父さんは、足の短いミラネーゼ

乾杯、ミラノ!( 4 / 8 )

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

 

スイスのサンモリッツでの思い出はたくさんある。一番印象的なのは、僕がフィアット850でサンモリッツまで最初にでかけた時だ。その頃のフィアットの車は、一般的にフィアット145とか、もっと大きいモデル以外はほとんどRR(リア・エンジン、リア・ドライブ)で、僕の850(オットチェントチンクヮンタ)もそうだった。ハイギアードで、平地ではスピードが出るが、山道の登りでは青息吐息だ。

 

今と違ってミラノからサンモリッツまで高速道路もなく、コモ湖の湖畔を200キロほど北に登っていく、古い曲りくねった道だった。ミラノのフィアット販売の人が、イタリア語の分らない僕に、それこそ手取り足取りで、850の操作を教えてくれた。どうにか一人で、850をちゃんと動かせるようになって、初めてサンモリッツに向かってコモ湖畔を登っていった。中世からの古い石畳の街道をひとりで辿った。

 

夕暮れになって、サンモリッツに着いて道を間違えた。方向転換をしようと、ギヤをバックにいれようとしてギヤチェンジを試みても、どうしてもバックに入らない。ミラノで教えてもらった通りにやったつもりなのだが、どうしてもバックができない。あせった。しかたなくそこに車を置いて、歩いて車関連の店を探す。かなり降りていて、店を見つけた。必死に、身振りで助けを求め、店の人と一緒に車に戻った。

 

彼は簡単にバックにいれた。見習って僕もやってみるけど、やっぱりは入らない。もう一度彼はゆっくりやってみせてくれた。よく見ていると、ギヤ・チェンジレバーを動かす前に、レバーをちょんと真下に押し込んでいる。それが秘密だった。冷や汗が流れ出した。もう夕暮がちかづいていた。路肩には、まだ深い雪が残っていた。サンモリッツに着いてからでよかった。急な上り坂の途中だったら、と考えるとぞっとした。彼は手をふってスタンドへ帰っていった。ギヤを押し入れるなんて簡単なことだけど、分かっていないととても思いつかない。やっと宿に着いた。ほっとした気持ちで一杯だった。

 

 

その春、やはりスキーでサンモリッツにいった。ホテルの駐車場が一杯で、外の駐車場に入れた。翌朝、凍てついた寒さの中、駐車場でエンジンをかけようとしてセルを回した。けれどエンジンはかからない。白い煙がポッツポッツとでるだけだ。あせった。僕の車はミラノ登録だから、ナンバー・プレートは「MI」だ。ミラノの車だってことはすぐ分かる。足の短い東洋人がフィアットと格闘しているのをみて、沢山の視線が集まる。駐車場は除雪が完全ではなく、車の周りは積み上げられた雪に囲まれている。足をとられながら、出たり入ったり、エンジンルームを開けたりだ。バスの運転手さんたちが、見るに見かねて集まってきて、僕を助けてくれる。しかしエンジンは冷え込んでかからない。なかの一人が自分のバスから、スプレーを持ってきてくれた。キャブレターに突っ込んでエンジンを回すと火が入った。やったー!!エンジンが回ってうれしくて、そして、親切がうれしくて涙が出そうになった。

 

その運転手さんたちのバスはイタリアからのバスだった。イタリア人はとても同郷の人に親切だ。彼は僕のナンバープレートの「MI」をみて、ミラノからの変な東洋人だと分ったのだ。イタリア人にとっての外国、スイスで、僕はイタリア人に同胞として親切にしてもらったのだ、日本人の僕がミラネーゼとして。彼はそのスプレーを持っていけといって僕にくれた。僕は何度もお礼を言って出発した。

 

 

もう一度はもっと深刻だった。その夏休みに、スイス・オーストリア・ドイツを3週間ばかり旅行した帰り道、オーストリア・スイス国境のオーストリア最後の町の手前で、僕の不注意が元で、軽い事故になってしまった。片道2車線の道路が急に1車線になっていて、ブレーキが間に合わず、僕が前の車の右側をかすって土手に乗り上げて止まった。僕の車は左のフェンダーが凹んだ。前の車はお尻が5センチ四方ぐらい擦り傷になってしまった。

 

相手はドイツ人だった。車はまだ300キロしか走っていないぴっかぴかの新車。しかも高級車。NSU・バンケル(今のアウディ)のロータリー・エンジン車。世界初めてのロータリー車で、とっても有名で高価な車だった。相手が悪かった。僕は自分の非を認めて、英語で一生懸命謝ったが、相手は全く分かってくれない。こんな時にはカルタ・ベルデ(国際保険)にサインすれば、後は保険屋が全部してくれることになっている。必要なのは、僕のサインと警察官の確認サインだけで、現場検証する必要もない。しかし言葉も通じず、彼は現場から離れることを拒否してその場を動こうとはしない。夏休みで交通量は多い。たちまち両方向とも大渋滞。バスや車の窓からいろんな顔が出て、我々を見て迷惑顔。大した事故でもないから余計に不審顔。

 

ここでまたまた「MI」ナンバー・プレートの御利益。何台ものイタリアのバスから運転手さんが降りてきて、状況を見て僕の代わりにドイツ人にドイツ語で話してくれた。またしてもミラノ登録のプレートをみて、イタリアの運転手さんが、困っている変なミラネーゼを助けてくれたのだ。この間、一時間弱、怒りくるっていたドイツのおじさんは渋々了解。やっとのことで車を動かすことができた。

 

渋滞した車が動き出すと、バスの窓から皆が拍手。いろんな人たちが手を振って車が動き出したことを祝ってくれた。助かった!感激で目がくしゃくしゃになった。

オーストリアで、ドイツ人と日本人が事故を起こし、それをイタリア人が僕を同郷の者として助けてくれたのだ。僕がミラノにすんで、ミラノ登録の車に乗っていたというだけで。「ミラネーゼに乾杯!」である。

 

そしてスイス・オーストリア国境を越えた最初の町がサンモリッツだった。

乾杯、ミラノ!( 5 / 8 )

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

 

ミラノでの生活に時々アクセントをつけてくれるのが日本からの友達だ。いろいろ愉快な、時には本当に内緒の話がいっぱいある。

 

Kは本当にスキーが好きで、もちろん腕前も大変な人物だ。彼は僕が日本を出るときから、絶対にスイスにスキーをやりに行くから、サンモリッツへ連れてってくれと言っていた。その彼がいろいろ頑張って理由を作って、ヨーロッパにやってきた。パリでの会議を中心に1週間ばかりの短い出張を無理やり作って、ヨーロッパにやってきた。その忙しい中、2泊3日のサンモリッツでスキーをやった。

 

このスキーのために、彼は日本から重くてでかい自分のスキー靴を持参した。板はレンタルで良いが、靴だけは自分のものでないとだめだというわけで、えんやこらしょと飛行機に乗っけて持ってきた。それだけでも頭が下がる。

 

冬のサンモリッツはスキー客でにぎわっていた。ミラノから山の中へ3時間の旅だった。ホテルはサンモリッツの丘の中心にあるステファニにとった。登山電車の駅のすぐ側だ。僕のスキーはまだまだ中級で、シュテム・クリスチャニアができるぐらいだった。彼はその僕も一緒にピッツ・ネールからダウンヒルをやりたいと言う。板は彼はクナイスル、僕は小谷坂を借りた。その頃には日本スキーはもうヨーロッパまで出てきていて、サンモリッツで日本の板を履くとは思ってもみなかった。幸い天気はくて、3400メートル越えのピッツ・ネールにゴンドラが着いた頃は太陽が強く照っていた。最初からアルプスの青氷の上をトラバースすることになる。カリカリのバーンの上を斜滑降で進む。足元を見るとずうーと下まで氷の斜面だ。足がすくむ。なんとか雪の斜面に出て滑降が始まる。ダウンヒルは本当に快適だ。日本と違って人は少なくぶつかる心配もない。長いコースを下っていると耳元に風が立ってスピードを感じさせてくれる。とにかく下りはどちらにしても快適でスキーの醍醐味だ。長いコースで足が疲れるが、しかし楽しい。

 

問題は登りだった。長いダウンヒルのコースは尾根から長い斜面を滑って下り、谷に着いて、そこから次の尾根にのぼって、また一段下の谷まで降りて行く、その繰り返しだ。登りは、その頃のスイスではほとんどがTバー・リフトで、日本では余り馴染みがなかった。それはロープトウのようなもので、ロープにTの字型の股に挟む木のバーが付いていて、それに尻を乗せて足は雪面を板で滑りながら斜面を登っていくのだ。慣れていないので、バーを股にはさんで足で踏ん張るタイミングがなかなか取れない。ショックがきて、どうと転げてなかなか上手く乗れない。なんとか上手く捕らえてもそれでOKとはいかない。登りがけっこう長い。そして登っていく雪の面は決してなだらかではなく、ギャップやコブがあったりする。そんなところを、足をふんばってバランスをとりながら、自分のスキーを滑らせながら登るのだ。下手をすると、途中でバランスを失ってロープトウから放り出されてしまう。そうなると、もう一度、谷の底の出発点まで降りていって、スタート地点でロープを掴むしかない。ゲレンデとしては整備されていない新雪の雪面を、やっとの思いでスタートまで下って戻ってやり直しだ。

 

彼は慣れていて失敗はない。ロープトウの上で、僕が奮闘しながら上がって来るのを待つしかない。時間がどんどん経っていった。僕の疲れもどんどん増してきた。何回登って降りたか分からないぐらいになって、やっとサンモリッツの湖が見える斜面に出た。ほっとしながら緩やかな下りを楽しむ余裕が出てきた。彼は自由自在に楽しんで居たが、ある時、彼は体を宙で回転させながらある崖を飛んだまま見えなくなった。足元はかなり急な崖で、覗いて見ても上からは彼がどうなったか見えない。

 

サンモリッツのスキー場にはセイフ・ガードがいて、僕がまごまごしていたために僕たちがその日のダウンヒルグループの最後尾になっていた。ガードはすべてのスキーヤーを3時までに麓に安全に確実に下ろす役割を持っていた。だから我々のすぐ後を確認しながら下ってきていた。これが幸いだった。僕は彼等に助けを求めた。Kをすぐ探してくれるようにと。彼の消えた崖の上から、さらにその下の斜面を彼らは探してくれた。すごく長い時間のように思えた。足を折ったり頭を打ったりして怪我をしていたらどうしようとか、自分はとにかく早く安全に降りることなどと考えながら滑った。幾つかのカーブを曲がってかなり下の斜面に雪だらけになって立っている彼のめんどうを、ガードが見てくれているのを発見した。本当に安堵の疲れが出た。幸い彼は大した怪我もなく、ちょっとした擦り傷だけですんだ。彼は舌を出して失敗しちゃったといって笑った。ガードは神妙な顔をしていたが、やっと笑った。良かった。あまりにも上手いと逆にそれで危ないこともあるのだと知った。

 

降りたときはもう夕闇が迫っていた。その夜のビールは本当に美味かった。

次の日、僕たちは2泊3日のサンモリッツでのスキーをおえてミラノに帰った。

彼はその翌日、ヨーロッパを離れて日本に帰っていった。出発ロビーで、今度の事は会社には内緒だよとKは言った。僕は分かってるよと答えた。それから日本に帰ってからも、ずっと僕たちは秘密を共有する仲のいい友達だ。スキーのためにヨーロッパ出張を作ってしまった人を、あまりほかに知らない。

乾杯、ミラノ!( 6 / 8 )

愉快な友達たちのカメラ

愉快な友達たちのカメラ

 

OとTが、ドイツ出張の帰りにミラノに2、3日滞在した。彼らは、凸凹コンビで、小太りのOさんと、痩せの背のひょろりとしたTさんがひとつのチームで仕事をしていた。二人ともとても愉快な仲間たちで、彼等の訪問は楽しかった。

 

実は、彼等は大変な望みを持ってミラノに来ていた。かみさん達には絶対に聞かせられない話だ。とにかくミラノに滞在中に、イタリア女性と、何としても親密になりたいという、大変な望みを日本から持っていた。ミラノに駐在している僕に、どうしても一肌脱げという。仲のいい二人の希望を、僕は無下に断ることはできない。そこで幾つかの重要な情報と、注意事項を教えた。場所はピアッツアP。必ずパスポートを持っていくこと。現金を持っていくこと。どの辺に立っている女性に声をかけるかとか。簡単な地図まで描いてあげた。安全の準備は彼等が準備していた。その夜二人はがんばって出かけた。

 

翌朝、バールでエスプレッソを飲みながら、昨日はどうだったと聞くと、ちょっと残念な様子だ。何故かを聞くと、その種の女性とうまく遭遇して話すことができたのだけれど、今一歩うまくいかなかったというのだ。だから昨夜は目的を達してくることはできなかったという。ちょっとしょんぼりしている。

 

Tが話のなかで、日本のカメラと日本人のカメラ好きは、イタリア人に本当によく知られているのだな、と言う。昨日は夜だったから、カメラは持っていかなかったのが敗因だったと嘆いている。

 

話を聞いて見ると、好みタイプの女性に出会って、彼女たちと英語で金の話しをして、合意が成り立った。ところが、彼女達に、「カメラを持っているか」と聞かれたというのだ。その時、カメラはホテルの部屋に置いてきたから「No Camera」、「No Camera!」と言ったら、そこで話が終わってしまって、交渉不成立だったという。カメラさえ持って行ったら、きっとうまくいったのになあ、ととても残念そうだ。

 

僕は吹き出してしまった。「カメラ」と彼女たちがいったのは、男と女が仲良くなるための「部屋」はどうするか、と聞いたのだ。イタリア語で「カメラ」と言うのは部屋という意味なのだ。つまり、彼女は、どこで仲良くなるのかと聞いたのに、彼らは、写真機は持ってきていないと言うつもりで、「部屋なし」と言ったものだから、彼女たちは早々に話しを打ち切ったのだ。季節は10月だったから、外はもう寒かった。ここまで話したら、今度は彼らが猛烈に吹き出した。写真機はイタリア語で「Macchina Fotografica」というのだ。

 

その日がミラノ最後の夜だということで、二人はその夜、思い出を作るべく、また出かけていった。写真機を持っていったかどうかは聞いていない。

 

リナーテ空港で見送ったとき、二人は片目をつぶってみせた。ハッピィなミラノの思い出ができたようだった。

 

これには後日談がある。日本に帰ってからも、武士の約束で、そのことは内緒にしてOとTと僕は、仲の良い友達関係がつづいた。何年も経って、ある酒の席で面白い話を披露する場に出くわした。ある人が、イタリアでの日本人の「カメラ」の話を持ち出した。それはまさに、部屋と写真機を間違えた例の話だった。

 

それを聞いて僕は驚いた。それは、僕がずっと内緒にしてきた、僕の立ち会った、あのカメラの話だった。僕は全く話していないから、その話が流れ出たのは、きっと張本人たちからに違いない。当事者も黙っていられないくらい愉快な話だったのだ。笑い話に版権はないのだけれど、この話の立会い人、その本人、当事者だと言うことで、リアルに話をしておいた。僕の立会い人としてのプライドが許さなかった。

 

その後も、この正調「カメラ」の話を、世界中で権威を持って喧伝したのは言うまでもない。この話はアメリカ人にも、オーストラリア人にも、スペイン人にも大笑いのネタとして有効であったことを付け足しておく。

乾杯、ミラノ!( 7 / 8 )

国外退去、ジンデルフインゲンへ

国外退去、ジンデルフィンゲンへ

 

南ドイツ、シュトゥットガルトのすぐ西に、ジンデルフィンゲンと言う小さな町があるのをご存じだろうか。もしかするとダイムラー社のジンデルフィンゲン工場で知られているかもしれない。なにしろ有名なメルセデス・ベンツの生産拠点だから。

 

僕はこの町に1ヶ月間、イタリアのミラノから緊急避難して住んだことがある。

それは素晴らしい八月の一ヶ月でもあった。

 

事の起こりは、僕のミラノでの滞在許可を3回目に更新するときだった。I社の人事担当の人が、僕といっしょにミラノのクエストゥーラ(滞在許可を出す内務省の役所・警察)に行って、僕の仕事のことを話した時に起こった。僕がミラノのI社にデスクを持って働いていると言ったら、その役人は、「それは労働だ!労働許可が必要だ!今まで6ヶ月もそれなしで働いていたのか」と大騒ぎになった。給料はいくら日本からきているとか、今までの先輩達もそうだったとか説明しても、頑として受け付けない。結果としては48時間以内にイタリアから国外退去という処分になってしまった。僕たちは大慌てでI社に帰って対策を考えた。I社は国際的なネットワークがあって、早速ドイツの人事部に紹介してくれた。そしてすぐさまジンデルフィンゲンに一時的に移ることになった。

 

すべてのものをそのままにして、国際的に逃避行、なんて考えもしていなかったが、とにかくそんな風にして僕は南ドイツの田舎町に暮らすことになった。その間に、会社では正式にミラノ滞在許可をとる手続きを開始してくれた。なんだか、どこか夏休み気分でもあった。でもちゃんと毎日ジンデルフィンゲンに出社した。仕事のかなりのことはドイツからでもできた。

 

ジンデルフィンゲンの朝は早い。6時30分には出社だ。その課が特別早いわけではなく、だいたい30分位のずれはあるものの、みんなの出勤時間がとてつもなく早いのだ。そのかわり太陽がまだピーカンの夕方4時には会社は終わりだ。天気の悪い日なんかは、朝、家を出るころはまだ薄暗い感じだった。I社の正面にあるダイムラーの工場から、早朝の暗闇の中を黒いメルセデスを背中にいっぱい乗せた、長い長い車両運搬用の列車がゆっくりゆっくり、ゴトンゴトンと出て行くのに出くわしたものだ。

 

朝早いからみんな朝食を家でとっては来ない。朝8時過ぎには全社的に朝食の時間がある。マルツァイトだ。席で食べる人もいればカフェテリアまで出かける人もいる。もちろん昼飯とはちがって比較的簡単なものが多い。トーストと、ちょっとしたハムとか果物とか、それにコーヒーだ。でも、それでやっと人心地がしてくる。I社でも、朝の食事の制度があるのはドイツだけだと思う。まったくびっくりした。働き者のドイツ人らしいといえば、そのとおりともいえる。

 

朝飯を終えてオフイスに戻ると、ここにちゃんとしたしきたりが待っている。朝の挨拶だ。朝の挨拶にも習慣がある。このドイツの会社では、課長さんは毎日、出社してきた全ての課員と握手をして、こんにちはヘッラーA、フロイラインB、てことになる。そしてご機嫌はいかがですか、終末はいかがお過ごしでしたかとか、簡単な挨拶が続く。スキンシップと元気の確認を物理的にやっているのだ。しかも全員との握手が終わるのをみんなが立って見守っている。これには口があんぐりだった。でも良く考えると、とてもいい習慣だと思った。全員との握手が終わるとやっと本格的な個人ベースの仕事にはいっていく。課長さんは毎日大変だなと思った。

 

昼間に会社のカフェテリアでアルコールが飲めるのは、フランス、イタリア、スペイン、そしてこのドイツだ。ドイツではビールは大きなジョッキでサービスしていた。僕はイタリアとフランスを知っているからびっくりはしないが、アメリカ人はそれを目にしてびっくりしていた。所変われば、だ。

 

イタリー人も人なっこいが、ドイツ人も日本人だとわかると急に親しくしてくる。

冗談で、前の大戦はイタリアを巻き込んだから失敗した。今度はドイツと日本だけでやろうよ、なんて言ってくる。苦笑いするしかない。これは何も会社の中だけではない。シュトゥットガルトに遊びに出かけたときに、大きなビアーホールに入った。みんな少しビールが入って酔っ払ってくると、たくさんの見ず知らずの人が僕にビールをおごってくれる。「ヤパーニッシェ!」と言ってニコニコ近づいてくる人が結構いるのだ。僕はドイツ語はさっぱりだから、こちらもニコニコしているしかない。

 

ドイツではソーセージとビールが本当にうまい。でも僕にとって、極めつけはアイスヴァインとサワークラウトだ。大きな豚のもも肉をワインに漬け込んで、そしてスパイスで煮込んである。これに良く冷えたリースリンクかなんかがあれば幸せだ。

柔らかいピンク色のもも肉を切り取って、マスタードでちょっとアクセントをつけて、サワークラウトといっしょに口に運ぶ。けっこう酸っぱいサワークラウトも、この組み合わせで食べると僕にもちょうどいい。ここで味をしめた僕はその後、日本に帰ってもアメリカでもこのアイスヴァインを試しているが、あまり期待に反したことはないようだ。

 

ジンデルフィンゲンには毎日小さな朝市がたつ。近郷の農家の人たちが、新鮮な野菜とか果物、花などを持って集まってくる。安くて新鮮。また顔なじみになると、おまけもある。人懐こい元気な顔がいっぱいだ。僕の暮らした小さなアパートのすぐ側で、懐かしい小さなざわめきが近くにあった。

 

実はこのジンデルフィンゲンへの緊急避難の間、こっそり一日ミラノに帰った。国際会議で、どうしてもミラノにいる必要があったのだ。シュトゥットガルトからリナーテまではほんのひとっ飛び。パスポート・コントロールで、僕は止められなかった。夜ミラノのアパートにも泊まった。ちょっと怖かった。翌朝、すっとんでドイツに帰った。早く手続きが終わることを祈った。

 

夏のジンデルフィンゲンでのいい思い出の一つはフライバートだ。町の近くの公園にプールがいくつも作ってあった。子供用の浅いのから、高飛び込みもできそうな深いのから、競泳用の立派なものまでたくさんある。しかも回りは全て芝生でゆったり作ってある。芝生の中を小川が流れていて鴨たちが住んでいる。あたりは大きな森。大きなパラソルやテントを持ってきて、みんな食事持参で一日家族でのんびり過ごす。ドイツ南部と言っても冬は太陽が少ない。真夏の日々を肌に太陽をうんと浴びて冬に備えるようだ。だから芝生にごろごろ人が転がっている。胸をはだけた女性もいる。ちょっと困ったなということにもなる。

 

このジンデルフィンゲンに短期で来ていた日本の人がいた。この人にもお世話になった。車で近くの町や村を案内してもらった。チュービンゲンやドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム四世が築いた、平野からにゅっと立ち上がった高い山の上のホーエンツォーレルン城などを見た。そのとき彼の車で奇妙な経験をした。時々ウィンド・ウオッシャー液が出てワイパーが動く。ガラスは曇っていないのになと思っているとまた始まる。ギヤをチェンジする際、ちょっともたついている時にその現象が出る。原因はわかった。彼はちょっと小柄で、言ってはなんだけど足が短い。シフトするとき十分クラッチに足が届かず、その手前にある足踏みのワイパースイッチを足で稼動させていたのだ。悪いけど笑った。彼は屈託ない笑いを浮かべながら、何もなかったかのように車を走らせていた。きっとオペルだったと思うけど、そんな車が昔はあったのだ。でもおかげでのどかな南ドイツの美しい町や村を巡った。窓やベランダに花があふれていた。

 

そんなこんなの夏が過ぎて、やっとミラノの滞在許可が下りることになったと知らせが入った。僕はミラノに飛んで帰った。直接ミラノのクエストゥーラに出向くことはできない。何しろ僕は国外にいて、イタリアの外で滞在許可をもらって入国することに公式的にはなっているのだから。僕はスイスのルガーノにあるイタリア領事館に、わざわざミラノから車を飛ばして出向いた。念願のちゃんとした滞在許可証を手に入れて、ようやく堂々とイタリアに入国した。

 

突然の出来事でなかなか経験できない体験をした。しかしそれは僕にとって、どちらかと言うと楽しいドイツ滞在を与えてくれた思いで深いものだった。

もちろん、ジンデルフィンゲンにも新しい友達がたくさんできた。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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