僕とパニック障害の20年戦争プラス

闘いの始まり( 1 / 2 )

闘いの始まり①

僕はその日を忘れない。1989年2月1日深夜。正確に言えば、2月2日未明となるだろうか。時代が昭和から平成に移って間もない冬の夜だった。僕の胸が苦しくなり始めた。布団が鉛のように重い。どうしたのだろう?慌てて起き上がり、心臓に手を当てる。何の音も聞こえない。しかし、胸が潰されるように苦しい。自分に何が起こっているのかさっぱりわからない。
しばらくしても息苦しさは収まらず、焦りは募るばかりだった。心配させてはいけないと思いつつ、僕は両親の部屋の戸を叩いた。
両親の指示に従い、僕は横になった。実は数か月前にも同じような症状に襲われ、その時は徐々に苦しみは収まり、すでにそれは自分の中では過去のことになっていた。なのに何故、今になってよみがえってしまったのか?分からない。だが、今回は苦しみが収まる気配がない。むしろ次第にひどくなっていく。いつの間にか心臓の音が大きくなっている。僕から言い出したのか、両親のどちらかが言い出したのか覚えていない。とにかく救急車を呼ぶことを決断した。

闘いの始まり( 2 / 2 )

闘いの始まり②

ほどなく、救急車が到着した。救急隊員の一人が部屋の中へ入ってきた。
「手を握ってごらん」
僕は救急隊員の手を精一杯の力で握った。
「力はあるみたいだね」
彼は少し安心した様子だった。
救急車は近くの病院へ向かった。道のりがやけに長く感じられた。救急車が病院へ到着し、僕は診察室に運ばれた。そこには医師と看護師が待機していた。「早く何らかの手を打ってほしい」。僕の切なる願いだった。しかし、医師は急ぐ様子もなく、事もなげに言った。
「これは心臓そのものが悪いわけではないな」
その言葉は当たっていた。のちに何度か心電図検査を受けたが、異常はなかった。
「でも、もしかしたら○○になってしまったかもしれない」
医師が言った○○が聞き取れなかった。20年たった今も不明である。

そうこうしているうちに、僕の症状は落ち着くどころか、さらに苦しみが増していった。このままでは死ぬかもしれない。率直な気持ちだった。
それでも医師は何の手も打たない。僕はあまりの苦しさに、もう死んでいいから、この辛さから解放されたいと思った。そのわずかな開き直りからか、少しずつ症状は和らいでいった。
病院からはタクシーで自宅へ帰った。すでに時刻は午前4時である。18歳の僕は体と、そして心の中ではっきりと感じた。「この病気は治らない」と。

なぜ自分が( 1 / 3 )

なぜ自分が①

僕の記憶が正しければ、過呼吸発作を起こしてから2日後の2月4日だったと思う。その日は初めての大学受験が控えていた。心に迷いはなかった。「とりあえず受験しよう。行けるところまで行こう」

僕の自宅は埼玉県の東部。その大学は千葉にあり、片道2時間半はかかる。実は3日前の2月1日にこの大学を下見している。とにかく遠い印象と坂道がきつかったことを覚えている。最近は体育の授業などもなく、思った以上に疲れを感じた。この夜に発作が起きているのだから、もしかしたら、往復5時間をかけた下見が、発作と何らかの関わりを持っていたのかもしれない。僕にとっては因縁の場所だった。
大きな不安を持ちながら電車に乗った。勿論、今まで電車では感じたことのない苦しみがあった。それでも何とか大学へたどり着くことは出来た。

1科目目は国語。思った以上に平常心で問題に取り組めていた。しかし、突如、過呼吸発作が襲ってきた。僕は苦しみと恐怖に耐えきれなくなり、体調不良を訴え、医務室に付き添われながら向かった。
医務室までは自力で歩いていった。看護師かどうかわからないが、保健室には中年女性が待機していた。

なぜ自分が( 2 / 3 )

なぜ自分が②

「とにかく体を横にして」
言われるままに僕はベッドの上に横になった。しかし、それから苦しみが急激に増していく。どうも仰向けになるのが良くないのかもしれない。僕は息苦しさと死の恐怖と闘っていた。その様子を見た保健室の中年女性が慌ててしまったようで、その不安も僕に伝染し、さらに拡大していった。

結局、救急車を呼ぶことになった。救急車が到着し、僕は近くの病院へ運ばれた。学校関係者の中年男性が付き添っていた。
僕は病院のベッドの上で、試験を受け続けることになった。しゃっくりの様な間隔で襲ってくる発作に耐えながら、残りの英語と歴史の試験を終えた。学校関係者の男性は僕の様子に苛立っているようだった。連絡を受けた両親が病院へ駆けつけてきた。仕事中に呼び出された父親は「今度こういうことがあったら、もう来ないからな」と怒りを隠さなかった。

僕は両親とともに病院を出て、電車で向かった。しかし、その途中、また強烈な発作に襲われてしまう。駅員が読んでくれたのだろう。また救急車である。自分でもあきれる気持ちがあった。しかし、それよりも苦しみと恐怖感に固く支配されていた。
今度の病院では薬を飲んだ。いったん僕の意識はなくなった。つかの間の休息だったに違いない。少し落ち着いてから病院を出た。僕は犯罪者のような気持ちで自宅へ到着するのをじっと待った。

そこまでの思いをしながらも、僕は大学受験を続行した。特に勉強したわけではない。合格は出来ないだろう。しかし何故か、受験に参加する道を選んだのだ。義務感のようなものだろうか。道から外れるのが怖かったのか?
過呼吸症には紙袋を吸って吐くのがよいと言われていたので、受験の時には持参していたが、他人の目も気になり、使用することはなかった。満員電車をイメージすると、死ぬのではないかという恐怖感が沸き上がってきたが、何とか乗り越えた。
kumabe
作家:空乃彼方
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