大前提として、小説に価値が生まれるには、読者に言語中枢があること、また、喜怒哀楽があることです。どちらが欠けても、小説は、価値を持たなくなります。
例えば、犬や猫には、人間には理解できない喜怒哀楽はあると思いますが、言語中枢がないので小説は読めません。 AIは、言語処理という意味では、小説は読めます。でも、喜怒哀楽がないから、娯楽としての読書とはなりません。
喜怒哀楽と言っても、人それぞれです。だから、小説を読んでも、面白いと思わない人たちがいても当然です。つまり、小説が娯楽になる人たちもいれば、娯楽にならない人たちがいるということです。
ところで、喜怒哀楽は、永遠に存在し続けるのでしょうか?時代が変われば、当然、喜怒哀楽も変化します。喜怒哀楽に変化が起きれば、娯楽アイテムにも変化が起きます。
今、娯楽の主流は、ゲームです。この勢いで行けば、喜怒哀楽は急激に変化していくでしょう。そうなれば、小説の娯楽性を必要とする人たちは、減少していくことでしょう。
人は、娯楽なくして、生きていくことはできません。だから、人は、数々の娯楽を創造してきたのです。野球、サッカー、テニスなどの多種多様のスポーツ。TV、映画の放映。歴史の長い囲碁、将棋、小説。eスポーツ、ネットゲームなど。
娯楽というものには、観念的なものもあります。宗教も娯楽の一つなのです。ほかには、薬物もあります。誰もが知っている麻薬です。また、競馬、競艇、などの博打も娯楽です。
人は、喜怒哀楽がある限り、娯楽を創造し、娯楽を享受しながら生きているのです。また、人それぞれの喜怒哀楽の違いが、娯楽の創造の原動力となっているのです。今では、数えきれないほどの様々な娯楽があります。
これだけたくさんある娯楽アイテムの中で、今後も、小説は娯楽となりうるのでしょうか?仮に、今、小説がなくなったとして、他の娯楽を享受して、人は生きていけるのでしょうか?おそらく、問題は起きないでしょう。