僕とパニック障害の20年戦争プラス

目次

1.闘いの始まり
2、なぜ自分が?
3.何もかも変わり果ててしまった
4.あまりにも脆い恋心
5.思いもよらぬ結果
6.綱渡りのキャンパスライフ
7.青春の死
8.パニック障害?
9.前を向こうとした
10.清掃員
11.ひとり暮らし
12.新たなる闘い
13.絶望
14.精神科へ
15.わずかな光明
16.分厚い壁
17.パニック障害者
18.パニック障害も千差万別
19.敗北
20.新たなる重荷
21.生きてさえいれば

闘いの始まり( 1 / 2 )

闘いの始まり①

僕はその日を忘れない。1989年2月1日深夜。正確に言えば、2月2日未明となるだろうか。時代が昭和から平成に移って間もない冬の夜だった。僕の胸が苦しくなり始めた。布団が鉛のように重い。どうしたのだろう?慌てて起き上がり、心臓に手を当てる。何の音も聞こえない。しかし、胸が潰されるように苦しい。自分に何が起こっているのかさっぱりわからない。
しばらくしても息苦しさは収まらず、焦りは募るばかりだった。心配させてはいけないと思いつつ、僕は両親の部屋の戸を叩いた。
両親の指示に従い、僕は横になった。実は数か月前にも同じような症状に襲われ、その時は徐々に苦しみは収まり、すでにそれは自分の中では過去のことになっていた。なのに何故、今になってよみがえってしまったのか?分からない。だが、今回は苦しみが収まる気配がない。むしろ次第にひどくなっていく。いつの間にか心臓の音が大きくなっている。僕から言い出したのか、両親のどちらかが言い出したのか覚えていない。とにかく救急車を呼ぶことを決断した。

闘いの始まり( 2 / 2 )

闘いの始まり②

ほどなく、救急車が到着した。救急隊員の一人が部屋の中へ入ってきた。
「手を握ってごらん」
僕は救急隊員の手を精一杯の力で握った。
「力はあるみたいだね」
彼は少し安心した様子だった。
救急車は近くの病院へ向かった。道のりがやけに長く感じられた。救急車が病院へ到着し、僕は診察室に運ばれた。そこには医師と看護師が待機していた。「早く何らかの手を打ってほしい」。僕の切なる願いだった。しかし、医師は急ぐ様子もなく、事もなげに言った。
「これは心臓そのものが悪いわけではないな」
その言葉は当たっていた。のちに何度か心電図検査を受けたが、異常はなかった。
「でも、もしかしたら○○になってしまったかもしれない」
医師が言った○○が聞き取れなかった。20年たった今も不明である。

そうこうしているうちに、僕の症状は落ち着くどころか、さらに苦しみが増していった。このままでは死ぬかもしれない。率直な気持ちだった。
それでも医師は何の手も打たない。僕はあまりの苦しさに、もう死んでいいから、この辛さから解放されたいと思った。そのわずかな開き直りからか、少しずつ症状は和らいでいった。
病院からはタクシーで自宅へ帰った。すでに時刻は午前4時である。18歳の僕は体と、そして心の中ではっきりと感じた。「この病気は治らない」と。

なぜ自分が( 1 / 3 )

なぜ自分が①

僕の記憶が正しければ、過呼吸発作を起こしてから2日後の2月4日だったと思う。その日は初めての大学受験が控えていた。心に迷いはなかった。「とりあえず受験しよう。行けるところまで行こう」

僕の自宅は埼玉県の東部。その大学は千葉にあり、片道2時間半はかかる。実は3日前の2月1日にこの大学を下見している。とにかく遠い印象と坂道がきつかったことを覚えている。最近は体育の授業などもなく、思った以上に疲れを感じた。この夜に発作が起きているのだから、もしかしたら、往復5時間をかけた下見が、発作と何らかの関わりを持っていたのかもしれない。僕にとっては因縁の場所だった。
大きな不安を持ちながら電車に乗った。勿論、今まで電車では感じたことのない苦しみがあった。それでも何とか大学へたどり着くことは出来た。

1科目目は国語。思った以上に平常心で問題に取り組めていた。しかし、突如、過呼吸発作が襲ってきた。僕は苦しみと恐怖に耐えきれなくなり、体調不良を訴え、医務室に付き添われながら向かった。
医務室までは自力で歩いていった。看護師かどうかわからないが、保健室には中年女性が待機していた。
kumabe
作家:空乃彼方
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