空なる我  下巻

〈1〉「 空なる我 」になることは、人間ですからエネルギーそのものになることは出来ません。

***「 空(エネルギー) 」を考えるとは、DNAにより、個性ある「 五蘊 」がまだ「 空(エネルギー)」の段階で発生する前で、「 空(エネルギー)」が「 現象 」となった「 五感 」も発生していない段階を知ることであり、「 現象 」となった人間に生まれた限りは、その「 現象 」に始めと終わりの「 生死 」があり、生まれたからには、「 無明 」は「 尽きることはない 」つまり、生きている限り「 無明 」は永遠に続くから、人生は「 一切皆苦 」であり、「 悟ること 」も無いと知ることだと思います。


呼吸を止めたり、眠らなかったり、食べなかったりと「 煩悩 」の中で生きなくては生存することは出来ず、自然エネルギーを取り込んで助けて頂きながら、生きるのですが、そのエネルギーが現実に現れた姿形が「 自我という現象 」であると思いますから、その「 現象 」のなかにエネルギーをどんな形に現す「 自我 」になるのかを考えます。

逆に言えば、私の記事や日々の行動などが、(神仏)エネルギーの現れで、私が何を言おうが、事実が私の「 自我 」であると思います。


その中で「 空なる我 」を生きる事ですが、前回の「 浄土真宗 」の話で触れたのですが、「 空 」である「 阿弥陀仏 」の「 引かれる方向へ何も考えずに従う 」のが、「 空なる我 」を生きる現象になることで、天体が持っている「 引力 」のようにその力が「 空なる我 」ですから、「 空 」である「 阿弥陀仏 」という生命の根幹の力(エネルギー)に従う事が、「 生命エネルギーの現象 」であると思います。

ただ、これは、浄土真宗の特権なんかではなく、各自が魅力を感じ、「 引力 」を感じる宗教であれば、各自にとっては同じ事情であるし、どんな宗教を選ぶのかは自由で、その宗教が信奉するエネルギーが自分の引力と合致するなら、それが、あなたの「 空なる我 」を生きる事で「 生命エネルギーの現象 」であると思います。

ちょうど、結婚する時に相手の持つ「 魅力 」に魅かれて結婚して、子供という新たなエネルギーを頂くように、相手の(神仏)エネルギーと合一するのが「 生命エネルギーの現象 」であるかも知れません。

ただ、最近は「 子の親殺し 」や「 親の子殺し 」など、神仏から頂いたエネルギーの現象を、ちょうど「 自殺 」を肯定するように、さも、「 自分が創った作品 」のように扱う人が増えて来ました。

新たなエネルギーを頂く前に、「 空なる我 」が魅かれる「 相手 」との結合が間違っていた場合に悲惨な結果になるのは、東日本大震災の原子炉を設置した時の被害のようになることも同じで、何も結婚相手の選択と、社会政策の選択などとの違いはないと思います。

「 一切皆空 」で、人間の手で「 空 」である「 エネルギー 」を生滅させることは出来ませんから。

ですから、本当に「 空なる我 」が「(神仏)エネルギー 」と合体する選択を求めれているのは、私の「 空なる我 」による生き方を問う事に限った事ではなく、エネルギーの「 現象 」そのものを、どのように扱うのか、あなたにも問われているように思われます。


<最近思うのですが、仏は苦楽の世界で、神は生死の世界で、教義を集合させたちいっても、その機能する世界(次元)が違いますから、神と仏は習合というより、浄土真宗は不可思議光と無量寿仏という形で教義にしているので、浄土真宗自体が仏教といいながらも既に神を含んでいて、他宗もそうなら、仏教そのものが神仏習合でその二つは分離できないと思います>

***「 空(エネルギー) 」を考えるとは、DNAにより、個性ある「 五蘊 」がまだ「 空(エネルギー)」の段階で発生する前で、「 空(エネルギー)」が「 現象 」となった「 五感 」も発生していない段階を知ることであり、「 現象 」となった人間に生まれた限りは、その「 現象 」に始めと終わりの「 生死 」があり、生まれたからには、「 無明 」は「 尽きることはない 」つまり、生きている限り「 無明 」は永遠に続くから、人生は「 一切皆苦 」であり、「 悟ること 」も無いと知ることだと思います。

 

当時は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }という内実は既に知っていたが、それを「 空 」と表現したのであり、それ以降の僧侶は「 空 」という言葉の解釈をするだけで、「 空 」の意味も知らず、さまざまな「 空 」の解釈がされて来て、私たち素人から見たら、言葉遊びにしか見えなくなったのだと思います。

この「 空 」が「 五蘊 」では説明不能の「(神仏)エネルギー」であることを直ちに知って、同じ構造の生き物に対して、苦を抜いて楽を与えるという「 慈悲 」の行為を、直ちにすべきなのに、出来もしない「 悟る 」事に向かって、ヨーガや座禅の場所などを営業している僧侶を見ると、この人たちは、人を救う大乗仏教を説くと言いながら、仏教の教えと反対向きの行為をしているのではないかと、私は思います。

この般若心経は、日本の津々浦々まで広がっているため、人と人は平等であり、人は何かをするときに、列を作って順番を待つのだと思います。

東日本大震災での東北の人たちの行為は、昔からの良き風習が残っていたため、「 人の道 」からはずれた行為をする人は少なかったのですが、この仏教の教えをする僧侶もなく、一般の人たちは世界と同じ感覚になっていますから、今度、災害が起こったら、世界と同様な強奪や泥棒など、人を踏みにじる行為をする人が増えるかも知れません。

世界の預言者たちは、今年の6月から10月にかけて「 南海トラフ地震 」が起きたり「 富士山 」が噴火したりして、日本の産業に壊滅的な被害を与えて、日本が世界の最貧国になると予言しています。

ペルーなどの南米で大きな地震があると、その3から4か月後には、日本に大地震が起きるというデーターもあり、その予言と一致していますので、地震の蓋然性は高いと思います。

私たち日本人は、揺れ動く地表の境目に位置の土地に住んでいて、これらの大地震を何度も経験して来ました。

これまでは、古来から続く「 助け合い 」が日本にありましたが、現代の日本には、到底それを期待することは出来ません。

ですから、この般若心経から、全ての人間は自分と同じ構造をした「 エネルギーのひとつの現象である 」ことを知り、これによる「 慈悲 」を生む心を育てながら、「 南海トラフ地震 」を乗り越える必要があると思います。

また、その「 心 」があれば、自然に「 差別 」や「 いじめ 」などはなくなり、自分が「 空なる我 」であることを自覚するなら、「 自殺 」も救えるのではないでしょうか。

それを、全国の宗派を超えた僧侶や学校の先生の指導に期待するのは無理かも知れませんが………

<因果の法則も「 空 」の現象>

私は、「 一切皆空 」と「 色即是空 空即是色 」から、「 空 」を「 エネルギー 」と考え、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合が「 空なる我 」としまして、神も仏も私も自然物も同様の「 エネルギーの現象 」と捉えて、「 エネルギー(神)のもとでは、全てが平等である 」と考えました。

そこから、「 慈愛 」の思いが湧いてくると思うのですが、お釈迦様もその後の仏教徒も「 因果の法則 」は絶対で、それによって「 善因善果 、悪因悪果 」が生じ、生前の善因や悪果が死後にも影響を及ぼして、「 六道輪廻 」を繰り返すという主張には、どうしても納得出来ませんで、ここに私論を書くのです。

私は、「 一切皆空 」であれば、「 因果の法則 」も「 空 」であり、エネルギーの推移だと考えまして、お釈迦様の考えの「 因果の法則 」も「 縁起縁滅 」も思考上の産物、つまりお釈迦様の「 自我 」の内容であると思いまして、般若心経の「 一切顛倒 」に従いまして「 人が作ったものに頼らず涅槃に着こう 」と思いますなら、この「 自我 」に頼らないで考えたいと思います。

<因果の法則に従う「 浄土 」や六道輪廻の否定>

日本の仏教の一つである「 浄土真宗 」については、前述しましたように、私の「 空なる我 」と似たような考えで、「 空なる我 」が発生する根本を「 阿弥陀仏 」としているようですが、「 生命エネルギー 」と思われる無量寿如来が、因果の法則に結びつけられているのであれば、反対します。

「 因果の法則 」は仏教の基本概念で、E=MC²や「 エネルギー保存の法則 」と同じであるかも知れませんが、前者は、「 現象 」の後追いであって、「 現象 」には終わりのない「 原因 」や「 結果 」が続き、それが因果は絶対と考えることだろうが、それは例えば車が目的地に到着した後で解る速度(エネルギー)で、因果が行き着く所が不明であるため未来は不明であるのに対し、後者は、「 現象 」が生滅する過程を述べるもので、途中で車の速度(エネルギー)が解るが、「 空即是色 」のため、「 現象 」に現れた時点でエネルギーが解るので、結果が予想が出来るので死後の世界を予想するとき、前者ではなく後者によるべきだと思います。

生命エネルギーの根幹におわす「 阿弥陀仏 」の世界が「 浄土 」で、それが全ての生物が持つ世界を包摂するもの、つまり生物を産む世界で、生まれた生物には想像も出来ない所が「 地球 」という「 自然 」だとしたら、「 阿弥陀仏 」がおわす地球上のエネルギーの世界では、般若心経にいう「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」で自分の行為のエネルギーが「 悪果 」になろうが「 善果 」になろうが残り、生命エネルギーの根幹である「 阿弥陀仏 」を「 喪失させて悲しませるエネルギー 」になってか「 増幅させて喜ばせるエネルギー 」になるかで残ると思います。

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。



kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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