空なる我  下巻

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。

前回によって、私の「 空なる我 」と死後にお墓に入る浄土真宗とは、親鸞によれば、ほぼ同じなのかなあ?と思います。

「 空なる我 」の宇宙(自然)エネルギー(神)は、「 不可思議光 」で、生命エネルギー(仏)は「 無量寿如来 」と思われ、それが合一したのが「 阿弥陀仏 」と思われるからです。

しかし、鎌倉時代と今の治安や暮らしぶりの違いから、「 浄土 」を「 極楽 」や「 地獄 」がある思考を超えた世界で、厭離欣求という言葉もありますように、現実よりもっと優れた「 極楽浄土 」に生まれ変わりたいと一心に思って、「 南無阿弥陀仏 」と念仏に答えて、阿弥陀仏の力にすがれば、阿弥陀仏がおわす「 極楽 」に生まれると説いたように、私は解釈しています。

浄土真宗では般若心経は唱えませんが、般若心経の「 空 」による救済を説いた大乗仏教の一種でなければなりませんが、それが、「 不可思議光 」と「 無量寿如来 」が一体となった「 阿弥陀仏 」を信仰することにつながるのだと思いますが、「 空 」という言葉を聞きません。

「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱える事は頷くことが出来ますが、それは、密教の「 真言 」と同じく、宇宙と同期する為の音楽や響きであって、単に阿弥陀仏の救いを求めるという説明で、現代の信者を満足させることが出来るでしょうか?

お経を一字一句、守ることは、お釈迦様が「 無私 」とした救いへの姿勢を無くした姿であり、お経はお経であり、書物による悟りなどなく、まして、「 慈悲 」が生まれることもないと思います。

もしも、常日頃、阿弥陀仏に感謝して生きるというなら、阿弥陀仏は「 空なる我 」と同じく「 空 」そのものだと思いますから、自分の生命に感謝して先祖供養も良い事かも知れませんが、「 阿弥陀仏 」が「 現象 」として現れるような「 慈悲 」の行為をするのが、プロの僧侶が為すべき責務なのではないでしょうか。

また「 極楽浄土 」などは考えずに、前回、私が書きましたように、「 空 」である「 阿弥陀仏 」が常住されるところは、生命エネルギーを生物の種類を問わずお与える場所でしょうから、「 極楽 」とか「 地獄 」とか苦楽を味わう場所ではなく、一兵卒として各種生物の命として特攻する場所であり、そこは各種生物の世界は「 現象 」として現れないエネルギーの世界(その意味では無ですが)であり、あるとすれば地球上にしか考えれず、この世に絶望して死ぬのならその続きになる運命に生まれ変わるかもし知れません。

あこがれで「 浄土 」にゆくべきではなく、しっかりとこの世で「 生老病死 」の苦しみを味わったあとでしか「 幸せな結果 」にならないかも知れません。

こんな、信者の迷いを導けない説明をしているから、間違った考えの宗教学者や評論家が現れ、人倫にも反する行為をする仏教を名乗る集団を批判も出来ないのではなかろうかという疑問も出てきます。

私は、ユーチューブのおかげで、多くの書籍を読むこともなく、ここまで「 お前は、何様だ 」といわれるくらいの知識を得ましたが、法話も色々あって、私の心に響くものしか拝聴していませんので、きっと偏見だと思いますが、お釈迦様も「 無我 」を「 空なる我 」にしたり、因果の法則による輪廻転生に反対するなど、なにかお釈迦様の方向から遠ざかっているような気もします。

昔、孫悟空が到達点を記した柱が如来の指だったという話は知っていますが、これまで「 慈悲 」なんて思ってもいなかった私が、「 空なる我 」を考えることによって「 色即是空 空即是色 」をアインシュタイン氏の{ E=MC² }と置き換える考えになり、「 人は自然物と同様、エネルギーの現象だ 」と思うようになり、同じ「 現象 」である他人も、自分と同じように考えなくてはと思ったとき、東日本大震災で「 無常 」を説いて希望を与える僧侶の心持がわかった事を記さずにはおられなせん。

「 阿弥陀仏 」を「 空 」とは考えなかったのは、親鸞はアインシュタイン氏の{ E=MC² }を知らず、たぶん「 空 」を「 エネルギー 」と想定しなかった為に、「 阿弥陀仏 」の構成が簡単にならず、「 正信偈 」や「 歎異抄 」を書いて説明したのだと思います。

ですから、「 歎異抄 」について様々な書籍がありますが、「 空なる我 」からは遠い考えですので、読みません。

前回、書き忘れたのですが、「 五感(五蘊)を失っていくこと 」は、神仏エネルギーの衰退によって、労せずして「 空なる我 」に戻ることが出来ることで、自然に戻ることだと思います。

ちょうど、水面の泡が弾け散るだけで、水の構造は失わず、水を構成するエネルギー(神)は消滅しないように、自然のエネルギー(神)の中に眠ることになると思います。

その意味では、昔、特攻隊員に「 死んで神となれ 」と励ました上官が言ったことと同じ結果になろうかと思いますが、私の考えでは、皆さんも、いづれ「 神 」になると思います。

もっとも「 神 」はエネルギーなのですが………

  最後に

< 最後に>

ここまで書いて来まして、未だ検討すべきものが一つ見つかりました。

それは、般若心経の最後の「 即説呪曰 」以降の文章です。

これもまた、今までのように、私の独自な解釈でして、仏典の詳しい解説をお求めの方は、ほかのブログなり動画なり、あるいは図書館の蔵書をこ参照ください。

さて、これ以降の漢字をここに記載するのは、PCのスペックの関係もあり、不可能ですので、手元にあります「 心経 」の「 奉讃文 」の「 かな文字 」を書きますから、詳しくは先ほどのようにご参照ください。

「 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか 」

という文章です。

この文章は「 真言 」というものらしく、その意味は、また上記のようにご参照して頂くのですが、私の考えでは、この「 真言 」を唱える意味は、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」あるいは、「 アーメン 」などの発音と同様に考えているもので、私の身体や宇宙の物質が「 超弦理論 」でいうように、「 ひも状の素粒子 」であるならば、「 弦の共鳴 」を通して宇宙に迫ることを可能にすると思いますなら、「 唱える 」という行為は評価できると思います。

この「 真言 」の意味は無価値らしいですが、「 此岸 」に対する「 彼岸 」ですから、此岸(現生)にいながら彼岸(あの世)にいるものを賛美する文章のように、私には、思われまして、「 死んだつもりで行為しろ、生死を超えて生きろというもので、ふざけたことを言うもんだ 」 ぐらいにしか思われませんが、もし、この言葉が、「 すでに悟った人 」に向けられたらどうでしょう?

「 悟ること 」は「 あの世のこと 」でありますなら、悟った死後のあの世で「 どう生きるのか 」を考えての行為ですから、私にとっては、死後はエネルギーになりますから、「 生前に死後に行うエネルギーとしての行為をしなさい 」ということで、他の生物の命に成って他の生物を助け合う行為であるなら、「 因果の法則 」とは違って、死後のエネルギーの為す行為を、現世に引き戻して行為することにより、その連続性が保たれますから、やはり以前のように、生前に「 慈悲 」の行為をすべきことになってしまいます。

私の解釈では、「 我田引水 」ではありますが、その行為をする人が、所謂、「 即身成仏 」や「 生きぼとけ 」であり、その行為を続けなさいというのが、「 真言 」の意味するところとなります。

私に可能な「 慈悲 」といいますなら、年金生活の中で、財政の援助は到底、不可能でして、こうして私の考えを拙いまでも、慈悲を目覚めさせる「 菩提心 」を起こすことぐらいです。

それは、「 空なる我 」から「 自我 」を反省して、「 自分は他の生物と同様に、エネルギーのひとつの現象であり 」、同じ構造の生物を動かすエネルギーに理解を示し、その人の目線から見ての「 色即是空 空即是色 」を考えて、絶望の中から「 希望 」を持たせることであり、それを、財政豊かな人々は「 心 」だけでなく、生活に「 楽 」を与えることもできますから、政治家をはじめ財界人や天皇に「 慈悲 」の行為をして欲しいと願うだけなのです。

私はあと数か月で70歳となり、乏しい生活のため「 医療費の自己負担が二割 」の「 弱者 」になるようです。

以前にも書きましたが「 一切皆空 」は「 一切皆苦 」と同じであり、生きている限り「 苦 」はつき纏い、なにがしかの「 苦 」に包まれながら「 死 」を迎えるのであり、その「 苦 」の金銭的な悩みを少なくして頂く政府に感謝しながら、生きなくてはならないのかなあ?と思います。

「 自殺 」で、この世の「 苦 」から抜け出しても、行先の「 浄土 」は「 この世 」であり、しかも人間として生まれる保障はないのですから、今の「 苦 」残したまま「 死 」を迎えることになりますが、その「 苦 」を再び背負うことになる人生に生まれ変わるかもしれず、自分が置き去りにした「 自分の遺恨 」を「 他人の苦 」によって清算してもらわないと「 成仏 」できない、不完全なエネルギーになってしまうかも知れませんので、できるだけ「 怨念 」を残さぬ人生を送りたいと思っています。

エネルギーとして死後に行う行為を生前に行為すると考えますと、主君の遺恨を晴らすための赤穂浪士の討ち入りも、「 義士 」と呼ばれる価値があるかも知れません。

その意味で、江戸時代の「 赤穂事件 」の大石内蔵助の辞世の句に魅かれるのかも知れません。


「 あら楽し おもひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」

( ↑ 主君の墓に刻まれたもの )

「 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 」

                                             (大石内蔵助)

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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