空なる我  下巻

私に可能な「 慈悲 」といいますなら、年金生活の中で、財政の援助は到底、不可能でして、こうして私の考えを拙いまでも、慈悲を目覚めさせる「 菩提心 」を起こすことぐらいです。

それは、「 空なる我 」から「 自我 」を反省して、「 自分は他の生物と同様に、エネルギーのひとつの現象であり 」、同じ構造の生物を動かすエネルギーに理解を示し、その人の目線から見ての「 色即是空 空即是色 」を考えて、絶望の中から「 希望 」を持たせることであり、それを、財政豊かな人々は「 心 」だけでなく、生活に「 楽 」を与えることもできますから、政治家をはじめ財界人や天皇に「 慈悲 」の行為をして欲しいと願うだけなのです。

私はあと数か月で70歳となり、乏しい生活のため「 医療費の自己負担が二割 」の「 弱者 」になるようです。

以前にも書きましたが「 一切皆空 」は「 一切皆苦 」と同じであり、生きている限り「 苦 」はつき纏い、なにがしかの「 苦 」に包まれながら「 死 」を迎えるのであり、その「 苦 」の金銭的な悩みを少なくして頂く政府に感謝しながら、生きなくてはならないのかなあ?と思います。

「 自殺 」で、この世の「 苦 」から抜け出しても、行先の「 浄土 」は「 この世 」であり、しかも人間として生まれる保障はないのですから、今の「 苦 」残したまま「 死 」を迎えることになりますが、その「 苦 」を再び背負うことになる人生に生まれ変わるかもしれず、自分が置き去りにした「 自分の遺恨 」を「 他人の苦 」によって清算してもらわないと「 成仏 」できない、不完全なエネルギーになってしまうかも知れませんので、できるだけ「 怨念 」を残さぬ人生を送りたいと思っています。

エネルギーとして死後に行う行為を生前に行為すると考えますと、主君の遺恨を晴らすための赤穂浪士の討ち入りも、「 義士 」と呼ばれる価値があるかも知れません。

その意味で、江戸時代の「 赤穂事件 」の大石内蔵助の辞世の句に魅かれるのかも知れません。


「 あら楽し おもひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」

( ↑ 主君の墓に刻まれたもの )

「 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 」

                                             (大石内蔵助)

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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