空なる我  下巻

***「 空(エネルギー) 」を考えるとは、DNAにより、個性ある「 五蘊 」がまだ「 空(エネルギー)」の段階で発生する前で、「 空(エネルギー)」が「 現象 」となった「 五感 」も発生していない段階を知ることであり、「 現象 」となった人間に生まれた限りは、その「 現象 」に始めと終わりの「 生死 」があり、生まれたからには、「 無明 」は「 尽きることはない 」つまり、生きている限り「 無明 」は永遠に続くから、人生は「 一切皆苦 」であり、「 悟ること 」も無いと知ることだと思います。

 

当時は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }という内実は既に知っていたが、それを「 空 」と表現したのであり、それ以降の僧侶は「 空 」という言葉の解釈をするだけで、「 空 」の意味も知らず、さまざまな「 空 」の解釈がされて来て、私たち素人から見たら、言葉遊びにしか見えなくなったのだと思います。

この「 空 」が「 五蘊 」では説明不能の「(神仏)エネルギー」であることを直ちに知って、同じ構造の生き物に対して、苦を抜いて楽を与えるという「 慈悲 」の行為を、直ちにすべきなのに、出来もしない「 悟る 」事に向かって、ヨーガや座禅の場所などを営業している僧侶を見ると、この人たちは、人を救う大乗仏教を説くと言いながら、仏教の教えと反対向きの行為をしているのではないかと、私は思います。

この般若心経は、日本の津々浦々まで広がっているため、人と人は平等であり、人は何かをするときに、列を作って順番を待つのだと思います。

東日本大震災での東北の人たちの行為は、昔からの良き風習が残っていたため、「 人の道 」からはずれた行為をする人は少なかったのですが、この仏教の教えをする僧侶もなく、一般の人たちは世界と同じ感覚になっていますから、今度、災害が起こったら、世界と同様な強奪や泥棒など、人を踏みにじる行為をする人が増えるかも知れません。

世界の預言者たちは、今年の6月から10月にかけて「 南海トラフ地震 」が起きたり「 富士山 」が噴火したりして、日本の産業に壊滅的な被害を与えて、日本が世界の最貧国になると予言しています。

ペルーなどの南米で大きな地震があると、その3から4か月後には、日本に大地震が起きるというデーターもあり、その予言と一致していますので、地震の蓋然性は高いと思います。

私たち日本人は、揺れ動く地表の境目に位置の土地に住んでいて、これらの大地震を何度も経験して来ました。

これまでは、古来から続く「 助け合い 」が日本にありましたが、現代の日本には、到底それを期待することは出来ません。

ですから、この般若心経から、全ての人間は自分と同じ構造をした「 エネルギーのひとつの現象である 」ことを知り、これによる「 慈悲 」を生む心を育てながら、「 南海トラフ地震 」を乗り越える必要があると思います。

また、その「 心 」があれば、自然に「 差別 」や「 いじめ 」などはなくなり、自分が「 空なる我 」であることを自覚するなら、「 自殺 」も救えるのではないでしょうか。

それを、全国の宗派を超えた僧侶や学校の先生の指導に期待するのは無理かも知れませんが………

<因果の法則も「 空 」の現象>

私は、「 一切皆空 」と「 色即是空 空即是色 」から、「 空 」を「 エネルギー 」と考え、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合が「 空なる我 」としまして、神も仏も私も自然物も同様の「 エネルギーの現象 」と捉えて、「 エネルギー(神)のもとでは、全てが平等である 」と考えました。

そこから、「 慈愛 」の思いが湧いてくると思うのですが、お釈迦様もその後の仏教徒も「 因果の法則 」は絶対で、それによって「 善因善果 、悪因悪果 」が生じ、生前の善因や悪果が死後にも影響を及ぼして、「 六道輪廻 」を繰り返すという主張には、どうしても納得出来ませんで、ここに私論を書くのです。

私は、「 一切皆空 」であれば、「 因果の法則 」も「 空 」であり、エネルギーの推移だと考えまして、お釈迦様の考えの「 因果の法則 」も「 縁起縁滅 」も思考上の産物、つまりお釈迦様の「 自我 」の内容であると思いまして、般若心経の「 一切顛倒 」に従いまして「 人が作ったものに頼らず涅槃に着こう 」と思いますなら、この「 自我 」に頼らないで考えたいと思います。

<因果の法則に従う「 浄土 」や六道輪廻の否定>

日本の仏教の一つである「 浄土真宗 」については、前述しましたように、私の「 空なる我 」と似たような考えで、「 空なる我 」が発生する根本を「 阿弥陀仏 」としているようですが、「 生命エネルギー 」と思われる無量寿如来が、因果の法則に結びつけられているのであれば、反対します。

「 因果の法則 」は仏教の基本概念で、E=MC²や「 エネルギー保存の法則 」と同じであるかも知れませんが、前者は、「 現象 」の後追いであって、「 現象 」には終わりのない「 原因 」や「 結果 」が続き、それが因果は絶対と考えることだろうが、それは例えば車が目的地に到着した後で解る速度(エネルギー)で、因果が行き着く所が不明であるため未来は不明であるのに対し、後者は、「 現象 」が生滅する過程を述べるもので、途中で車の速度(エネルギー)が解るが、「 空即是色 」のため、「 現象 」に現れた時点でエネルギーが解るので、結果が予想が出来るので死後の世界を予想するとき、前者ではなく後者によるべきだと思います。

生命エネルギーの根幹におわす「 阿弥陀仏 」の世界が「 浄土 」で、それが全ての生物が持つ世界を包摂するもの、つまり生物を産む世界で、生まれた生物には想像も出来ない所が「 地球 」という「 自然 」だとしたら、「 阿弥陀仏 」がおわす地球上のエネルギーの世界では、般若心経にいう「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」で自分の行為のエネルギーが「 悪果 」になろうが「 善果 」になろうが残り、生命エネルギーの根幹である「 阿弥陀仏 」を「 喪失させて悲しませるエネルギー 」になってか「 増幅させて喜ばせるエネルギー 」になるかで残ると思います。

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。



<習合とは?>

最近、思うのですが、仏は苦楽の世界で、神は生死の世界で、教義を集合させたといっても、その機能する世界(次元)が違いますから、神仏習合というより、浄土真宗は「 不可思議光 」と「 無量寿仏 」という形で教義にしているので、浄土真宗自体が仏教といいながらも、既に「 神 」を含んでいて、もしそこの事情が他宗もそうなら、仏教そのものが神仏習合で、その二つは分離できないと思います。

 「 習合 」という言葉の意味は、幾つかの教義を折衷したものとの事です。

教義は宗教などの教えや主張であり、折衷は、そんな教義を繋ぎ合わせて妥協させることでしょうし、主義や主張が一貫しないことを「 習合 」と呼ぶのでしょう。

「 空なる我 」の中の「 神 」と「 仏 」は、「 その1 」で書きましたし、「 神仏習合と私 」という電子書籍のなかで歴史的な神仏習合について触れています。

私の場合は、「 神 」という主張と「 仏 」という主張が、「 空 」を通して「 仏 」に活力を与えるように折衷していることになります。

それは、私の死後を弔う約束の宗派の考えを参考にしますなら、「 一切皆空 」に従って「 空 」を「 エネルギー 」と捉えて、宇宙(自然)エネルギーが「 神 」で生命エネルギーが「 仏 」であり、それらは「 阿弥陀仏 」のもとに、前者が「 不可思議光 」、後者が「 無量寿如来 」として一体になっている状態であると思います。

それが、眼に見える「 現象 」としては、生命エネルギー(仏)は生命維持のために、「 呼吸 」という「 現象 」で、生命エネルギーの中には存在しない宇宙(自然)エネルギー(神)である空気(kuuki)を取り入れなければならず、それが肺の中で、体内を循環する血液を浄化し、浄化し終えた空気を排出しなければならないという点で、上記のことを説明できると思います。


これらは、(A)私に害を加えるものでなく、私の考えの都合が良いように「 神仏 」を取り入れたもので、「 空なる我 」に於いては、「 色即是空 空即是色 」に従って、眼に見える「 現象 」としては、宇宙(自然)エネルギーの「 神 」は「 無常 」として現れ、生命エネルギーの「 仏 」は、お釈迦様のような人格保持を目的とし、「 慈悲 」を為すことに現れると思います。


私が「 即身成仏 」となった高僧だと感じますのは、厳しい修行でミイラ状態になった人ではなく、「 空 」を悟ったら直ちに「 慈愛 」をもって「 無常 」の中に生きる希望を与える人です。


それに対して、(B)私に害となる「 神仏 」は「 空なる我 」の妨げになるエネルギーであり、「 神 」としてのエネルギーは、天災のように「 無情 」と思われる「 現象 」として現れ、「 仏 」としてのエネルギーは、円満な人格形成を妨げる「 煩悩 」という「 現象 」になって現れ、エネルギーの推移によって、(A)と(B)が繰り返す連続が、私の人生であると思います。

私は、水がHOという結びつきをして、或る時は液体になり、また或る時は気体になり、また或る時は固体になるなど、「 現象 」は変わって、「 浄土 」たる地球を循環することを望んでいまして、その水を地球の大気圏外に放出されるのを嫌っていますので、「 悟って 」純粋な物理エネルギーになって地球の循環からはずれることを望みません。

ですから、お釈迦様をはじめとするブッダが恐れる「 無明 」に引き戻されることにも厭いはないので、「 神仏習合 」で主義、主張が一貫しない、中途半端な「 空なる我 」を守り、水は光とは違うので、水が光の構造になることを望むのではなく、水は水として、人の飲食に役立つように、濁らず、危険な物質を含むことなく、清らかな流れの中に包摂されたままで死を迎えようと思います。

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
0
  • 0円
  • ダウンロード

30 / 38

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント