というのは、小説を書くということは、他人のためであり、自分のためでもあるからです。以前、自分を知るために、小説を書いてほしいと述べました。小説を書くということは、娯楽を提供する文筆活動だけでなく、自分を理解するための文筆活動でもあるのです。
小説家は、娯楽作品を創造する芸術家です。だから、その時代においてどのような作品が娯楽となりうるかを知らなければなりません。そういう意味では、小説家は、時代を認識する科学者でもあります。
小説家は、時代と密接なかかわりを持っています。そのことは、とても重要なことで、小説からその時代を知ることにもなるのです。だから、小説は、娯楽作品であると同時に、歴史遺産でもあるのです。
小説家は、言語を使って娯楽を創造します。その娯楽は、その時代の人たちに向けたものです。さらに、性別や年代も考慮しています。当然、娯楽の創造ですから、因果律を基礎とする理論ではありません。
では、理論ではないから、科学性はない、といえるでのしょうか?小説は、架空の世界を描いていますから、確かに、具体的な科学性はないのです。ところが、小説には、科学性が潜んでいるんです。
それでは、どんな科学性が存在しているのでしょうか?それは、”存在の論理”なのです。ほとんどの小説家は、無意識に、この存在の論理を書き続けているのです。
以前にも述べましたが、存在の論理を簡単に言えば、表を認識した時、”同時に”、裏が存在する。作用と”同時に”反作用が存在する。有限は無限を内包し、同時に、無限は有限を内包する。この「同時に」という点が重要なのです。
当然、喜怒哀楽にも「存在の論理」が内在します。だから、小説家は、作品を創造し続けるのです。小説家は、科学者ではありません。単なる、芸術家です。だから、実用性のある理論は展開しません。
では、小説家は、何をやっているかというと、だれにも存在する”心における存在の論理”を、読者にわかりやすく、架空の世界を通して表現しているのです。ミステリー小説や恋愛小説は、典型的な作品なのです。