戦争に行くだろ、家を
建てるだろ、電気水道工事するだろ、機械を作る工場をみんなで建設するだろ、橋を造り、
道路を造り、きれいな色を塗り、ありとあらゆる役立つものを、役に立つのみならず芸術
的なセンスで飾りたてもするじゃない。

特別な才能をもつ男性はその能力をできうる限り開発する。

学問も科学も人間研究の仕事で、それは人間に備わっている真理探求への倦くことなき好奇心さ、その一方で絵をかく者、音楽を創り奏でる者あり、映画をつくり愉しませ、出来るだけ楽しい、いい暮らしを君たちにさせようとするじゃない。

女性たちはそんな男たちの努力の結果を座って待って、鷹揚に受けとってくれればいいのさ。

おまけに、若い夫たちは家事育児も手伝うだろ、それもこれも、ただひとえに君たち妻に楽をしてほ
しいからさ、俺たち男性が頑張ってあげるからさ。たやすい仕事だろ。
家事をして子供と遊び、導き、家庭を美しく磨いて、庭に花を植え、君たち自身も美しい気分になるじゃない。
そんな風に君たちが暮らして、いつまでもつやつやの肌でいてほしいんだよ。

そして俺たちが家にいるときは優しく撫でてくれて、おいしい物を食べさせてくれたら、また次の
日は元気に働いて、運がよければ社会的名声や地位を手に入れ俺も君もこの人生に満足し
て、最期は俺達の作った清潔な病院で死んでいける。

子どもたちは最高の教育を受けただろう。財産も少しはのこるだろうさ、戦争もなく、運が悪くなければ。
だから、愛する君たちよ、大事な君たちよ、

俺たちが働くのは誰のためでもない、君たちをのうのうと家で暮らさせるためだよ、その生活を楽しんでよ。
そんな人生を送れることを感謝してほしいくらいだよ」


僕の婚姻相手はこう説得して、僕を抱き締め
ようとすらしたものだ。

第二章 接触( 4 / 4 )

「そして君にその他にエネルギーが余ってるというのなら、なんらかの能力が開発されたがっているというのなら、どうぞ、したらいいさ、そんなすごい能力を眠らせておくのは
損失だからね、していいよ、いいよ」

僕はこの言い方を聞いて、屈辱と悔しさの余り地面に座り込んだ。
自分は男だ、と言い聞かせなければ、罪悪感にさいなまれる。
最低だった。この仕組が憎かった。


「何故? 何故二人とも各自で仕事を選んで
遂行し、二人で家事も育児もしないの?」
と僕は以前こんな風に異議を申し立てた。語
尾が女言葉だった。



大阪府高槻市の城跡の駐車場横にたつクスノキの新芽がかぐわしく匂っている、ひとつの木陰に、女人の姿が立っている。

約束の青色のスカーフが薄青色のスーツの襟元に巻いてあるところを見ると、これが意識の変身を遂げたカツラ氏であろう。スカート姿である。

僕は懐かしい気持がして、思わず急ぎ足になり、右手を上げた。カツラ氏も歩きやすい靴を履いている。誰がパンプスなど履くものか。

「カツラさんですね。トビウオです」
「トビウオさん、ようやく出会えました」

僕たちはまじまじと見つめ合った。僕とは同じ年頃の、彫りの深い、写真の晶子を思わせるような雰囲気を持つカツラ氏だ。
カツラ氏は、告白以来自分が肉体的にも男であるという前提でこれまで僕に応対していたのを意に介さない様子だった。
それは一とゼロとで成立する不可視の電波の世界の架空の姿である。

僕は、驚きも示さない。歯牙にもかけず世にも当たり前のように肯く。

カツラ氏もすでに肉体の男女の区別を超越していた。

「トビウオさん、そのお姿には特別な印象深さがあります」
「そうですか。僕たちの髪型は偶然似ていますね、もっとも外見はどうでもいいって言うか、なるようになるだけで」
「気持が動くままに装っていますよ、今日はこの空の色に溶け込むようにと僕は思ったのです」
「もう少し暑くなったら、一度丸坊主にしようかな」と僕トビウオ。

「僕たちはただ、人間として普通に取り扱ってほしいだけです。経済的に自立すること、それに付随する苦労を回避するつもりは無い、弱い優しい存在として保護してもらわなくて言い、そのかわりに自由な自己決定権を命と同じくらい強く要求する。
自己責任は当然です。
ただ平等な選択条件がなければならない。

家事をするという前提では全くひどいです。
共産主義のソ連時代においても女性は同等に労働した上家庭ではやはり家事をすべてしていたと読みましたが、僕は実に悲しくなりました。
ただ唯一の問題は、妊娠出産授乳という行為を女性しかできないという点ですが、これについては考慮が必要です。
特別な自然条件として考慮を要求しなければならない唯一の点です」

僕は、カツラさんにはとっくに身にしみて分かっていることを、唐突に脈絡なく申し立てた。

まずこの点が明白にならなければ当の女性に力は湧かないのだ。
いつまでも罪の意識がブレーキをかけ、不満と不平で終わってしまう。彼女の一度しかない時間が。

「そうですね、最近はかなり確信を持つようになりました。彼が家事を手伝っても罪の意識を抱かなくなり、軽やかにご苦労様、と声をかけます。ただ二人とも家にいますから、ある意味、当たり前のことともいえますけれども、夫だけが毎日働きに出ている場合、役割分業がむしろ自然の成り行きとなるのは否めません。そして当然の結果として、家事は程度の低い活動であり、その担い手も愚かな、存在価値の低い生き方なのです。
こうして男の女への軽蔑の理由がすでに長年にわたり信じられ、実証されています」
と、カツラ氏が言う。

第三章 結束( 1 / 8 )

「ただ、よく世間で攻撃の対象となっている、例の『のうのうと専業主婦でいたがる女』、あるいはその変形である『専業主婦すらも満足にしない女』の存在をどう考えるか。

この言い方そのものが実にこの言葉の核心を突いていますが、そんな女が居ることも事実です
けれども、しかし、考えてみると男の数パーセントは全く働かないし、あるいは女を働かせて自分がのうのうとしている訳ですが、それでも男全体が無能力だとは決して言えないわけです。

これと同様に、数パーセントの女が、好んで自分で生活を支えない方を選ぶからと言って、こんなにも簡単に女と家事を結びつけ価値の低い者と貶める社会であっていい理由はありません。

この歴史は、連綿と続いてきた。女性たちは社会進出をある程度果たしたが、それはいっそうの困難を与えている。ジレンマのなかに閉じ込められている。

女性自身の性意識が自らを不自由にし、苦しめている。そうですよね。
僕はこの前まで、こんなことを思う自分はおかしいのだ、わたしがわがままなのだ、と自分を責めていて、しかも虐げらているという確信のためにパニックになって眠ることもできなかったのです。」

カツラ氏のこんな告白を、僕は視線を外すことなくじっと聞いた。
僕たちは、全くの意見の一致を見た。そして声をそろえて言うのだった。

「僕らは男だ。
これからの長い変革の道のりを歩むとき、女性としてそだった意識をねじ曲げるよりも、すっぱりと捨ててしまうことにしたのです。
自分は男だ、と考えることにしたのです」


僕たちはお互いのしわやシミのあるくすんだ顔を見つめ合った。
化粧っ気のないのは自分が女性ではないという印だった。
しかし淡い色のマニキュアをつけているのは、自分が権力意識を持った男性ではない、という印だっ
た。
快楽享受了解であれば、ないしはさらに受胎了解であればその印として、何かを特別に付け加えたであろう。
時代を反映せざるとえないとして、口紅やヒールやアルコールや美しい靴下とか?


「少し月並みですか?」

僕たちはどちらからともなく、こんなことを了解しあいながら歩き続けていった。
何か生まれてきそうな具合だった。

東天
僕ら女の
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