空なる我  下巻

<習合とは?>

最近、思うのですが、仏は苦楽の世界で、神は生死の世界で、教義を集合させたといっても、その機能する世界(次元)が違いますから、神仏習合というより、浄土真宗は「 不可思議光 」と「 無量寿仏 」という形で教義にしているので、浄土真宗自体が仏教といいながらも、既に「 神 」を含んでいて、もしそこの事情が他宗もそうなら、仏教そのものが神仏習合で、その二つは分離できないと思います。

 「 習合 」という言葉の意味は、幾つかの教義を折衷したものとの事です。

教義は宗教などの教えや主張であり、折衷は、そんな教義を繋ぎ合わせて妥協させることでしょうし、主義や主張が一貫しないことを「 習合 」と呼ぶのでしょう。

「 空なる我 」の中の「 神 」と「 仏 」は、「 その1 」で書きましたし、「 神仏習合と私 」という電子書籍のなかで歴史的な神仏習合について触れています。

私の場合は、「 神 」という主張と「 仏 」という主張が、「 空 」を通して「 仏 」に活力を与えるように折衷していることになります。

それは、私の死後を弔う約束の宗派の考えを参考にしますなら、「 一切皆空 」に従って「 空 」を「 エネルギー 」と捉えて、宇宙(自然)エネルギーが「 神 」で生命エネルギーが「 仏 」であり、それらは「 阿弥陀仏 」のもとに、前者が「 不可思議光 」、後者が「 無量寿如来 」として一体になっている状態であると思います。

それが、眼に見える「 現象 」としては、生命エネルギー(仏)は生命維持のために、「 呼吸 」という「 現象 」で、生命エネルギーの中には存在しない宇宙(自然)エネルギー(神)である空気(kuuki)を取り入れなければならず、それが肺の中で、体内を循環する血液を浄化し、浄化し終えた空気を排出しなければならないという点で、上記のことを説明できると思います。


これらは、(A)私に害を加えるものでなく、私の考えの都合が良いように「 神仏 」を取り入れたもので、「 空なる我 」に於いては、「 色即是空 空即是色 」に従って、眼に見える「 現象 」としては、宇宙(自然)エネルギーの「 神 」は「 無常 」として現れ、生命エネルギーの「 仏 」は、お釈迦様のような人格保持を目的とし、「 慈悲 」を為すことに現れると思います。


私が「 即身成仏 」となった高僧だと感じますのは、厳しい修行でミイラ状態になった人ではなく、「 空 」を悟ったら直ちに「 慈愛 」をもって「 無常 」の中に生きる希望を与える人です。


それに対して、(B)私に害となる「 神仏 」は「 空なる我 」の妨げになるエネルギーであり、「 神 」としてのエネルギーは、天災のように「 無情 」と思われる「 現象 」として現れ、「 仏 」としてのエネルギーは、円満な人格形成を妨げる「 煩悩 」という「 現象 」になって現れ、エネルギーの推移によって、(A)と(B)が繰り返す連続が、私の人生であると思います。

私は、水がHOという結びつきをして、或る時は液体になり、また或る時は気体になり、また或る時は固体になるなど、「 現象 」は変わって、「 浄土 」たる地球を循環することを望んでいまして、その水を地球の大気圏外に放出されるのを嫌っていますので、「 悟って 」純粋な物理エネルギーになって地球の循環からはずれることを望みません。

ですから、お釈迦様をはじめとするブッダが恐れる「 無明 」に引き戻されることにも厭いはないので、「 神仏習合 」で主義、主張が一貫しない、中途半端な「 空なる我 」を守り、水は光とは違うので、水が光の構造になることを望むのではなく、水は水として、人の飲食に役立つように、濁らず、危険な物質を含むことなく、清らかな流れの中に包摂されたままで死を迎えようと思います。

私の思い

<従来の仏教とは違うと思うところ>

以上、書いて来ましたら、日本の従来の宗派と同じように思われてしまいますので、69歳、これから避ける事が出来ない「 死 」への進路を進むにあたって、心がけたい事を書くことによって、私の孤立妄想である考えの進展を披露したいと思います。

私は、「 一切皆空 」と般若心経の「 空 」を「 エネルギー 」と考えて、神仏習合を計り、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて中心となし、「 自我 」は神仏エネルギーのひとつの「 現象 」であり、それは、自然現象と同じようにエネルギーの推移により絶えず変化するものであると考えました。

この私が使います「 現象 」という言葉は、この言葉自体がそれですが、五感で知れないエネルギーが五感で認識できる「 モノ 」になったこと、五感で知れる事象となったことを意味していまして、「 仮の姿 」とか「 仮定された事象 」など、「 本質 」に対する言葉ではなくて、「 本質 」である「 エネルギー 」が認識可能な姿形をしたもの、「 現象 」そのものが「 エネルギーという本質 」であって、「 エネルギーである本質 」は「 現象 」として認識可能になることでしか、人間に知らしめる事が出来ないものだと考えています(空即是色){ E=MC² }。

「 浄土 」ですが、それは一部を除いた従来仏教とは違い、例えば宇治の平等院などに示される、実際に認識不能な場所、あるいは遠いかなたにあって死後しか分からないといった、現実に認識可能と考える場所や世界を包摂し、その認識器官という「 現象 」を創り出す以前で、全く認識不能な世界が、「 浄土 」という全生命を司る「 阿弥陀仏 」のおわす世界であって、それが西方数千里にあるのか死後のあるなどという考えの及ばぬ世界であるが、それは、実際に「 存在 」するというのが私の考えです。

そこは何処か?と問われれば、全生物の認識する力を産み出す世界で、全ての世界観を受容し否定する地球という「 自然 」であることになります。

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。

前回によって、私の「 空なる我 」と死後にお墓に入る浄土真宗とは、親鸞によれば、ほぼ同じなのかなあ?と思います。

「 空なる我 」の宇宙(自然)エネルギー(神)は、「 不可思議光 」で、生命エネルギー(仏)は「 無量寿如来 」と思われ、それが合一したのが「 阿弥陀仏 」と思われるからです。

しかし、鎌倉時代と今の治安や暮らしぶりの違いから、「 浄土 」を「 極楽 」や「 地獄 」がある思考を超えた世界で、厭離欣求という言葉もありますように、現実よりもっと優れた「 極楽浄土 」に生まれ変わりたいと一心に思って、「 南無阿弥陀仏 」と念仏に答えて、阿弥陀仏の力にすがれば、阿弥陀仏がおわす「 極楽 」に生まれると説いたように、私は解釈しています。

浄土真宗では般若心経は唱えませんが、般若心経の「 空 」による救済を説いた大乗仏教の一種でなければなりませんが、それが、「 不可思議光 」と「 無量寿如来 」が一体となった「 阿弥陀仏 」を信仰することにつながるのだと思いますが、「 空 」という言葉を聞きません。

「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱える事は頷くことが出来ますが、それは、密教の「 真言 」と同じく、宇宙と同期する為の音楽や響きであって、単に阿弥陀仏の救いを求めるという説明で、現代の信者を満足させることが出来るでしょうか?

お経を一字一句、守ることは、お釈迦様が「 無私 」とした救いへの姿勢を無くした姿であり、お経はお経であり、書物による悟りなどなく、まして、「 慈悲 」が生まれることもないと思います。

もしも、常日頃、阿弥陀仏に感謝して生きるというなら、阿弥陀仏は「 空なる我 」と同じく「 空 」そのものだと思いますから、自分の生命に感謝して先祖供養も良い事かも知れませんが、「 阿弥陀仏 」が「 現象 」として現れるような「 慈悲 」の行為をするのが、プロの僧侶が為すべき責務なのではないでしょうか。

また「 極楽浄土 」などは考えずに、前回、私が書きましたように、「 空 」である「 阿弥陀仏 」が常住されるところは、生命エネルギーを生物の種類を問わずお与える場所でしょうから、「 極楽 」とか「 地獄 」とか苦楽を味わう場所ではなく、一兵卒として各種生物の命として特攻する場所であり、そこは各種生物の世界は「 現象 」として現れないエネルギーの世界(その意味では無ですが)であり、あるとすれば地球上にしか考えれず、この世に絶望して死ぬのならその続きになる運命に生まれ変わるかもし知れません。

あこがれで「 浄土 」にゆくべきではなく、しっかりとこの世で「 生老病死 」の苦しみを味わったあとでしか「 幸せな結果 」にならないかも知れません。

こんな、信者の迷いを導けない説明をしているから、間違った考えの宗教学者や評論家が現れ、人倫にも反する行為をする仏教を名乗る集団を批判も出来ないのではなかろうかという疑問も出てきます。

私は、ユーチューブのおかげで、多くの書籍を読むこともなく、ここまで「 お前は、何様だ 」といわれるくらいの知識を得ましたが、法話も色々あって、私の心に響くものしか拝聴していませんので、きっと偏見だと思いますが、お釈迦様も「 無我 」を「 空なる我 」にしたり、因果の法則による輪廻転生に反対するなど、なにかお釈迦様の方向から遠ざかっているような気もします。

昔、孫悟空が到達点を記した柱が如来の指だったという話は知っていますが、これまで「 慈悲 」なんて思ってもいなかった私が、「 空なる我 」を考えることによって「 色即是空 空即是色 」をアインシュタイン氏の{ E=MC² }と置き換える考えになり、「 人は自然物と同様、エネルギーの現象だ 」と思うようになり、同じ「 現象 」である他人も、自分と同じように考えなくてはと思ったとき、東日本大震災で「 無常 」を説いて希望を与える僧侶の心持がわかった事を記さずにはおられなせん。

「 阿弥陀仏 」を「 空 」とは考えなかったのは、親鸞はアインシュタイン氏の{ E=MC² }を知らず、たぶん「 空 」を「 エネルギー 」と想定しなかった為に、「 阿弥陀仏 」の構成が簡単にならず、「 正信偈 」や「 歎異抄 」を書いて説明したのだと思います。

ですから、「 歎異抄 」について様々な書籍がありますが、「 空なる我 」からは遠い考えですので、読みません。

前回、書き忘れたのですが、「 五感(五蘊)を失っていくこと 」は、神仏エネルギーの衰退によって、労せずして「 空なる我 」に戻ることが出来ることで、自然に戻ることだと思います。

ちょうど、水面の泡が弾け散るだけで、水の構造は失わず、水を構成するエネルギー(神)は消滅しないように、自然のエネルギー(神)の中に眠ることになると思います。

その意味では、昔、特攻隊員に「 死んで神となれ 」と励ました上官が言ったことと同じ結果になろうかと思いますが、私の考えでは、皆さんも、いづれ「 神 」になると思います。

もっとも「 神 」はエネルギーなのですが………

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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