空なる我  下巻

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。



<習合とは?>

最近、思うのですが、仏は苦楽の世界で、神は生死の世界で、教義を集合させたといっても、その機能する世界(次元)が違いますから、神仏習合というより、浄土真宗は「 不可思議光 」と「 無量寿仏 」という形で教義にしているので、浄土真宗自体が仏教といいながらも、既に「 神 」を含んでいて、もしそこの事情が他宗もそうなら、仏教そのものが神仏習合で、その二つは分離できないと思います。

 「 習合 」という言葉の意味は、幾つかの教義を折衷したものとの事です。

教義は宗教などの教えや主張であり、折衷は、そんな教義を繋ぎ合わせて妥協させることでしょうし、主義や主張が一貫しないことを「 習合 」と呼ぶのでしょう。

「 空なる我 」の中の「 神 」と「 仏 」は、「 その1 」で書きましたし、「 神仏習合と私 」という電子書籍のなかで歴史的な神仏習合について触れています。

私の場合は、「 神 」という主張と「 仏 」という主張が、「 空 」を通して「 仏 」に活力を与えるように折衷していることになります。

それは、私の死後を弔う約束の宗派の考えを参考にしますなら、「 一切皆空 」に従って「 空 」を「 エネルギー 」と捉えて、宇宙(自然)エネルギーが「 神 」で生命エネルギーが「 仏 」であり、それらは「 阿弥陀仏 」のもとに、前者が「 不可思議光 」、後者が「 無量寿如来 」として一体になっている状態であると思います。

それが、眼に見える「 現象 」としては、生命エネルギー(仏)は生命維持のために、「 呼吸 」という「 現象 」で、生命エネルギーの中には存在しない宇宙(自然)エネルギー(神)である空気(kuuki)を取り入れなければならず、それが肺の中で、体内を循環する血液を浄化し、浄化し終えた空気を排出しなければならないという点で、上記のことを説明できると思います。


これらは、(A)私に害を加えるものでなく、私の考えの都合が良いように「 神仏 」を取り入れたもので、「 空なる我 」に於いては、「 色即是空 空即是色 」に従って、眼に見える「 現象 」としては、宇宙(自然)エネルギーの「 神 」は「 無常 」として現れ、生命エネルギーの「 仏 」は、お釈迦様のような人格保持を目的とし、「 慈悲 」を為すことに現れると思います。


私が「 即身成仏 」となった高僧だと感じますのは、厳しい修行でミイラ状態になった人ではなく、「 空 」を悟ったら直ちに「 慈愛 」をもって「 無常 」の中に生きる希望を与える人です。


それに対して、(B)私に害となる「 神仏 」は「 空なる我 」の妨げになるエネルギーであり、「 神 」としてのエネルギーは、天災のように「 無情 」と思われる「 現象 」として現れ、「 仏 」としてのエネルギーは、円満な人格形成を妨げる「 煩悩 」という「 現象 」になって現れ、エネルギーの推移によって、(A)と(B)が繰り返す連続が、私の人生であると思います。

私は、水がHOという結びつきをして、或る時は液体になり、また或る時は気体になり、また或る時は固体になるなど、「 現象 」は変わって、「 浄土 」たる地球を循環することを望んでいまして、その水を地球の大気圏外に放出されるのを嫌っていますので、「 悟って 」純粋な物理エネルギーになって地球の循環からはずれることを望みません。

ですから、お釈迦様をはじめとするブッダが恐れる「 無明 」に引き戻されることにも厭いはないので、「 神仏習合 」で主義、主張が一貫しない、中途半端な「 空なる我 」を守り、水は光とは違うので、水が光の構造になることを望むのではなく、水は水として、人の飲食に役立つように、濁らず、危険な物質を含むことなく、清らかな流れの中に包摂されたままで死を迎えようと思います。

私の思い

<従来の仏教とは違うと思うところ>

以上、書いて来ましたら、日本の従来の宗派と同じように思われてしまいますので、69歳、これから避ける事が出来ない「 死 」への進路を進むにあたって、心がけたい事を書くことによって、私の孤立妄想である考えの進展を披露したいと思います。

私は、「 一切皆空 」と般若心経の「 空 」を「 エネルギー 」と考えて、神仏習合を計り、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて中心となし、「 自我 」は神仏エネルギーのひとつの「 現象 」であり、それは、自然現象と同じようにエネルギーの推移により絶えず変化するものであると考えました。

この私が使います「 現象 」という言葉は、この言葉自体がそれですが、五感で知れないエネルギーが五感で認識できる「 モノ 」になったこと、五感で知れる事象となったことを意味していまして、「 仮の姿 」とか「 仮定された事象 」など、「 本質 」に対する言葉ではなくて、「 本質 」である「 エネルギー 」が認識可能な姿形をしたもの、「 現象 」そのものが「 エネルギーという本質 」であって、「 エネルギーである本質 」は「 現象 」として認識可能になることでしか、人間に知らしめる事が出来ないものだと考えています(空即是色){ E=MC² }。

「 浄土 」ですが、それは一部を除いた従来仏教とは違い、例えば宇治の平等院などに示される、実際に認識不能な場所、あるいは遠いかなたにあって死後しか分からないといった、現実に認識可能と考える場所や世界を包摂し、その認識器官という「 現象 」を創り出す以前で、全く認識不能な世界が、「 浄土 」という全生命を司る「 阿弥陀仏 」のおわす世界であって、それが西方数千里にあるのか死後のあるなどという考えの及ばぬ世界であるが、それは、実際に「 存在 」するというのが私の考えです。

そこは何処か?と問われれば、全生物の認識する力を産み出す世界で、全ての世界観を受容し否定する地球という「 自然 」であることになります。

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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