虹の無い街

はしがき

 およそ今から50数年前の話しです。

戦争が終わり日本に平和が戻ってきたころ南の島ではアメリカの統治下にいました。

道路は汚くて当時は道を走ってる車は米軍車両か米兵の車がほとんどでした。

自家用車を持ってる人が周りにもいませんでした。

車も少なく現在の国道でとても大きな交差点にすら信号が無かったのを覚えています。

警察官が交代で交差点の真ん中で大きな台に乗り車の誘導をしていました。

小さい頃はいつもその車の誘導に関心して見に行ったのを覚えています。

そして「あのお巡りさんはトイレに行きたくなった時どうするんだろう」とか考えていました。

そんな光景を見た事があるとおっしゃる同年代の方もいらっしゃると思いますので

これから、読んで貰う際に当時を思い描ければ幸いです。

第1章 米軍の街( 1 / 5 )

戦争の名残

昭和30年代に私は生まれました。

場所は、沖縄県の中部でコザ市(現在の沖縄市)です。

周りは、ところどころ米兵とかも住んでて1950年代のフォードが普通に狭い道を

我が物顔で走っています。

 

それとは、対照的に馬車が普通に道を走っていました。

道は、アスファルトが敷かれてなく晴れの日はほこりが舞い雨の日はぬかるんで

歩きにくい状態です。

その頃は、保育園と言うのが無く私がやっと幼稚園に入った頃父と母は米軍基地で

軍雇用員として働いていました。

 

家に帰ると冷蔵庫も無くとにかく食べるものを探しまわったのを覚えています。

家中探しても何もなく3時過ぎまでお腹すかせてまってると兄が帰ってきて学校で貰う

コッペパンの切れ端をわら半紙に包んでありそれをちぎった切れ端を食べたのを

今でも覚えています。

その時期は、皆同じ境遇だったのか同級生で太っている子がいませんでした。

そして学校の登下校も怖かったです。外人の運転する車には気を付けないと

現在と違いクラクション鳴らすだけで減速もしない車がほとんどでした。

そんな車を見て幼稚園の頃は「車は、走り出したらなかなか止まらないんだ」と

子供心に思うようになりました。

 

そして、ある日そんな米兵が運転する車にはねられて命を落とした同級生もいます。

その子を跳ねた米兵は何の罪にもならない葬儀に普通に誤って終わりです。

良く知らないけど、確か当時50ドル程封筒に入れて持ってきたようだ(1ドル=360円)

私の両親も「車には近づくな、轢かれたら轢かれ損だから」と言われました。

学校でも先生が言う事は「車には気を付けるように」と言うだけです。

巷では、東京オリンピックで盛り上がっている頃でした。

 

その年のクリスマスの時に学校にサンタさんがきました。

サンタは、米軍の軍用ヘリに乗って学校に降り立ちました。

今のご時世だと大変な事件ですけど当時は学校のグラウンドに軍用ヘリが降り立っても

特に大騒ぎする事でもありませんでした。

ヘリから降りたサンタさんは「メリークリスマス」と叫んでお菓子をばらまきます。

そのお菓子を貰い友達と軍用ヘリを見ていました。

中にいるパイロットもカッコよくヘリには脱着式の機関銃とバルカン砲と言って

一分間でおよそ2000発も発射出来る機銃が装備されていて思わず「かっこいい」と

思ってしまう子供心です。

この銃で何名のベトナム人が命を落としたかも考える術はありませんでした。

 

第1章 米軍の街( 2 / 5 )

悲しい出来ごと

 その頃は我が家にやっと白黒のテレビが入りました。

それでもまだまだ普通に全世帯にテレビが入るのはまだまだ先でした。

父も少し無理をしてテレビを入れたと思います。

でも、この街に平和が来るのはもっと先の事です。

 

コザ市は当時米軍基地のおかげでいろんな恩恵を得ていました。

我が家も共働きの親は、米軍基地で勤めて収入を得ています。

ただ、その頃沖縄に入ってくる米兵は、ベトナムに派兵される兵隊です。

当然何時戦死するか解らないような連中です。

米兵による強盗事件や暴行事件等きりがない位起きていました。

私が幼稚園の時2・3度くらいしかお会いした事がない親戚の女性がいました。

当時25歳位だと記憶しています。

 

とっても綺麗な人で初めてお会いしたのが私が幼稚園の頃学校から帰ってきて

一人でいつものようにお腹を空かしている時に我が家に訪ねてきた時です。

「お腹すいてるでしょう」と当時あまり口にする事も無かったジャムパンをくれました。

私は、相手の素性も知らないままそのパンを全部食べました。

その女性は優しそうな目で私を見ながら「おばちゃんの事わかる?」と聞くと

私が首を横に振るとバッグからハンカチを出して私の顔についたジャムを拭きながら

ニコッと笑い「そう、〇〇のおばちゃんだよ、よろしくね」と言い

「お母さんに言っといてね。」と言って私の手の平に5セント玉を握らせて帰りました。

後で、母が帰った時に聞いたら親戚の人みたいで母とはいとこのようでした。

その女性とは正月か何かの時に2度程お会いしました。

ところが、小2位からぴたりと見なくなって母に聞いてもはっきりとした事を

言ってくれないし誰に聞いても小学生の私には誰も話してくれませんでした。

 

その人が亡くなったと言う事を聞かされたのはそれから3年後の小学校5年生の頃です

そしてその女性がどうして亡くなったかを聞かされたのは中学に入った頃でした。

私にパンをくれたあの優しい女性は米兵3人に拉致され強姦されてあげくの果てに

ボロ雑巾のように全裸にされてサトウキビ畑に捨てられていたそうです。

その遺体は、見るも無残で顔は殴られたあざがあり両腕は抵抗出来ないように

折られていてそれでもその女性は最後の力を振り絞って一人の腕の皮膚を

食いちぎったみたいで、口の中にはその米兵の皮膚が入っていたそうです。

 

その女性の母親は頭がおかしくなり精神病院のような施設に入っていたんですが5年後に

亡くなり、翌年父親も後を追うように亡くなりました。

そして衝撃なことがありました。その犯人は事件の2日後にすぐ捕まったみたいですけど

軍の規定か何かでそのまま本国に送られたそうです。

米兵は、当時は何をしても罪にはならなかったのが現実です。

多分逆な事をすると銃殺刑にでもなるんじゃないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1章 米軍の街( 3 / 5 )

米兵に対する怒り

 幼稚園の時に腹を空かした私にパンをくれた優しいおねえさんが米兵に殺された

事実を知った時、米兵3人に連れて行かれて暴行されてとても怖かっただろうなとか

とても痛かっただろう悔しかっただろうと思いながら涙が止まりませんでした。

どうして、殺されなければならなかったのか戦争が終結した時には8歳か9歳位で

とても怖い思いしながら生き延びてきたのに戦後にこんな事で命を落とすなんて沖縄は

まだ戦争が終わってないのかと思いました。

 

その後米兵に対して怒りを覚えるようになり確か中学に入りたての頃の出来事です。

大阪万博があり同じ年の暮に「コザ暴動」が起きました。

日曜日の未明だったと思いますけど、その現場まで見に行きました。

その頃の米兵の車は黄色のナンバープレートだったので良く覚えています。

そのプレートがついた車を何十名の大人が火を放ち燃やしていました。

中には車に乗っている米兵を車から引きずり出した後米兵が何か叫んでいるのに無視して

ガソリンをまいて火を放っている光景を見ながら私は、心の中で「どうして車から引きずりだすの

米兵が乗ったまま火を点けたらいいのに」と中学生ながら恐ろしい事を描いています。

その日一旦自宅に帰りその事を母に言うと「そんなところ行かないで」と言われましたけど

また友達誘ってその現場に向かいます。

 

焼け焦げた高級外車やスポーツカーを見ながら「車って結構燃えるものだな」と友達と

笑いながら見ていました。

そして、米軍基地のゲートのポリスボックスまで焼かれていました。

友達とそれを見ながら「ポリスボックスまで焼かれているぜ」等と話しながらしばらくその焼け跡を

見ていると後ろの方で人の気配を感じ振り向いたら米兵がカービン銃を向けて立っていました。

その数5人です。5つの銃口が自分の方に向いていました。

びっくりして思わず手を上げると通訳の人が「あなた達は、軍の敷地内に立ちいっているので直

ちに出なさい。撃たれても文句いえないよ」と言って外に出るよう手で合図します。

そこから出る時に周りにいた野次馬が、「あぶないよ、早くでないと」と言うと「あっ、はい」と

言いそこから出ると米兵が何名かですかさずロープをはり(立ち入り禁止)のような札を下げまし

た。だけどいくらなんでも子供に銃を向けるなんてといまさらながらに思います。

それから10名ほどの兵隊が銃を持って横一列の並びます。

野次馬の中から「今度は米軍基地全体を焼き尽くしたいな~。」との声に

周りから一斉に拍手と歓喜の声があがりました。

 

この街は、ほんとにいろんな事がある街だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

カラス
作家:カラス
虹の無い街
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