伝統宗教の功罪
いわゆる理非曲直の儘(まま)ならない古来の、
特にも実証科学の黎明(れいめい)以前には、
曲がりなりにも宗教の果たした役割こその、
それこそ唯一無二とばかりにも、
大いに高くも評価されて然(しか)るべきでありましょう。
しかし、16 世紀に始まる、
実証科学の黎明以降は、
むしろそれまでの功績こそが仇(あだ)ともなり、
科学の進歩発展を妨(さまた)げるばかりか、
時代の流れの要請にもより、
本来あるべく現わされて然るべき、
事実・真実・真理すらをも覆い隠し続け、
旧来の無知蒙昧の所産にもすぎない、
誤った教えこそに固執しては、
明智への人類的覚醒を、今なお相も変わらず、
阻(はば)み続けてさえいる、
そんな断じても有ってはならない、
実に由々しいばかりの有様なのです!
時代の選別
科学の黎明以前には、
いわゆる 『 預言者 』 こそが、
文字通りにも、『 神よりの御言葉を預かる者 』 として、
時代の要請に適(かな)うべく、
その役割を担っていました。
しかし、その実態たるや、
『 預言 』 の当たるも外れるも、
要は、偏(ひとえ)にその時々任せで、
見事正しくも当たれば、真の預言者と見做(みな)され、
その名を久しくも歴史に留められ、
逆に、生憎(あいにく)外れもすれば、
立ち所に偽(にせ)の預言者とばかりに、
歴史からその名を消し去られた、
所詮は一事が万事、結果次第の後付けによる、
成否・真偽の選別でしかない、
そんな 『 予言 』 などとは似ても似つかぬ、
況(ま)してや、神直々(じきじき)などでは、
断じてもけっして有り得ない、
唯そればかりのものにも過ぎなかったのです。
時代の明証
それが何よりの証拠には、
『 神よりの教え 』 ともされた、その教義が、
あろう事か、過(あやま)ちや誤りばかりにも、
満ち溢(あふ)れてさえいるではありませんか!?
そんな紛れもない事実からも顕(あきら)かなように、
『 預言者 』 としての務めにして役割りこそは、
『 実証科学の黎明 』 を俟(ま)って、
その歴史的な任務・使命を、自ずからにも、
終えるべくして終えることともなったのです。
それこそは、自ずからに時代が招いた、
人類における進化の一端であり、
『 文化・文明 』 にしての、
いわば 『 認識の革命 』 ともされようものなのです。
自ずからなる、いわゆる 『 時代の彫琢(ちょうたく)』 は、
それこそ神意に基づく図らいの如く、
『 要不要 』 を糺(ただ)し、『 真偽 』 を裁き、
『 優劣 』 を明かし、『 過誤 』 を改め、
本来以ってあるべく、『 真実・真理 』 を、
それらのあるがままにも、刻々と弛(たゆ)むことなく、
いずれは究極のその全(まった)き果てまで、
極め仕上げられるが如くにも、
顕(あら)わし続けられずにも措かれないのですから!
自業自得の報い
果たして、それにもかかわらず、
そうした 『 時代の顕現 』 にさえ気付かされず、
『 心地好い夢 』 さながらの、『 惰眠(だみん)』 などに、
長々と微睡(まどろ)み耽(ふけ)るばかりでは、
文字通りにも 『 現(うつつ)を抜かす 』 その罪の、
積もりに積もった報いこそに、いずれ不意にも必ずや、
それこそ手酷(てひど)く見舞われる、
そんなこんなの悪しくも由々しき前例こその、
一度(ひとたび)歴史を顧(かえり)みれば、
消しも消されぬ数多(あまた)の史実に、
何より顕(あきら)かではありませんか!?
さても、今般のコロナ危機の、
はたして、一体何がゆえの、
『 自業自得の報い 』 でもありましょうか・・・
たとえこのまま終息しようと、
努々(ゆめゆめ)唯の一顧だに、
漸(ようよ)う片付け済まされようことなどでは、
断じてもけっしてないのですから!