父さんは、足の短いミラネーゼ

乾杯、ミラノ!( 3 / 8 )

ミラノ生活

 

夜中のウインド・ショッピング

 

ミラノはイタリアだけど、日本で想像していたイタリアとはちょっと違った。人はみんな、結構背が高く、髪の色も黒は少なく、ブロンドやブルーネットが多い。

ロンバルディアの人達はどちらかというと、オーストリア人とか、ドイツ系の人達とかなりにている。

日本で、ネオ・リアリスムの映画や何かで見て、典型的だと思っていた、髪が黒く、小柄で忙しく歩き回るイタリア人は、どちらかというと、南部の人たちのようだ。

 

ミラノはイタリアの中では一番経済的に発達し、その一方、文化、芸術の世界でもバランスのとれた街だった。特に凄いのは洋服、靴、バッグなどのファッションの世界では冠たるミラノだ。とにかくセンスがいい。

 

ミラノでは買い物といえば、ウインド・ショッピングが中心だ。人は決して簡単には物を買わない。日曜日、普通の店は開けていない。しかし人は日曜日にショッピングを楽しむ。欲しいものがあれば、いろんな店のショーウインドを幾つも幾つも見て回って、友達とか家族とかに相談したり、一緒にみてもらったりして、品定めをするのだ。そして最終的に決めたうえで店に入って物を確認して、初めてそれを買うのだ。だから時間と根気が必要だ。同時に、そのプロセスを楽しんでいるようだ。

 

そういうわけだから、店のほうでも休みでも、日曜日のショウーウインドの飾り付けと、照明はとても大切なのだ。日本のように、閉店の時にシャッターを下ろして、ウインドウを見えなくしてしまうのはもってのほかだ。ミラノでは、真夜中のウインド・ショッピングの為に、鉄とか青銅のしゃれた、しかし、しっかりした格子でショーウインドを囲みながら、煌煌と照明を点けてベトリ-ナの中の品定めができるようにしている。それはモンテ・ナポレオーネとか、ピアッツア・サンバビラのようなファッションの街だけではなく、僕の住んでいたアパートに近いコルソ・ブエノスアイレスのような一般の人達がショッピングに出かける町でもそうだ。だから店に入るということは、心を決めてこれからあれを「買う」という目的で入ることなのだ。単なる冷やかしは、ミラノでは基本的にご法度だ。

 

日本と違って感激したのは靴屋さんだ。靴を合わせる時は、必ず客を椅子に座らせて、店員は床にひざまずいて客の足に手を掛けて履かせてくれる。日本のように客が勝手に靴に手を触れて、自分で靴べらを手にして履いてみるなんてことは決してない。もちろんさせてもくれない。客の足に本当に合う靴の形やサイズをいろいろ変えて見ながら、店員が親切に専門家として靴を選んでくれる。さらにその靴に似合う洋服とのコーディネートの相談にだって、ちゃんと乗ってくれる。だから店員さんはすごく誇りをもってもいる。お客もちゃんとした対応を店員さんにする。当然プロフェッソナルなサ-ビスを受けることになる。そんなわけで、店員さんに対するお客の態度もすてきで、店への出入りのときのボンジョルノ、ブォナセーラは欠かせない。

 

ミラネーゼの夕方の外出

 

ミラノだけの現象ではないが、夕方、人がたくさん街に現れてくる。夕食の前にちょっと散歩したり、友達と会ったり、単に街に出て人々を見たり、とにかくいっぱい、いっぱい人が現れてくる。老夫婦は腕を組んでゆっくりと散歩する。若い人たちはバールに陣取ったり、ジェラテリアにたむろしたりしてお喋りに余念がない。カフェのテーブルはアペリティーボ(食前酒)を楽しむ人達でいっぱいだ。お互いに話したり、もっぱら前を通る人たちを、とにかく眺めて居たり、ゆっくりとした時間が流れる。それが夕食前のしきたりみたいだ。そして街の人達の交流の時間にもなっているようだ。「最近、Xサンの姿を見かけないけど、お元気かしら」「ちょっと、体を悪くされていたようだけど、もういいみたい。来週にお出かけになるんじゃないかしら」なんて会話が聞こえてきそうだ。

 

その時間が街がもっとも華やぐ時間だ。ビットリオ・エマニュエル・アーケードの中のカフェも人でいっぱいだ。背の高いエマニュエル・アーケードの中だから、天候にかかわらず、何時もオープンなテラスが人気の的だ。人々はゆっくりアペリティーボを時間をかけて楽しんでいる。そこに加わって、僕も座って、みているだけでとても楽しい。女たちは着飾って居るし、男たちもとても気障な奴もいたりして。お巡りさんだって羽の付いた特異な帽子を気障にかぶって、二人一組でその長身の姿をゆっくり運ぶ。まさに絵になっている。

 

その後が食事の時間だ。だからレストランは早くても7時半前には開かない。食事の時間も2時間はかかるから、普通でも家に帰るのは10時すぎというわけだ。

 

 

ドットーレ・シオリの山荘

 

ドットーレ・シオリの夏の山荘は、ドロミテ・ディ・ブレンタのマドンナ・ディ・カンピリオにあった。小さな木造の小屋に近い山荘だ。夏になると彼は家族をそこに先に送って、自分だけはミラノで仕事をしている。もちろん彼が休みに入れば家族と合流するのだが。

 

ある夏2,3度、彼の山小屋に連れて行ってもらった。小さな保養地でミラノから2時間もあれば着いてしまう。ガルダ湖のそばを山に向かって入って行く。ドロミテ山岳地方にもちろん似ているのだが、ちょっと離れた別の山たちだ。

 

エミリオ・シオリとエミリアシオリ夫妻は長男フルビオを連れて、毎年この山で夏を過ごすのだ。山小屋の前の芝生には、高い白樺の木がそびえていて、それにハンモックをかけてある。澄んだ山の空気を吸って、夏を過ごすのはとてもすてきだ。そのころフルビオはまだまだ小さくて学校には上っていなかった。ちょっと甘ったれでやさしい目をした男の子だった。マドンナ・ディ・カンピリオに僕が滞在中、ずっと一緒だった。

 

2000メーター超えの高地だから、夏とはいえ、夜は本当に寒い。フルビオが寝てしまってから、3人でよく小さな村に夜の散歩に出かけた。星空が高く高くあって、劣らずに高い山の黒い影がぬっとそびえている。セーターとウインドブレーカーが必需品だ。夫婦で夜中に腕を組んで散歩するのを見るのは、僕にとってはちょっと新しい感じだった。

 

近くに滝があって、みんなでお弁当を持って、エミリオの赤いアルファ・ジューリアで出かけた。弁当といっても、とても簡単だ。サラミとチーズ、パンと赤ワインのボトル、アックァ・ミネラーレとちょっとしたピクッルスですべてだ。ヴァル・ディ・ジェノヴァのナルディスの滝は、山肌を白く染めながら、高みから落ちてくる。その前の方には、広い湿原や、なだらかな草原が広がっている。夏の日の太陽が昼間は熱い。多くのパーティがやってきていて、とても華やかな昼間だ。とてもシンプルな食事、でもとても豊かな感じだ。自然が近くにあるとそれだけで空気がうまく、食事もおいしい。静かな風の音のなかに、穏やかな時間が過ぎて行く。

 

フルビオとはもっと驚く経験がある。5歳の子供だけれど、エミリオと僕との3人である日登山電車に乗って、その頂上駅からスピナーレ山の2100メーターの山頂まで日帰りしたのだ。もちろん、ちゃんとした山歩きの靴を履いて。こんなちっちゃな頃から、ちゃんと山登りを経験しているのは、とても恵まれたことだと思った。泣き言も言わず、ほんとうに元気に大人顔負けで歩き通した。立派だった。もちろん甘えん坊だから、家に帰り着いてマンマに甘えて涙しながら、「ぼく、つらかったよ」と山歩きを話していた。とてもかわいかった。先日会ったらもう結婚していて、でもあどけなさが残っていてフルビオだと分った。

 

冬は霧に閉じ込められるミラノだけれど、ミラネーゼはこうした山小屋みたいな別荘を、大都会からの逃避のための素晴らしい場所を持っているのだ。うらやましい。ドットーレ・シオリが特別な階層の人ではなくて、普通のサラリーマンなのだ。

 

 

スイスに太陽を求めて

 

 

ミラノの冬はとても寒く、そして暗い。ポー河の霧と、時としてくる雪のせいだ。

 

こんな時にはアルプスの向こうに、太陽を拝みにでかける。不思議なことに、いくらミラノが霧にとじこめられていても、スイスの山の向こう側は晴れなのだ。惜しげもなく太陽がふりそそいでいるのだ。

 

イタリア側のドモドッソラから、シンプロン・トンネルを通って、スイスのカンデルスタッグまで、車が貨物列車の上に乗ってアルプスを越える。車専用の無蓋貨車にどんどん車を乗っけて、簡単にストッパーを掛けていく。車の乗員はそのまま車のなかにいる。すると車は、ジェットコースターに乗っているかのように、鉄道の狭い線路の幅をガタガタ揺れながら猛スピードで走る。カーブでも、ブレーキを踏んでスピードを緩めるわけにはいかない。ドライバーはすべてを列車に任せて乗っているしかない。電車がトンネルに入るとまさに暗闇を光もなく自分の車が突進していく。足が何回もブレーキにいく、無駄なことと知りながら。

 

トンネルを過ぎて、ツェルマットへの入口、ブリガを越えて谷を越えて、崖っ淵を電車は車を乗せて急な渓谷をのぼっていく。カンデルスタッグに近づくと、スイス・アルプスの山々が明るく晴れた空を見せて高く高く聳えている。そこで列車から降りると、やっと車は自分でスイスの道を走り始める。なかなか日本では得られない体験だ。

 

本当に不思議な気がするのだけれど、いつも冬のスイスは陽の光が射している。霧のミラノから逃げ出して見ると、明るい陽射しが待っていてくれるのは本当に嬉しい。スイスの首都、ベルンはとても素敵な小さい町だ。熊が彼らの愛する動物だ。清らかな小さな流れによりそう静かな町、これがベルナー・オーバーランドへの入り口だ。インターラーケンは「湖の間」と言う意味だ。ツーン湖とブリエンツ湖の岸を走って、ここインターラーケンに入る。最高のスイス・アルプスを楽しむ道への入り口だ。

 

カラフルな登山電車がグリンデルバルトまでの急峻なレールを上っていく。ゆっくりゆっくり、アルプスの山並みを見せながら登っていく。冬はまさにスキーの世界だ。夏の牧場は一面雪で、どこでもがスキーの世界になる。登りつめたグリンデルバルトはアイガー北壁の目の前。直立した壁面が目の前にある。朝日が壁の氷を照らす。凄いの一語だ。

 

スイスはほんとうに綺麗な国だ。それは風景もそうだが、人へのもてなしもそうだ。僕が始めてグリンデルバルトに到着した時は、ハイ・シーズンにも拘らず僕は予約なしだった。ホテルはみんな一杯。困った。しかし、アイガーが目の前にせまる、有名なホテル、レジーナは、僕のために夏だけ開けているホテルのシャレーを特別に提供してくれた。シャレーといってもちゃんと冷暖房は入っていて、僕はたった一人で全体を占有して、王様気分だ。勿論ホテルの設備はすべて使える。すばらしいアイガーの岩壁をのぞむレストランも、ディスコも、バールもすべて。幸いにしてチューリッヒからの姉妹に、ダンスのお相手、お酒のお相手が許されて、素晴らしい思い出のグリンデルバルトの夜となった。

 

特に朝食は素晴らしい。目の前の岸壁を見ながらコーヒーを楽しむ。光に輝く氷のキレットを目の当たりにしての時間は、とても日本では得難い体験だ。アッタクするクライマーの姿を備え付けの双眼鏡でのぞくこともできる。

 

ここで登山電車を乗り換えて、さらに高みへと登っていく。クライネシャイデックまで、ほとんど垂直に近い感じで登っていく。アイガーの横手になるクライネシャイデックは「小さな肩」という意味だ。ユンクフラオが若い女性、乙女という訳だから、クライネシャイデックはちゃんと意味をなしているのだ。

 

反対側の、ラウテンブルンネンからも電車が着く。ここで乗り換えてユンクフラウ・ヨッホまで登っていく。ここから、ユンクフラウの氷河を上から見るテラスに出る。3450メーターは日本では体験できない高さだ。「走らないで下さい」と書かれた看板がたっている。酸素が薄いのだ。ゆっくりゆっくりと自分に言いながら歩く。氷のトンネルをぬけると、足元に急峻な深い谷の底に氷河が見える。瞬間的に天候が変わる。今見えた谷が厚い霧に覆われて、まったく何も見えなくなってしまう。氷河を削った、僕たちが歩くトンネルは氷を透過した光で、特別な光景に見える。つまらないことが、僕を現実に引き戻す。残念ながら日本人の落書きが目立つのだ。なぜこんな特別な場所にまで、つまらない落書きをするのか、その神経が分からない。目を伏せて取り過ぎるしかない。

 

クライネシャイデェックから、ベンゲン経由ラウテンブルンネンまでは、まさに「アルプスのハイジ」の世界だ。メンヒ、アイガーそしてユンクフラウの山並みが正面に聳え、がたがた降りて行く登山電車の窓を一面に埋め尽くす。何度このルートを降りても、いつも窓に釘づけになってしまう。ミュウレンの高みが見えてくると、そこはもうラウテンブルンネンだ。ミュウレンの山からの滝が印象的だ。

 

いつだったか、クライネ・シャイデッグで雪合戦をした覚えがある。おそらく天候の加減でユンクフラウ・ヨッホまで登れなかった日の記憶だろう。またグリンデルバルトのレストランで素朴なスイス料理を味わったことも記憶にある。おそらくフィルストへ登った日のことだろう。牛たちがガランガランとカウベルを鳴らしていた。こんな素晴らしい旅が、ミラノの冬の霧を忘れさせてくれる。消しがたい、そして印象深いグリンデルバルトだ。

 

マッターホルンとチェルビーノ

 

トリノの先を、さらにフランスに向かっていくとバレ・デ・アオスタの地方だ。

 

マッターホルンと呼ばれる山へ迫る南側の谷の道を行く。イタリアではマッターホルンをチェルビーノと呼ぶ。凄く急な谷間の道を、いく度となく急カーブを切って登っていく。その行き止まり、チェルビーニア村は、その昔、ノンストップ・ランセで有名な、スキー場でもある。ノンストップ・ランセは、オリンピックの大滑降の元祖と言われている、直滑降でとにかくスピードのみを競う、危険な競技だ。チェルビーニア村は、真夏でもスキーができる。僕がいった4月は、まだスキーシーズンと言うわけで、ホテルはスキー客で一杯。でもロッジに予約なしで部屋が取れた。荷物もそのままにして歩けるところまで登ってみる。谷あいをゆっくり登っていくと、だんだん視界が開けてチェルビーノが目の前に現れた。

 

チェルビーノの山頂はちょっと雲がかかっている。素晴らしい世界で声もでない。こんな時ほど話し相手が欲しい時はない。一人で旅をすると、時々急に仲間が欲しくなる。感動を分かち合って、同じ時間を過ごす楽しさの欠乏症だ。一人では時間を構造化できない焦れったさを味わう。

 

ゴンドラがプラトウ・ロウザまでの長いスロープを上って行く。足元にはもう春の息吹が一杯。北からの、プラトウ・ロウザへの谷は、スイスのツェルマットからの谷で、最終的には、マッターホルンを眺める同じ場所につながっている。要は、北から見れば、マッッターホルン、南から登れば、チェルビーノなのだ。ここには、広いテラスが造られていて、スキー客もトレッキング客も、皆寝そべって日光浴をしている。片手にビールを持って、サングラスをしてゆったりと時間を過ごしている。モンブラン、モンテ・ローザ、そしてマッターホルンが目の前だ。北にはスイス・アルプスが光って見える。

 

僕もここで、ビールとフランクフルトの軽い食事を取る。とても日本では、こんな楽しみ方できない。ゆっくりとした時間を、こんな高い山の上で過ごせるなんて。ここには北のツェルマットから入った人達も一緒だから、聞き慣れたイタリア語とかフランス語に混じって大きな声のドイツ語が聞こえる。この高みは本当にインターナショナルだ。そういえば、いつもドイツ語は大きな声で聞こえるのは気のせいだろうか。

 

晴れたアルプスの空は限りなく、見上げる目に高い。日本で北アルプスとか、後立山連峰を歩いたことがあるが、こんなに簡単に高みには辿りつけない。スキーを履いてくるのがよかったのだろうけれど、支度はない。ゆったりとした時間の後で、ゴンドラに乗って降るしかない。足元を山スキーの人たちが降りていく。アオスタの深い谷が足元からずっと遠くまで続いている。ごっとんとゴンドラが揺れて麓に着いた。

 

夕方になると霧が出て来る。夜、ホテルは賑やかになる。ディスコが音楽をやっている。人々がアフター・スキーを楽しんでいる。一人の旅人は、一人で静かにアルコールを傾ける。暖炉には火が燃えている。部屋の窓からは谷間のロッジの灯が暖かな色で揺らめいているのが見える。外に出て見ると、高い高い空の向こうに、チェルビーノが黒く聳えて見える。

 

あすは山に向かう牧草地をゆっくり歩いてみようと考えた。まだ牛たちはいないはずだ。谷川の清冽な流れに手を浸してみようと思う。春の高山植物たちがその芽を見せ始めているかもしれない。

 

ミラノの生活では考えられない、濃密な静けさが降りてくる。これでミラノのざわついた夜の時間を忘れ去って、深い眠りにつけるに違いない。

乾杯、ミラノ!( 4 / 8 )

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

 

スイスのサンモリッツでの思い出はたくさんある。一番印象的なのは、僕がフィアット850でサンモリッツまで最初にでかけた時だ。その頃のフィアットの車は、一般的にフィアット145とか、もっと大きいモデル以外はほとんどRR(リア・エンジン、リア・ドライブ)で、僕の850(オットチェントチンクヮンタ)もそうだった。ハイギアードで、平地ではスピードが出るが、山道の登りでは青息吐息だ。

 

今と違ってミラノからサンモリッツまで高速道路もなく、コモ湖の湖畔を200キロほど北に登っていく、古い曲りくねった道だった。ミラノのフィアット販売の人が、イタリア語の分らない僕に、それこそ手取り足取りで、850の操作を教えてくれた。どうにか一人で、850をちゃんと動かせるようになって、初めてサンモリッツに向かってコモ湖畔を登っていった。中世からの古い石畳の街道をひとりで辿った。

 

夕暮れになって、サンモリッツに着いて道を間違えた。方向転換をしようと、ギヤをバックにいれようとしてギヤチェンジを試みても、どうしてもバックに入らない。ミラノで教えてもらった通りにやったつもりなのだが、どうしてもバックができない。あせった。しかたなくそこに車を置いて、歩いて車関連の店を探す。かなり降りていて、店を見つけた。必死に、身振りで助けを求め、店の人と一緒に車に戻った。

 

彼は簡単にバックにいれた。見習って僕もやってみるけど、やっぱりは入らない。もう一度彼はゆっくりやってみせてくれた。よく見ていると、ギヤ・チェンジレバーを動かす前に、レバーをちょんと真下に押し込んでいる。それが秘密だった。冷や汗が流れ出した。もう夕暮がちかづいていた。路肩には、まだ深い雪が残っていた。サンモリッツに着いてからでよかった。急な上り坂の途中だったら、と考えるとぞっとした。彼は手をふってスタンドへ帰っていった。ギヤを押し入れるなんて簡単なことだけど、分かっていないととても思いつかない。やっと宿に着いた。ほっとした気持ちで一杯だった。

 

 

その春、やはりスキーでサンモリッツにいった。ホテルの駐車場が一杯で、外の駐車場に入れた。翌朝、凍てついた寒さの中、駐車場でエンジンをかけようとしてセルを回した。けれどエンジンはかからない。白い煙がポッツポッツとでるだけだ。あせった。僕の車はミラノ登録だから、ナンバー・プレートは「MI」だ。ミラノの車だってことはすぐ分かる。足の短い東洋人がフィアットと格闘しているのをみて、沢山の視線が集まる。駐車場は除雪が完全ではなく、車の周りは積み上げられた雪に囲まれている。足をとられながら、出たり入ったり、エンジンルームを開けたりだ。バスの運転手さんたちが、見るに見かねて集まってきて、僕を助けてくれる。しかしエンジンは冷え込んでかからない。なかの一人が自分のバスから、スプレーを持ってきてくれた。キャブレターに突っ込んでエンジンを回すと火が入った。やったー!!エンジンが回ってうれしくて、そして、親切がうれしくて涙が出そうになった。

 

その運転手さんたちのバスはイタリアからのバスだった。イタリア人はとても同郷の人に親切だ。彼は僕のナンバープレートの「MI」をみて、ミラノからの変な東洋人だと分ったのだ。イタリア人にとっての外国、スイスで、僕はイタリア人に同胞として親切にしてもらったのだ、日本人の僕がミラネーゼとして。彼はそのスプレーを持っていけといって僕にくれた。僕は何度もお礼を言って出発した。

 

 

もう一度はもっと深刻だった。その夏休みに、スイス・オーストリア・ドイツを3週間ばかり旅行した帰り道、オーストリア・スイス国境のオーストリア最後の町の手前で、僕の不注意が元で、軽い事故になってしまった。片道2車線の道路が急に1車線になっていて、ブレーキが間に合わず、僕が前の車の右側をかすって土手に乗り上げて止まった。僕の車は左のフェンダーが凹んだ。前の車はお尻が5センチ四方ぐらい擦り傷になってしまった。

 

相手はドイツ人だった。車はまだ300キロしか走っていないぴっかぴかの新車。しかも高級車。NSU・バンケル(今のアウディ)のロータリー・エンジン車。世界初めてのロータリー車で、とっても有名で高価な車だった。相手が悪かった。僕は自分の非を認めて、英語で一生懸命謝ったが、相手は全く分かってくれない。こんな時にはカルタ・ベルデ(国際保険)にサインすれば、後は保険屋が全部してくれることになっている。必要なのは、僕のサインと警察官の確認サインだけで、現場検証する必要もない。しかし言葉も通じず、彼は現場から離れることを拒否してその場を動こうとはしない。夏休みで交通量は多い。たちまち両方向とも大渋滞。バスや車の窓からいろんな顔が出て、我々を見て迷惑顔。大した事故でもないから余計に不審顔。

 

ここでまたまた「MI」ナンバー・プレートの御利益。何台ものイタリアのバスから運転手さんが降りてきて、状況を見て僕の代わりにドイツ人にドイツ語で話してくれた。またしてもミラノ登録のプレートをみて、イタリアの運転手さんが、困っている変なミラネーゼを助けてくれたのだ。この間、一時間弱、怒りくるっていたドイツのおじさんは渋々了解。やっとのことで車を動かすことができた。

 

渋滞した車が動き出すと、バスの窓から皆が拍手。いろんな人たちが手を振って車が動き出したことを祝ってくれた。助かった!感激で目がくしゃくしゃになった。

オーストリアで、ドイツ人と日本人が事故を起こし、それをイタリア人が僕を同郷の者として助けてくれたのだ。僕がミラノにすんで、ミラノ登録の車に乗っていたというだけで。「ミラネーゼに乾杯!」である。

 

そしてスイス・オーストリア国境を越えた最初の町がサンモリッツだった。

乾杯、ミラノ!( 5 / 8 )

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

 

ミラノでの生活に時々アクセントをつけてくれるのが日本からの友達だ。いろいろ愉快な、時には本当に内緒の話がいっぱいある。

 

Kは本当にスキーが好きで、もちろん腕前も大変な人物だ。彼は僕が日本を出るときから、絶対にスイスにスキーをやりに行くから、サンモリッツへ連れてってくれと言っていた。その彼がいろいろ頑張って理由を作って、ヨーロッパにやってきた。パリでの会議を中心に1週間ばかりの短い出張を無理やり作って、ヨーロッパにやってきた。その忙しい中、2泊3日のサンモリッツでスキーをやった。

 

このスキーのために、彼は日本から重くてでかい自分のスキー靴を持参した。板はレンタルで良いが、靴だけは自分のものでないとだめだというわけで、えんやこらしょと飛行機に乗っけて持ってきた。それだけでも頭が下がる。

 

冬のサンモリッツはスキー客でにぎわっていた。ミラノから山の中へ3時間の旅だった。ホテルはサンモリッツの丘の中心にあるステファニにとった。登山電車の駅のすぐ側だ。僕のスキーはまだまだ中級で、シュテム・クリスチャニアができるぐらいだった。彼はその僕も一緒にピッツ・ネールからダウンヒルをやりたいと言う。板は彼はクナイスル、僕は小谷坂を借りた。その頃には日本スキーはもうヨーロッパまで出てきていて、サンモリッツで日本の板を履くとは思ってもみなかった。幸い天気はくて、3400メートル越えのピッツ・ネールにゴンドラが着いた頃は太陽が強く照っていた。最初からアルプスの青氷の上をトラバースすることになる。カリカリのバーンの上を斜滑降で進む。足元を見るとずうーと下まで氷の斜面だ。足がすくむ。なんとか雪の斜面に出て滑降が始まる。ダウンヒルは本当に快適だ。日本と違って人は少なくぶつかる心配もない。長いコースを下っていると耳元に風が立ってスピードを感じさせてくれる。とにかく下りはどちらにしても快適でスキーの醍醐味だ。長いコースで足が疲れるが、しかし楽しい。

 

問題は登りだった。長いダウンヒルのコースは尾根から長い斜面を滑って下り、谷に着いて、そこから次の尾根にのぼって、また一段下の谷まで降りて行く、その繰り返しだ。登りは、その頃のスイスではほとんどがTバー・リフトで、日本では余り馴染みがなかった。それはロープトウのようなもので、ロープにTの字型の股に挟む木のバーが付いていて、それに尻を乗せて足は雪面を板で滑りながら斜面を登っていくのだ。慣れていないので、バーを股にはさんで足で踏ん張るタイミングがなかなか取れない。ショックがきて、どうと転げてなかなか上手く乗れない。なんとか上手く捕らえてもそれでOKとはいかない。登りがけっこう長い。そして登っていく雪の面は決してなだらかではなく、ギャップやコブがあったりする。そんなところを、足をふんばってバランスをとりながら、自分のスキーを滑らせながら登るのだ。下手をすると、途中でバランスを失ってロープトウから放り出されてしまう。そうなると、もう一度、谷の底の出発点まで降りていって、スタート地点でロープを掴むしかない。ゲレンデとしては整備されていない新雪の雪面を、やっとの思いでスタートまで下って戻ってやり直しだ。

 

彼は慣れていて失敗はない。ロープトウの上で、僕が奮闘しながら上がって来るのを待つしかない。時間がどんどん経っていった。僕の疲れもどんどん増してきた。何回登って降りたか分からないぐらいになって、やっとサンモリッツの湖が見える斜面に出た。ほっとしながら緩やかな下りを楽しむ余裕が出てきた。彼は自由自在に楽しんで居たが、ある時、彼は体を宙で回転させながらある崖を飛んだまま見えなくなった。足元はかなり急な崖で、覗いて見ても上からは彼がどうなったか見えない。

 

サンモリッツのスキー場にはセイフ・ガードがいて、僕がまごまごしていたために僕たちがその日のダウンヒルグループの最後尾になっていた。ガードはすべてのスキーヤーを3時までに麓に安全に確実に下ろす役割を持っていた。だから我々のすぐ後を確認しながら下ってきていた。これが幸いだった。僕は彼等に助けを求めた。Kをすぐ探してくれるようにと。彼の消えた崖の上から、さらにその下の斜面を彼らは探してくれた。すごく長い時間のように思えた。足を折ったり頭を打ったりして怪我をしていたらどうしようとか、自分はとにかく早く安全に降りることなどと考えながら滑った。幾つかのカーブを曲がってかなり下の斜面に雪だらけになって立っている彼のめんどうを、ガードが見てくれているのを発見した。本当に安堵の疲れが出た。幸い彼は大した怪我もなく、ちょっとした擦り傷だけですんだ。彼は舌を出して失敗しちゃったといって笑った。ガードは神妙な顔をしていたが、やっと笑った。良かった。あまりにも上手いと逆にそれで危ないこともあるのだと知った。

 

降りたときはもう夕闇が迫っていた。その夜のビールは本当に美味かった。

次の日、僕たちは2泊3日のサンモリッツでのスキーをおえてミラノに帰った。

彼はその翌日、ヨーロッパを離れて日本に帰っていった。出発ロビーで、今度の事は会社には内緒だよとKは言った。僕は分かってるよと答えた。それから日本に帰ってからも、ずっと僕たちは秘密を共有する仲のいい友達だ。スキーのためにヨーロッパ出張を作ってしまった人を、あまりほかに知らない。

乾杯、ミラノ!( 6 / 8 )

愉快な友達たちのカメラ

愉快な友達たちのカメラ

 

OとTが、ドイツ出張の帰りにミラノに2、3日滞在した。彼らは、凸凹コンビで、小太りのOさんと、痩せの背のひょろりとしたTさんがひとつのチームで仕事をしていた。二人ともとても愉快な仲間たちで、彼等の訪問は楽しかった。

 

実は、彼等は大変な望みを持ってミラノに来ていた。かみさん達には絶対に聞かせられない話だ。とにかくミラノに滞在中に、イタリア女性と、何としても親密になりたいという、大変な望みを日本から持っていた。ミラノに駐在している僕に、どうしても一肌脱げという。仲のいい二人の希望を、僕は無下に断ることはできない。そこで幾つかの重要な情報と、注意事項を教えた。場所はピアッツアP。必ずパスポートを持っていくこと。現金を持っていくこと。どの辺に立っている女性に声をかけるかとか。簡単な地図まで描いてあげた。安全の準備は彼等が準備していた。その夜二人はがんばって出かけた。

 

翌朝、バールでエスプレッソを飲みながら、昨日はどうだったと聞くと、ちょっと残念な様子だ。何故かを聞くと、その種の女性とうまく遭遇して話すことができたのだけれど、今一歩うまくいかなかったというのだ。だから昨夜は目的を達してくることはできなかったという。ちょっとしょんぼりしている。

 

Tが話のなかで、日本のカメラと日本人のカメラ好きは、イタリア人に本当によく知られているのだな、と言う。昨日は夜だったから、カメラは持っていかなかったのが敗因だったと嘆いている。

 

話を聞いて見ると、好みタイプの女性に出会って、彼女たちと英語で金の話しをして、合意が成り立った。ところが、彼女達に、「カメラを持っているか」と聞かれたというのだ。その時、カメラはホテルの部屋に置いてきたから「No Camera」、「No Camera!」と言ったら、そこで話が終わってしまって、交渉不成立だったという。カメラさえ持って行ったら、きっとうまくいったのになあ、ととても残念そうだ。

 

僕は吹き出してしまった。「カメラ」と彼女たちがいったのは、男と女が仲良くなるための「部屋」はどうするか、と聞いたのだ。イタリア語で「カメラ」と言うのは部屋という意味なのだ。つまり、彼女は、どこで仲良くなるのかと聞いたのに、彼らは、写真機は持ってきていないと言うつもりで、「部屋なし」と言ったものだから、彼女たちは早々に話しを打ち切ったのだ。季節は10月だったから、外はもう寒かった。ここまで話したら、今度は彼らが猛烈に吹き出した。写真機はイタリア語で「Macchina Fotografica」というのだ。

 

その日がミラノ最後の夜だということで、二人はその夜、思い出を作るべく、また出かけていった。写真機を持っていったかどうかは聞いていない。

 

リナーテ空港で見送ったとき、二人は片目をつぶってみせた。ハッピィなミラノの思い出ができたようだった。

 

これには後日談がある。日本に帰ってからも、武士の約束で、そのことは内緒にしてOとTと僕は、仲の良い友達関係がつづいた。何年も経って、ある酒の席で面白い話を披露する場に出くわした。ある人が、イタリアでの日本人の「カメラ」の話を持ち出した。それはまさに、部屋と写真機を間違えた例の話だった。

 

それを聞いて僕は驚いた。それは、僕がずっと内緒にしてきた、僕の立ち会った、あのカメラの話だった。僕は全く話していないから、その話が流れ出たのは、きっと張本人たちからに違いない。当事者も黙っていられないくらい愉快な話だったのだ。笑い話に版権はないのだけれど、この話の立会い人、その本人、当事者だと言うことで、リアルに話をしておいた。僕の立会い人としてのプライドが許さなかった。

 

その後も、この正調「カメラ」の話を、世界中で権威を持って喧伝したのは言うまでもない。この話はアメリカ人にも、オーストラリア人にも、スペイン人にも大笑いのネタとして有効であったことを付け足しておく。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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