父さんは、足の短いミラネーゼ

乾杯、ミラノ!( 5 / 8 )

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

愉快な友達、スキー狂のサンモリッツ

 

ミラノでの生活に時々アクセントをつけてくれるのが日本からの友達だ。いろいろ愉快な、時には本当に内緒の話がいっぱいある。

 

Kは本当にスキーが好きで、もちろん腕前も大変な人物だ。彼は僕が日本を出るときから、絶対にスイスにスキーをやりに行くから、サンモリッツへ連れてってくれと言っていた。その彼がいろいろ頑張って理由を作って、ヨーロッパにやってきた。パリでの会議を中心に1週間ばかりの短い出張を無理やり作って、ヨーロッパにやってきた。その忙しい中、2泊3日のサンモリッツでスキーをやった。

 

このスキーのために、彼は日本から重くてでかい自分のスキー靴を持参した。板はレンタルで良いが、靴だけは自分のものでないとだめだというわけで、えんやこらしょと飛行機に乗っけて持ってきた。それだけでも頭が下がる。

 

冬のサンモリッツはスキー客でにぎわっていた。ミラノから山の中へ3時間の旅だった。ホテルはサンモリッツの丘の中心にあるステファニにとった。登山電車の駅のすぐ側だ。僕のスキーはまだまだ中級で、シュテム・クリスチャニアができるぐらいだった。彼はその僕も一緒にピッツ・ネールからダウンヒルをやりたいと言う。板は彼はクナイスル、僕は小谷坂を借りた。その頃には日本スキーはもうヨーロッパまで出てきていて、サンモリッツで日本の板を履くとは思ってもみなかった。幸い天気はくて、3400メートル越えのピッツ・ネールにゴンドラが着いた頃は太陽が強く照っていた。最初からアルプスの青氷の上をトラバースすることになる。カリカリのバーンの上を斜滑降で進む。足元を見るとずうーと下まで氷の斜面だ。足がすくむ。なんとか雪の斜面に出て滑降が始まる。ダウンヒルは本当に快適だ。日本と違って人は少なくぶつかる心配もない。長いコースを下っていると耳元に風が立ってスピードを感じさせてくれる。とにかく下りはどちらにしても快適でスキーの醍醐味だ。長いコースで足が疲れるが、しかし楽しい。

 

問題は登りだった。長いダウンヒルのコースは尾根から長い斜面を滑って下り、谷に着いて、そこから次の尾根にのぼって、また一段下の谷まで降りて行く、その繰り返しだ。登りは、その頃のスイスではほとんどがTバー・リフトで、日本では余り馴染みがなかった。それはロープトウのようなもので、ロープにTの字型の股に挟む木のバーが付いていて、それに尻を乗せて足は雪面を板で滑りながら斜面を登っていくのだ。慣れていないので、バーを股にはさんで足で踏ん張るタイミングがなかなか取れない。ショックがきて、どうと転げてなかなか上手く乗れない。なんとか上手く捕らえてもそれでOKとはいかない。登りがけっこう長い。そして登っていく雪の面は決してなだらかではなく、ギャップやコブがあったりする。そんなところを、足をふんばってバランスをとりながら、自分のスキーを滑らせながら登るのだ。下手をすると、途中でバランスを失ってロープトウから放り出されてしまう。そうなると、もう一度、谷の底の出発点まで降りていって、スタート地点でロープを掴むしかない。ゲレンデとしては整備されていない新雪の雪面を、やっとの思いでスタートまで下って戻ってやり直しだ。

 

彼は慣れていて失敗はない。ロープトウの上で、僕が奮闘しながら上がって来るのを待つしかない。時間がどんどん経っていった。僕の疲れもどんどん増してきた。何回登って降りたか分からないぐらいになって、やっとサンモリッツの湖が見える斜面に出た。ほっとしながら緩やかな下りを楽しむ余裕が出てきた。彼は自由自在に楽しんで居たが、ある時、彼は体を宙で回転させながらある崖を飛んだまま見えなくなった。足元はかなり急な崖で、覗いて見ても上からは彼がどうなったか見えない。

 

サンモリッツのスキー場にはセイフ・ガードがいて、僕がまごまごしていたために僕たちがその日のダウンヒルグループの最後尾になっていた。ガードはすべてのスキーヤーを3時までに麓に安全に確実に下ろす役割を持っていた。だから我々のすぐ後を確認しながら下ってきていた。これが幸いだった。僕は彼等に助けを求めた。Kをすぐ探してくれるようにと。彼の消えた崖の上から、さらにその下の斜面を彼らは探してくれた。すごく長い時間のように思えた。足を折ったり頭を打ったりして怪我をしていたらどうしようとか、自分はとにかく早く安全に降りることなどと考えながら滑った。幾つかのカーブを曲がってかなり下の斜面に雪だらけになって立っている彼のめんどうを、ガードが見てくれているのを発見した。本当に安堵の疲れが出た。幸い彼は大した怪我もなく、ちょっとした擦り傷だけですんだ。彼は舌を出して失敗しちゃったといって笑った。ガードは神妙な顔をしていたが、やっと笑った。良かった。あまりにも上手いと逆にそれで危ないこともあるのだと知った。

 

降りたときはもう夕闇が迫っていた。その夜のビールは本当に美味かった。

次の日、僕たちは2泊3日のサンモリッツでのスキーをおえてミラノに帰った。

彼はその翌日、ヨーロッパを離れて日本に帰っていった。出発ロビーで、今度の事は会社には内緒だよとKは言った。僕は分かってるよと答えた。それから日本に帰ってからも、ずっと僕たちは秘密を共有する仲のいい友達だ。スキーのためにヨーロッパ出張を作ってしまった人を、あまりほかに知らない。

乾杯、ミラノ!( 6 / 8 )

愉快な友達たちのカメラ

愉快な友達たちのカメラ

 

OとTが、ドイツ出張の帰りにミラノに2、3日滞在した。彼らは、凸凹コンビで、小太りのOさんと、痩せの背のひょろりとしたTさんがひとつのチームで仕事をしていた。二人ともとても愉快な仲間たちで、彼等の訪問は楽しかった。

 

実は、彼等は大変な望みを持ってミラノに来ていた。かみさん達には絶対に聞かせられない話だ。とにかくミラノに滞在中に、イタリア女性と、何としても親密になりたいという、大変な望みを日本から持っていた。ミラノに駐在している僕に、どうしても一肌脱げという。仲のいい二人の希望を、僕は無下に断ることはできない。そこで幾つかの重要な情報と、注意事項を教えた。場所はピアッツアP。必ずパスポートを持っていくこと。現金を持っていくこと。どの辺に立っている女性に声をかけるかとか。簡単な地図まで描いてあげた。安全の準備は彼等が準備していた。その夜二人はがんばって出かけた。

 

翌朝、バールでエスプレッソを飲みながら、昨日はどうだったと聞くと、ちょっと残念な様子だ。何故かを聞くと、その種の女性とうまく遭遇して話すことができたのだけれど、今一歩うまくいかなかったというのだ。だから昨夜は目的を達してくることはできなかったという。ちょっとしょんぼりしている。

 

Tが話のなかで、日本のカメラと日本人のカメラ好きは、イタリア人に本当によく知られているのだな、と言う。昨日は夜だったから、カメラは持っていかなかったのが敗因だったと嘆いている。

 

話を聞いて見ると、好みタイプの女性に出会って、彼女たちと英語で金の話しをして、合意が成り立った。ところが、彼女達に、「カメラを持っているか」と聞かれたというのだ。その時、カメラはホテルの部屋に置いてきたから「No Camera」、「No Camera!」と言ったら、そこで話が終わってしまって、交渉不成立だったという。カメラさえ持って行ったら、きっとうまくいったのになあ、ととても残念そうだ。

 

僕は吹き出してしまった。「カメラ」と彼女たちがいったのは、男と女が仲良くなるための「部屋」はどうするか、と聞いたのだ。イタリア語で「カメラ」と言うのは部屋という意味なのだ。つまり、彼女は、どこで仲良くなるのかと聞いたのに、彼らは、写真機は持ってきていないと言うつもりで、「部屋なし」と言ったものだから、彼女たちは早々に話しを打ち切ったのだ。季節は10月だったから、外はもう寒かった。ここまで話したら、今度は彼らが猛烈に吹き出した。写真機はイタリア語で「Macchina Fotografica」というのだ。

 

その日がミラノ最後の夜だということで、二人はその夜、思い出を作るべく、また出かけていった。写真機を持っていったかどうかは聞いていない。

 

リナーテ空港で見送ったとき、二人は片目をつぶってみせた。ハッピィなミラノの思い出ができたようだった。

 

これには後日談がある。日本に帰ってからも、武士の約束で、そのことは内緒にしてOとTと僕は、仲の良い友達関係がつづいた。何年も経って、ある酒の席で面白い話を披露する場に出くわした。ある人が、イタリアでの日本人の「カメラ」の話を持ち出した。それはまさに、部屋と写真機を間違えた例の話だった。

 

それを聞いて僕は驚いた。それは、僕がずっと内緒にしてきた、僕の立ち会った、あのカメラの話だった。僕は全く話していないから、その話が流れ出たのは、きっと張本人たちからに違いない。当事者も黙っていられないくらい愉快な話だったのだ。笑い話に版権はないのだけれど、この話の立会い人、その本人、当事者だと言うことで、リアルに話をしておいた。僕の立会い人としてのプライドが許さなかった。

 

その後も、この正調「カメラ」の話を、世界中で権威を持って喧伝したのは言うまでもない。この話はアメリカ人にも、オーストラリア人にも、スペイン人にも大笑いのネタとして有効であったことを付け足しておく。

乾杯、ミラノ!( 7 / 8 )

国外退去、ジンデルフインゲンへ

国外退去、ジンデルフィンゲンへ

 

南ドイツ、シュトゥットガルトのすぐ西に、ジンデルフィンゲンと言う小さな町があるのをご存じだろうか。もしかするとダイムラー社のジンデルフィンゲン工場で知られているかもしれない。なにしろ有名なメルセデス・ベンツの生産拠点だから。

 

僕はこの町に1ヶ月間、イタリアのミラノから緊急避難して住んだことがある。

それは素晴らしい八月の一ヶ月でもあった。

 

事の起こりは、僕のミラノでの滞在許可を3回目に更新するときだった。I社の人事担当の人が、僕といっしょにミラノのクエストゥーラ(滞在許可を出す内務省の役所・警察)に行って、僕の仕事のことを話した時に起こった。僕がミラノのI社にデスクを持って働いていると言ったら、その役人は、「それは労働だ!労働許可が必要だ!今まで6ヶ月もそれなしで働いていたのか」と大騒ぎになった。給料はいくら日本からきているとか、今までの先輩達もそうだったとか説明しても、頑として受け付けない。結果としては48時間以内にイタリアから国外退去という処分になってしまった。僕たちは大慌てでI社に帰って対策を考えた。I社は国際的なネットワークがあって、早速ドイツの人事部に紹介してくれた。そしてすぐさまジンデルフィンゲンに一時的に移ることになった。

 

すべてのものをそのままにして、国際的に逃避行、なんて考えもしていなかったが、とにかくそんな風にして僕は南ドイツの田舎町に暮らすことになった。その間に、会社では正式にミラノ滞在許可をとる手続きを開始してくれた。なんだか、どこか夏休み気分でもあった。でもちゃんと毎日ジンデルフィンゲンに出社した。仕事のかなりのことはドイツからでもできた。

 

ジンデルフィンゲンの朝は早い。6時30分には出社だ。その課が特別早いわけではなく、だいたい30分位のずれはあるものの、みんなの出勤時間がとてつもなく早いのだ。そのかわり太陽がまだピーカンの夕方4時には会社は終わりだ。天気の悪い日なんかは、朝、家を出るころはまだ薄暗い感じだった。I社の正面にあるダイムラーの工場から、早朝の暗闇の中を黒いメルセデスを背中にいっぱい乗せた、長い長い車両運搬用の列車がゆっくりゆっくり、ゴトンゴトンと出て行くのに出くわしたものだ。

 

朝早いからみんな朝食を家でとっては来ない。朝8時過ぎには全社的に朝食の時間がある。マルツァイトだ。席で食べる人もいればカフェテリアまで出かける人もいる。もちろん昼飯とはちがって比較的簡単なものが多い。トーストと、ちょっとしたハムとか果物とか、それにコーヒーだ。でも、それでやっと人心地がしてくる。I社でも、朝の食事の制度があるのはドイツだけだと思う。まったくびっくりした。働き者のドイツ人らしいといえば、そのとおりともいえる。

 

朝飯を終えてオフイスに戻ると、ここにちゃんとしたしきたりが待っている。朝の挨拶だ。朝の挨拶にも習慣がある。このドイツの会社では、課長さんは毎日、出社してきた全ての課員と握手をして、こんにちはヘッラーA、フロイラインB、てことになる。そしてご機嫌はいかがですか、終末はいかがお過ごしでしたかとか、簡単な挨拶が続く。スキンシップと元気の確認を物理的にやっているのだ。しかも全員との握手が終わるのをみんなが立って見守っている。これには口があんぐりだった。でも良く考えると、とてもいい習慣だと思った。全員との握手が終わるとやっと本格的な個人ベースの仕事にはいっていく。課長さんは毎日大変だなと思った。

 

昼間に会社のカフェテリアでアルコールが飲めるのは、フランス、イタリア、スペイン、そしてこのドイツだ。ドイツではビールは大きなジョッキでサービスしていた。僕はイタリアとフランスを知っているからびっくりはしないが、アメリカ人はそれを目にしてびっくりしていた。所変われば、だ。

 

イタリー人も人なっこいが、ドイツ人も日本人だとわかると急に親しくしてくる。

冗談で、前の大戦はイタリアを巻き込んだから失敗した。今度はドイツと日本だけでやろうよ、なんて言ってくる。苦笑いするしかない。これは何も会社の中だけではない。シュトゥットガルトに遊びに出かけたときに、大きなビアーホールに入った。みんな少しビールが入って酔っ払ってくると、たくさんの見ず知らずの人が僕にビールをおごってくれる。「ヤパーニッシェ!」と言ってニコニコ近づいてくる人が結構いるのだ。僕はドイツ語はさっぱりだから、こちらもニコニコしているしかない。

 

ドイツではソーセージとビールが本当にうまい。でも僕にとって、極めつけはアイスヴァインとサワークラウトだ。大きな豚のもも肉をワインに漬け込んで、そしてスパイスで煮込んである。これに良く冷えたリースリンクかなんかがあれば幸せだ。

柔らかいピンク色のもも肉を切り取って、マスタードでちょっとアクセントをつけて、サワークラウトといっしょに口に運ぶ。けっこう酸っぱいサワークラウトも、この組み合わせで食べると僕にもちょうどいい。ここで味をしめた僕はその後、日本に帰ってもアメリカでもこのアイスヴァインを試しているが、あまり期待に反したことはないようだ。

 

ジンデルフィンゲンには毎日小さな朝市がたつ。近郷の農家の人たちが、新鮮な野菜とか果物、花などを持って集まってくる。安くて新鮮。また顔なじみになると、おまけもある。人懐こい元気な顔がいっぱいだ。僕の暮らした小さなアパートのすぐ側で、懐かしい小さなざわめきが近くにあった。

 

実はこのジンデルフィンゲンへの緊急避難の間、こっそり一日ミラノに帰った。国際会議で、どうしてもミラノにいる必要があったのだ。シュトゥットガルトからリナーテまではほんのひとっ飛び。パスポート・コントロールで、僕は止められなかった。夜ミラノのアパートにも泊まった。ちょっと怖かった。翌朝、すっとんでドイツに帰った。早く手続きが終わることを祈った。

 

夏のジンデルフィンゲンでのいい思い出の一つはフライバートだ。町の近くの公園にプールがいくつも作ってあった。子供用の浅いのから、高飛び込みもできそうな深いのから、競泳用の立派なものまでたくさんある。しかも回りは全て芝生でゆったり作ってある。芝生の中を小川が流れていて鴨たちが住んでいる。あたりは大きな森。大きなパラソルやテントを持ってきて、みんな食事持参で一日家族でのんびり過ごす。ドイツ南部と言っても冬は太陽が少ない。真夏の日々を肌に太陽をうんと浴びて冬に備えるようだ。だから芝生にごろごろ人が転がっている。胸をはだけた女性もいる。ちょっと困ったなということにもなる。

 

このジンデルフィンゲンに短期で来ていた日本の人がいた。この人にもお世話になった。車で近くの町や村を案内してもらった。チュービンゲンやドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム四世が築いた、平野からにゅっと立ち上がった高い山の上のホーエンツォーレルン城などを見た。そのとき彼の車で奇妙な経験をした。時々ウィンド・ウオッシャー液が出てワイパーが動く。ガラスは曇っていないのになと思っているとまた始まる。ギヤをチェンジする際、ちょっともたついている時にその現象が出る。原因はわかった。彼はちょっと小柄で、言ってはなんだけど足が短い。シフトするとき十分クラッチに足が届かず、その手前にある足踏みのワイパースイッチを足で稼動させていたのだ。悪いけど笑った。彼は屈託ない笑いを浮かべながら、何もなかったかのように車を走らせていた。きっとオペルだったと思うけど、そんな車が昔はあったのだ。でもおかげでのどかな南ドイツの美しい町や村を巡った。窓やベランダに花があふれていた。

 

そんなこんなの夏が過ぎて、やっとミラノの滞在許可が下りることになったと知らせが入った。僕はミラノに飛んで帰った。直接ミラノのクエストゥーラに出向くことはできない。何しろ僕は国外にいて、イタリアの外で滞在許可をもらって入国することに公式的にはなっているのだから。僕はスイスのルガーノにあるイタリア領事館に、わざわざミラノから車を飛ばして出向いた。念願のちゃんとした滞在許可証を手に入れて、ようやく堂々とイタリアに入国した。

 

突然の出来事でなかなか経験できない体験をした。しかしそれは僕にとって、どちらかと言うと楽しいドイツ滞在を与えてくれた思いで深いものだった。

もちろん、ジンデルフィンゲンにも新しい友達がたくさんできた。

乾杯、ミラノ!( 8 / 8 )

ミラノからのスコットランド出張

ミラノからのスコットランド出張

 

僕がスコットランドに初めて行ったのは、2月というとんでもない時期だった。なにしろ緯度的に言うと、モスクワよりもっと北ということだから、感覚的にはとても冬に行くような場所ではない。

 

ミラノ駐在員の僕は「向こうで問題がおきているので、ちょっとスコットランドに出張して解決してくれないか」と日本から依頼されて軽い気持ちで出掛けた。グラスゴ-空港に飛行機が着いたのは、とっても寒い夕暮れだった。ロンドン・ヒ-スロ-から1時間のフライトだった。

 

なにしろ英語の国だからと、たかを括って下り立った。ところが空港で人々が話している英語が耳に入ってこない。僕が話すのは皆わかってくれるのだが、僕には彼らの言うことがなかなかわからない。つんぼになったみたいだ。「ちょっと待ってよ」と言う感じになった。

 

会社のスコットランドの事業所は、グラスゴ-からちょっと離れたグリ-ノックというところにある。その日は会社には行かず指定のホテルに入ることになる。タクシ-はロンドンと同じような古い形の車だ。運転手に行き先をいうのだが、残念ながら相手のいっている事がまるで分からない。彼はいろいろ教えてくれているのだが。なんだか狐につままれたような感じで心許ない。道は右手に入り江を見て細い道を進む。いくつもの古い造船所が赤錆して朽ち果てている。どうも日本の造船にやられたのだと運転手がいっているようだ。ポ-ト・グラスゴ-をすぎてグ-ロックのホテルに入る。

 

冬でも太陽の日が沈むのはとても遅い。食事を済ませて近くを散歩することにした。ロ-ン・ボ-リングをやっているクラブが近くにあった。日本でもイタリアでもみたことのない、ボーリングのレーンが美しい本物の芝生で何レ-ンもつくられていて、若い人もお年寄りも楽しげにゲ-ムをしている。木製の磨き上げられた艶やかな球がゆっくりと芝生を転がっていくのを見ていると、時間がとてもゆっくり過ぎていく気がする。フェンスにもたれて1時間以上もみていたようだ。

 

スコットランドがまだ造船で華やかな頃を忍ばせる町並みがあった。ちょっとした高台に出ると、玄関ホ-ルが地面よりちょっと高くなった一階にあって、そして半地下のある2階建ての建物が続く。見ると1700年代の建物だ。大抵2軒続きの作りになっていて、イギリスには付き物のバックヤ-ドがもちろん裏にある。手入れも良くされて居て、古くても立派に使われている。建てられた年が各々建物の軒に書かれている。社会資本が本当に蓄積されていることを実感する。前のテラスは手入れが行き届いている。さすがに9時になると薄明りになって夜になってくる。ホテルの人が夏はゴルフが夜8時過ぎまでは十分できると言うから驚きだ。

 

翌朝、会社の人達は皆普通の英語を話すに違いないと思って、迎えにやってきたタクシ-で会社についた。ところが出てくる人の言っていることが、ほとんどとが分からない。困った。これがスコットランド訛だと知って唖然となった。僕には彼らの言っていることが分からない。たまげた。仕事にならない。子音が喉に詰まったような発音で、耳をいかに働かせてもチンプンカンプンだ。僕のいっていることは、ちゃんと分かってくれているので、よけいに変だ。なんとかしてよと思っていたら、分かる英語が突然聞こえてきた。彼はイングランドからの人で、彼は僕が分かる英語を話している。助かったと思った。しかし残念、彼は僕のコンタクトポイントではなく、となりの課の課長さんだ。後で話して分かったことだが、イングランドからの彼でも、慣れるまでちょっと手こずったという。これからの3週間の間どうなるのかと暗澹たる思いに沈んだ。仕方ない。どうしても分からない言葉は書いてもらうことにした。早くもミラノに帰りたくなってしまった。

 

夕方、会社の車が僕を3週間滞在するホテルに連れていってくれることになった。会社の運転手さんが、黒塗りのハイヤ-を運転して毎日僕を送り迎えしてくれるという。I社のどんな国でも、そんなことは想像できない事だった。もちろん真冬のさなかに見知らぬスコットランドをレンタカ-で通勤するなんてことは、ちょっとやりたくなかったので本当はとても助かった。この運転手さんは気をつかって一生懸命僕が分かる言葉をしゃべってくれる。こうした送迎に慣れているようでもある。冬のこの辺りは天候がとても変わりやすいという。「きっとこの1、2週間の間に冬、春、夏、秋の四季が体験できるでしょう」と言う。緯度的には、北極に近いのだが、大西洋から比較的暖かい海流が流れてきている。だから真冬でも海は凍り付かないのだと言う。夕方の細い道には黒氷が所々張っている。この上で不注意にブレ-キをかけたら、車はすっとんでしまう、といわれるとちょっとこわい。

 

ホテルに着いた。海辺に向かって立つ重厚な石造りの二階建ての館だ。芝生の庭の先はすぐ浜になっている。マリン・カ-リング・ホ-ル・ホテルといった。場所はラ-クスだ。客は少ない。なにしろ真冬で、しかも冬の観光になるものは何にもない場所だ。薄暗いロビ-で、大きな暖炉が一日中、ときにはパチパチと、時にはゴウゴウと燃えている。人々は静かに暖炉の周りで自分の時間に嵌まり込んでいるみたいだ。会社の友達がおしえてくれたドランビュ-イを静かに空けているのが似つかわしい場所だ。これはとても強い蒸留酒で甘くてどろりとした食後酒だ。雪が降って、前の浜を真っ白にした。ドランビュ-イは僕に深い眠りをくれた。

 

このラ-クスにいた間に、確かに燦々と照る夏の陽射しを浜の芝生に見た。大雨の春の朝もあった。そして本当の真冬、凍り付く真冬、暖炉の前でヒュウヒュウという風と打ち寄せる波の音を、ドランビュ-イをなめなめ聞いた。ホテルの夕食はいつも一人。きまった席で、ホテルのきまりきったメニュ-を毎日とっかえひっかえ選んで食べる。イギリスの飯はまずいといわれているけど、やはり僕との相性が悪い。肉はちょっと堅いけどまだ我慢できる。魚は本当に駄目だ。一番まいったのは、毎日毎日付け合わせででてくる、焼いたトマトだ。中途半端に冷えていて、そのぐじゅっとしたその食感は全く耐えられない。毎晩サンテミリオンでそれらを流し込む。そして必ずでてくるクレソンを齧って口を洗う。そんな毎日が過ぎていく。ミラノの喧騒が懐かしくて困った。近くにはパブもない。一人でウイスキ-をなめているだけだ。

 

週末は電車でエディンバラまで出かけた。グラスゴ-経由でスコットランドの古い汽車で行く。ゆっくりとした旅だ。幸い天候は良い。エディンバラは本当にいい町で気に入った。素晴らしい店が続く。ゆったりとした構造の中に、とにかく光るものが悠然と存在している。エディンバラ城もちょうどいい高さにあって町を見下ろしている。歩いていて気持ちがいい。緑も多い。

 

土産にタ-タンを買おうと専門店に入って驚いた。すごい種類のタ-タンで、すべて由緒が明確だ。日本の家紋みたいなものだが、とにかく種類がすごい。しかも男性用と女性用とは少し模様が違うのだ。親切な店の女性のアドバイスで、気に入ったタ-タンを布のままで買った。結構の重さだ。

 

少し黒ずんだ石作り街を歩いていて夕方になると、冬の寒さが静かに背中から這い上ってくる。蛍光灯だらけの日本と違ってヨ-ロッパの街の明りは、すべてといっていいほど白色灯だ。どこか人恋しくさせる明りだ。パブの明りに魅せられてはいってみる。パブはサル-ンとバ-になっている。サル-ンでは座って、ちょっとした食事ができる。とにかく安くて手頃だ。自分の街ではない見知らぬ街での一人の酒は、どこかつまらない。石畳の歩道をこつこつと足音を響かせてホテルに帰る。夏は音楽祭で人が押し寄せるというエディンバラも冬はさみしい。港からの船の汽笛がボ-ッツとなった。丘の上の城を歩いた事なんかを思い出しているうちに眠ってしまった。

 

その後何年もたってから、再びスコットランドに行った時、真夏のある週末、グリ-ンノックで友達になった若いスコットランド人のカップルと、夫婦でやってきていたアルゼンチンの2人と僕の合わせて5人で、スコットランドの湖水地方をドライブした。小さな車に乗っかって田舎を走り回った。どこまでも、どこまでも牧草と岩肌の道を行くと、牛の群れと羊の群れに出くわす。驚いたことに、牛の体毛がとても長い。冬の寒さに対応するために長くなった種類だという。30センチはあろうかと思われる毛並みで、体中をふさふさ揺らせながら牛たちがやってくる。面白い。

 

スコットランドのカップルが作ったサンドイッチにも驚かされた。白いパンとポテトチップスなのだから。フィッシュ・フライは知って居たけれど、ポテトチップス・サンドイッチはちょっと想像できなかった。でもビ-ルと一緒だと結構いけると知って二度びっくり。パ-スとかインバネスとか岩山と湖のほとりを、がんがん走って楽しかった。ラジオで「グアンタナメ-ラ」をやっていた。僕がちょっと口ずさんだらスコットランドのカップルが吹き出した。「だってスコットランドで日本人がスコットランド人とアルゼンチンの人の前で、南米の音楽を歌っているなんて!」ということになった。「そうだ。ちょっと変だぞ」。

 

そう言えばもっと変なことがあった。若いカップルに誘われて、夕方6時半にパ-ティにおいでと言われた。この時間だったら当然食事が出ると思って、飲み物なんかを買って彼等の部屋に行った。音楽を聴いたり、しゃべったり、つまみを食べたりしていて、そろそろ食事だろうなと思って心待ちにしているのに、何時まで経っても、なんにも食事が出てこない。おなかがすいたなあと思いながらパ-ティをやっていると、11時すぎになって、そのままお開きになってしまった。昼から食事抜きで、真夜中にホテルに帰ったら何にも食うものなし。仕方なく、ビールを2本ばかり飲んで、朝を迎えたことがある。スコットランドでは、パ-ティで6時すぎに始まるのは単なる飲み会だ、と教えてもらったのはその後だった。やはり所変われば、である。

 

スコットランドというと、僕はすぐスコッチウイスキ-を思う。聞いてみると、日本で有名なブレンドものは、スコットランドではあまり飲まないのだという。チ-バスもジョニウオ-カ-もバレンタインも皆飲まない。彼等は自分の好みのモルトを飲むのだという。グレングランとかアンティクエリィとか、あまり日本には知られてないものが彼等の誇りだ。ちょっとやってみたけど、ブレンドに慣らされた僕にはそんなに美味くない。もっと後のことになるけど、アイリッシュ・ウイスキ-がぼくの好みのものになってしまったのも不思議な気がする。

 

最初のスコットランドだった時、ラ-クスに滞在中、予言どおりのいろいろな天候を楽しんだ。霧の出た朝、迎えの黒いハイヤ-でグラスゴ-空港に向かった。カレドニアン・エアライン(カレドニアとはスコットランドのことだった)に乗り込んで、僕のつんぼの耳が突然直った。話されている言葉が分かるのだ。サザンプトン空港に下り立ったときは本当に助かったと思った。「そうさ、こうじゃなっくちゃ」と思った。とても得難いスコットランドの旅は終わった。ハバントに帰る途中、飛沫のあがるポ-ツマスの波止場のパブで、でっかいビタ-をなめながらホット息をついた。イングランドでは、まあまあ英語が通じて快適な日々だった。

 

後日談だが、その後パリにあるI社のヨ-ロッパ本部に出張で滞在していた時、駐在員向け英語のクラス生徒募集が、カフェテリアの掲示板に張り出されていた。「このクラスに絶対に出席しなくちゃいけないのは、グリ-ンノックの奴らだぜ」とそこにいたフランス人、ドイツ人、オランダ人、イタリア人、アメリカ人、そしてスコットランドから来ていた奴を含めて、僕たちは大笑いをした。ワインを飲めるフランスの昼休みでの会話だった。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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