生きる意味は有るのか? 3
コロナ危機による顕現
久しくも慣れ切った習慣とは恐ろしいもので、
本来あるべき事実・真実でさえ、
旧来よりの無知の弊害(へいがい)のままに、
糺(ただ)され明かされることすらの無く、
ただ只管(ひたすら)に覆い隠し続けられるばかりか、
すでに明らかな多くの過誤でさえの、
然(さ)も実(まこと)しやかに罷(まか)り通る、
そんな有ってはならない、由々(ゆゆ)しき事態すら、
なお一向に顧(かえり)みられずに、済まされかねないのですから!
さても果たして、そんな事例こその、
一体全体どれほどにも、今日現代にあってさえ、
世間に満ち溢(あふ)れていることでしょうか!?
今般のコロナ危機にもよって、
改めても暴かれた、旧来の伝統宗教の、
不甲斐ないばかりの無力さなどの、
まさにその最たるもので、
かつての 14 世紀半ばにヨーロッパを襲った、ペスト禍や、
1918~1920 年に亘(わた)り全世界をも襲った、
いわゆるスペイン風邪などの、
まさしく二の舞、三の舞い宜(よろ)しく、
弥(いや)が上にも自ずからに、宗教の威信を失墜させ、
篤信者すらの愛想尽かせては、絶縁をも思い切らせ、
金輪際とばかりに信仰を絶つ者の、
それこそ数知れないほどですらあったのですから。
それが、今般またしても、
コロナ危機で繰り返されているというわけなのです!
『 神にも縋(すが)る一心 』 で、
あつまり集(つど)う祈りの場で、
事もあろうに集団感染した挙句、
教会・神社・仏閣での、集会さえが、
已(や)む無く禁じられずにも、
措(お)かれなかったほどなのですから・・・
伝統宗教の功罪
いわゆる理非曲直の儘(まま)ならない古来の、
特にも実証科学の黎明(れいめい)以前には、
曲がりなりにも宗教の果たした役割こその、
それこそ唯一無二とばかりにも、
大いに高くも評価されて然(しか)るべきでありましょう。
しかし、16 世紀に始まる、
実証科学の黎明以降は、
むしろそれまでの功績こそが仇(あだ)ともなり、
科学の進歩発展を妨(さまた)げるばかりか、
時代の流れの要請にもより、
本来あるべく現わされて然るべき、
事実・真実・真理すらをも覆い隠し続け、
旧来の無知蒙昧の所産にもすぎない、
誤った教えこそに固執しては、
明智への人類的覚醒を、今なお相も変わらず、
阻(はば)み続けてさえいる、
そんな断じても有ってはならない、
実に由々しいばかりの有様なのです!
時代の選別
科学の黎明以前には、
いわゆる 『 預言者 』 こそが、
文字通りにも、『 神よりの御言葉を預かる者 』 として、
時代の要請に適(かな)うべく、
その役割を担っていました。
しかし、その実態たるや、
『 預言 』 の当たるも外れるも、
要は、偏(ひとえ)にその時々任せで、
見事正しくも当たれば、真の預言者と見做(みな)され、
その名を久しくも歴史に留められ、
逆に、生憎(あいにく)外れもすれば、
立ち所に偽(にせ)の預言者とばかりに、
歴史からその名を消し去られた、
所詮は一事が万事、結果次第の後付けによる、
成否・真偽の選別でしかない、
そんな 『 予言 』 などとは似ても似つかぬ、
況(ま)してや、神直々(じきじき)などでは、
断じてもけっして有り得ない、
唯そればかりのものにも過ぎなかったのです。