俺の退職 Season 2(無職から起業まで)

第一話 失業中にいったい何を考えていたんだ( 1 / 7 )

俺は脱サラ起業したかったけど、何が自分でできるのかサッパリ分からなかったので、まずは会社に勤め続けてお金を貯めようとしたがうまくは進まなかった

俺は学生時代から天邪鬼だったと思う。『ひとのやらない事をやったらその場で第一人者だ!』そんな妄想を抱いていた。
そんな気持ちが次第に膨らみ、会社で働いて金を稼ぐ以外にも生活の選択肢がきっとあるはずだ!に発展し、そして『いつか自分で起業しよう』となってきた。

俺が『会社勤めだけが選択肢ではない』と気づいた出来事とは、勤める会社の労組役員に就任したことだった。
33歳だったある日、俺は上司の部長に呼ばれて「おまえ、労組に行けよ」と言われた。当時の俺は技術者で、自分はその道で生きて行くと決めていた。技術者を極めたいと思っていた俺にこの部長の言葉はものすごく衝撃だった。

部長は上級管理職で組合員ではない。いわば部長の言葉は業務上の異動命令に近い。部長はさらに「もし労組に行かなかったら酷いことになるぞ」このような趣旨の言葉を言った。これは俺がそのように受け止めたことで部長はこの通りに言ったわけではないが、しかたなく俺はそれに従うことにした。俺にしては人生が狂うほどの大事件だと当時は思った。

しかしこの出来事をきっかけにして俺の考えは変わっていった。
技術者から労組に異動した当初、俺は労組の仕事をまっとうできる自信がまったく無かったが、それから2年ぐらい経つと『できるじゃないか』に変わり自信を持ち始めた。この自信とは単に労組の仕事ができるというのでなく『仕事環境や内容が変わっても俺はなんとかできるんだ』というものだった。

それから俺は考え込んだ。仕事環境が変わってもオーケーであればもう技術者にこだわることはなく、当時勤めていた会社にすらこだわらなくていいのではないか。そのように思考が変わった。

次に、ではどのような将来の選択肢があるか、この方面を探る時期が続いた。しかし考えても考えても『これだ!』と合点がいくものはない。しかし考えた中では会社に勤めるではなくて独立して事業を始めることが魅力的ではないか。そのような方向性は感じられた。

問題は何を始めてどう稼ぐかだ。
考え抜いた結果『俺には稼ぐことは無理なのではないか』に行きつき、そこで壁に当たってしまった。テレビ番組では脱サラしてラーメン店を開業した夫婦が毎日の苦行に涙するシーンを見たことが何度もあるが、あのような苦行は、俺はしたくない『俺の性格にあのような修行はどだい無理なんだ』。だから俺はきっと何を始めても事業にならないだろう。これが当時の結論だった。

苦行とか修行をせずにできる起業はどんなものがあるか?この問いは難問だ。
いくら考えて俺にできそうな商売は思いつかない。ならばもうしばらく今の会社に勤め続けることにして、でも勤める目的は『金稼ぎ』一本に絞ろう。出世欲も愛社精神も仕事の生き甲斐も手放そう。そして給料で『もう稼がなくても生活は大丈夫』となる生活資金を貯め込もう。そうしたら起業のハードルはうんと下がり、何を始めるかの課題も解決が容易になるだろう。このように考えた。

実は「俺は何して起業することができるのか?」は失業中も俺はずっと考え続けていた。
「あ!この手があるじゃないか」みたいな閃きが何も起きずにすーっとその後も吹っ切れないままに考えあぐねるしかなかった。俺はきっと何か自分自身で事業できるような気がしているけど、事業内容が全然思い浮かばないのは非常にムズムズする。だけど『やっぱり再就職しかないかな』と思うときに、俺は失業中で再就職先探しがメインなはずなのに、再就職は自分の負けだから絶対に克服しなきゃイカンみたいな気にもなっていた。

第一話 失業中にいったい何を考えていたんだ( 2 / 7 )

特殊な仕事のスキルを持ったら就職に有利かと思ったら、身近にその特殊な仕事がまったく無かった

しかし、世の中の就職事情は様々だろうから、きっと面白い勤め先もあるだろう。俺は失業してハローワークに通日々が続いているから、まずは希望の持てそうな再就職先を探してみよう。

もし楽で有望な勤め口が見つかったなら俺は迷わずそこへ就職したくなっただろうと思う。
でもそのような勤め口はついに発見できなかった。俺は勤める東京のIT企業をリストラ退職したとき「もう単身赴任は辞めよう』と決心した。通算9年間の単身赴任生活を俺は経験し、辛かったけど単身赴任は東京で自由に振舞える部屋と時間を得られたメリットもあった半面、家族特に妻には過大な負担がかかった。多くの年月にわたり一人で二人の子を幼少期から成人前後までさせて押し付けてしまった。そういう反省と俺自身も単身赴任生活が辛くなったのだ。

単身赴任生活というとカッコいいかもしれないが、出稼ぎのことだ。
俺の最後の勤め先となった東京の会社は、最初っからそこへ再就職した。異動して東京に着任したのではないから単身赴任手当が無い。だから部屋を借りるのも月に1回か2回の帰省も全部自腹だった。しかし俺は短期決戦のつもりで50歳少し手前から目標の55歳あたりを目指してここで猛仕事して稼ぐつもりで就職した。そして勤めて3年少しであえなくリストラ退職。目標の55歳にはまだ足掛け3年届かなかった。だからまたどこかで勤め口を探したかったが、次こそは自分の家から通える範囲を探し回る決心をした。

自宅から通えれば単身赴任よりかなり体は楽だろうと、そう考えた。
このとき考えた「楽」は、その後更に尾ひれがついていった。読んだ本でイギリスでは4日勤めて働き、2日は自分自身の仕事に精を出し、残る1日は家族と一緒に楽しく過ごす、こんな一週間のゆとりある暮らしが存在するとの話を知り『それはいい!』と感動して「俺も週休3日の勤め先を探す」と決めた。しかもやはり勤めるとなると今までのキャリアと仕事スキルが活かせる専門職でいきたい。そのように就職活動の方針を決めたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

ハローワークや辞めた会社が契約してくれた再就職支援会社で週休3日で俺ができる専門職を探し続けたんだが、まったく見つからなかったのだ。
確かに専門職であり週休3日とか中には週に3日だけ勤務という垂涎の職場があったのだが、俺のできる専門職とはジャンルが違った。それらは例えば薬剤師、レントゲン技師、測量士、写真家、こんな専門職だった。これらの共通点は全国どこでも勤め口が存在していそうな、普及している専門性だった。

一方俺の専門はITだったけどたぶんレアなPLMという仕事だった。そういう特殊性の高い専門分野こそ俺の競争力だと自負していたが、これが地元で職探しになったら完全に裏目に出た。ハローワークで窓口担当者から「あなたの希望する職種と専門性は?」と聞かれたので「PLMなんですけど」と答えたけど、それは理解してもらえなかった。さらに長い説明をしたら一応分かったようだったが「まあ一応ここにその説明を書いて求人してみましょう」「もし求人があったらお知らせします」と言われ、その後一本の電話も無かった。

俺は分かっていなかったのだ。もし再就職するならどこにでも存在する専門性を身に着けておくべきだったと。
しかしそうかと言って、今更「なんでもいいです働ければ」という意思はまったく持てなかった。どうもこれでは無理らしい。就職ではなく別の手段で身を立てる方法を考え出さなければならない。

この先は、こうした俺の経緯によって進んで行った再就職ではない暮らし方を主眼に書いていくことになる。

第一話 失業中にいったい何を考えていたんだ( 3 / 7 )

再就職支援会社で「おっ!」となった雑談から俺は閃いた。そうか歌手みたいに会社の仕事とは全然違う分野で起業する手もあるんだぁ

俺の失業中はハローワークと再就職支援会社の行き来から始まった。再就職支援会社はハローワークを少人数個別指導のようにした運営だと思ったが、そこへ行くと使えるデスクやパソコンがあり、講座も開催されている。当然ここはタダではないが、リストラを実行した俺が勤めた会社がきっと罪滅ぼししたかったのだろう。費用は全額その会社持ちで通わせてくれた。

俺としてはその分まで退職金に積み増ししてもらいたかったのだが。
あまり期待せず失業後1か月目ぐらいから会社が指定した再就職支援会社に通い始めた。

最初はありきたりな講座から始まった。履歴書の書き方と面接の受け方、俺にはだいぶ食傷気味だったが、その後に指導員と個別相談する日があり、これもあまり期待せず受けた。そこで俺は「再就職以外の例えば起業とかの相談はここでできるのか」と尋ねてみた。案の定、起業相談はこの会社の対象外のようだったが、指導員の口から「過去に一人、変わった人がいて、その人は歌手になった」という言葉が出てきた。

再就職支援会社に通いながら、結局再就職はしないで歌手デビューをやったらしい人が実際にいたらしい。それ以上の詳しい話は無かったが、俺はこの話を聞いて『おっ!』と喜びを感じ、その後に何だか血が騒ぐような気分になった。

やはり会社へ再就職するのではなくて、自分のやりたい道に突っ走る人が実際に一人はいたようなのだ。俺は歌手になるとは思わないけど、今までやりたかったけど、出来そうもなかったから手を付けずにいた趣味や道楽の類はいくつか持っている。そいつらの中から起業に結び付くものは無いのか?歌手のように。

その指導員にその話を聞いてから、俺は再就職熱はかなり冷め、代わりに頭の中は起業色一色へ塗り替えられていくのが感じられた。帰りの電車の中では、その歌手になったという人がどんな気持ちでそう決心して再就職という本線から歌手行への支線に乗り換えて行ったのかを想像しながら家に戻って来たことを俺は今も思い出す。

起業をどうしたら成功させられるのかは、まったく相談相手になる人も機関も無かったけど、俺はかつて週末起業セミナーというところにセミナー受けに通ったことがある。だから起業への道のりは多少の知識を持っていたが、実践したことは無かった。それに「起業するなら自分のやりたい事をやるのではなくて、お客様が欲しがることをせよ」と鉄則教えられていたことを思い出し、この鉄則に従うと俺は自分で納得できない『面白くない起業を始めることになる』と内心敬遠していた。俺は自分のやりたい事で起業がしたいのだ。くだんの歌手になった人のように。

その後、指導員へ「俺はやっぱり再就職よりも起業を本命にしたいから、それに合う講座、何かないですか」と尋ねた。
「そんな講座は用意してないけど、あなたが起業に向くかどうか性格判断テストを受けてみたらどうか」こんな提案をよこしてきた。

性格診断は以前の会社で2回かそこら受けたことがある。俺は医者向きだみたいな分析結果が出てきて『なんじゃらほい?』と思ったあの診断テストをもう一回受けてみろと。
それでとりあえず受けてみることにした。

第一話 失業中にいったい何を考えていたんだ( 4 / 7 )

性格診断テストはメンドクサがらないでやってみたらいい。きっと勤め向きか?起業向きか?分かるぞ!

俺が通っていた再就職支援会社では「バークマンメソッド」という一種の性格診断試験の提供があった。俺はあまり期待もせずにそれを受けてみたのだが、この結果で『俺は一人でこの先やっていけるかも』と妙な自信がついたことは確かだった。もしかしたらその診断結果に摺りこまれた効果なのかもしれないが、まあいい。そのときに分類された俺の「型」が俺なんだと思って今日もやっている。たぶんハズレてはいない。

バークマンメソッドはもともと第二次大戦中のアメリカ空軍所属のバーグマン氏が開発した人と人の協業でよい結果を出すための組み合わせ方法のようなもので、優秀なパイロットなのに誰かとチームを組むとさらに良くなったり反対に全然ダメになったりするのはなんでだろう?という疑問から導いた「人それぞれの持ち味の型」を分類したものだ。

それよると人は「実行促進型」「関係構築型」「管理運営型」「企画立案型」の4つの得意分野があるという。ただどこかの型一つに別れるというものでなく複数の型がある配分で混合されたタイプの人間もいる。
診断テストをやった結果、俺は企画立案型9割+関係構築型1割だった。
つまりがむしゃらに目標向かって突き進む営業部長なんかに向いていないらしい、さらに緻密に間違いなく仕事を次々と片付けていく経理部門にも向いていない。向いているとするなら、まだやったことが無いことを上手く立ち上げる企画計画者で、多少の人間関係に分け入ることができるということかな。こんな具合になりそうな俺の型だった。

この結果を見て、俺は『どうりで!そうだったのか』とひどく納得した。
俺はプロジェクトリーダーに憧れ、会社ではそのようなリーダーをやったが、あまり芽も出ずストレスフルに感じてやっていた。『何だか俺は会社に合っていないのだ』そんな感じがした。しかしそれはリーダーを目指すからであって、作戦参謀だったらイケたかもしれない。

バークマンメソッドの結果に納得しながら、やはり俺は会社で立派な管理者や間違いのない仕事をこなす人材に再就職するよりも。まだあまり他人がやっていないような分野を開拓して誰かのために仕事をするような「一人企画家」みたいな生き方が合っている。そう思い込んだ。

3か月ぐらい通った、俺を辞めさせた会社が契約してくれた再就職支援会社で、通い始めの頃はまったく期待していなかったが、それからの俺の進路を左右するヒントをここで掴むことができた。これに似たような出来事は、その後俺は何回か経験した。あまり気が向かないセミナーへ参加して少しの期間だったけど共同でイベント企画と実行までやったこともある。

俺は思うのだけど、会社を辞めてリタイア生活が楽しく過ごせるか、あるいは苦痛に満ちた長い長い定年後になるかも性格に寄りけりではないか。そんな気がする。
性格診断は、上述バークマンメソッドの他に「人生の法則」という本もある。退職後に浜辺のヤシの木の下でゆっくりくつろぐ日々をおくりたい人など是非とも性格診断をやってみてはどうかと思う。意外にもそんな暮らし向きでない結果が出たら、即計画中止して再就職がいいかもしれない。
大庭夏男
作家:大庭夏男
俺の退職 Season 2(無職から起業まで)
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