空なる我  下巻

    「 現象 」とは

私の場合、「 空 」は「 エネルギー 」ですが、「 色 」を物質と決めてしまわずに、「 現象 」という言葉を使っています。

エネルギーは物体の内部と外部に絶えず「 流れていて 」、外部の条件(縁)次第で同じ素粒子でありながら違った「 形 」になり(例えば、水のように、構成する水素と酸素は同一のまま、氷水蒸気水と形を変えるように)その安定した「 形 」になった時、「 現象 」と呼ばれ、エネルギーの推移によって、「 万物は流転する 」し「 諸物無常 」であり、「 空 」は「 空っぽ 」ではなく、エネルギーが充満していても、常に一定の固定した物質(現象)がなく、エネルギーの推移が形から形の違いで判るから、それを見る私には「 物質変化 」として見ているのだろうと思います。

エネルギーを枠という境界で区切ることが出来ないというのが、「 色即是空 空即是色 」であり、枠が国家や社会や自我というような概念であれば、その枠では捉えられないのが「 我 」であり、それは「 空なる我 」であるからということになります。

「 空 」はエネルギーであるから、エネルギー(空)が現象になっても、「 空 」は新たに生じたり滅したりすることはないし、エネルギーは「 垢つかず浄からず 」、「 増さず減らしたりすることはない 」(=これは、エネルギーは形を変えても消滅しないというエネルギー保存の法則に一致する)と般若心経に書いてあります。

    「 霊体(魂) 」は「 空 」ではなく「 自我 」である

前回の私の持論である「 意識は電磁波の構造を持つ 」では、母親の胎内に宿ることによって、宇宙(自然)エネルギー( ki)と生命エネルギー(気 ki)が区別できない状態で生命エネルギーのDNAに従って身体という「 霊体 」生命エネルギーの現象である「 霊体 」を作りあげ、同じく空間意識や直感を担当する右脳、時間意識や論理、言葉などを担当する左脳を作り(これらは、皆、生命エネルギーの現象)、様々な意識を派生させて、外部で経験した「 印象 」を、論理的に合理的に因果の関係という物語として、海馬に保管して無意識の能力という無意識(これまでの経過はすべて生命エネルギーの現象)にして蓄えて、次の場面に出逢った時の対処法とすると考えています。

しかし、それは、ひとつの現象であって、存在としてはその現象となった「 自我 」を否定して「 空なる我 」に戻るべきであると思っています。

死んで「 中有 」とかいう「 魂 」があって、因果に支配された魂が他の生命体に宿るのではなく、「 阿弥陀仏 」という自然界のフィルターを通して生命体が宿ると考えまして、因果の法則に従って生前の因果が子孫に現れるこは、拒否します。

般若心経で「 五蘊皆空 」というのを、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)の現象である」と考え、「 五蘊 」を生み出すのは「 空(エネルギー) 」であるから、「 空(エネルギー) 」を現象である「 五蘊 」では規定することは出来ないし、「 五蘊 」は「 空(エネルギー) 」からの「 現象 」であるから、それを区別したり限界を考える必要は無くて、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だと知れば、「 空(エネルギー)」である以上は、「 枠 」を作って閉じ込めることは出来ないくらい宇宙に広がるだろうから「 限界 」を考える」必要はないし、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」の現象であるという「 知 」以上得るものは何もない。


「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だということは、「 空(エネルギー)」の現象が「 五蘊 」ということであり、「 老死がある 」とか「 無明をなくそう 」といって特別になくそうとしても、「 五蘊 」を持って「 空(エネルギー)のひとつの現象 」として生きる以上は、「 苦 」や「 無明 」や「 老死 」は尽きることなく、ついて回るし、「 空(エネルギー)」がある限り、「 死んだら、生まれる 」という「 現象 」は、ついて回るものだと思えば、それらを恐怖することもなく、ひとが作った「 顛倒した夢想 」から離れて、悟りの世界である「 涅槃 」をもとめなさいということで、因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべきだと思います。

それはお釈迦様が説く「 縁起縁滅 」に背離しないかが問題で、私は、因果を拒みますので、仏教とは違った「 外道(Gedou)」の考えだろうと思います。

しかし、以下に書きます理由からしても、因果を拒みますので、私は「 救いがたい外道 」といわれても仕方ありません。

    「 空 」はエネルギーと考えると、お釈迦様への否定か?については、第一章で書きました。

   「 真言 」や「 念仏 」の重要性

尚、般若心経の最後に書かれてある「 真言 」のことですが、動画では「 空を知るための呪文 」で「 それに導かれて空を知る 」ことらしいのですが、もう最近とは申せなくなったかも知れませんが、「 超弦理論 」というものがあって、物質を構成するものがひとつぶの粒子というより、微細な「 ひも状の素粒子 」であるとするのが理論上では妥当であると、仮に考えますと、「 弦 」である以上は「 音楽 」に共鳴するでしょうし、「 はじめに言葉ありき 」という有名な言葉がありますが、この真言と呼ばれる呪文の「 音の響き 」こそ宇宙から私たちの身体の隅々まで浸透することが出来て、宇宙で呼応するものかも知れないと思っています。

般若心経の解釈その2

( Ⅱ ) 「 空なる我 」般若心経の解釈その2」

     <因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべき>

「因果の法則は慈悲への道」
私が書きました『「 空なる我 」般若心経の解釈その1』から考えることを書きます。

前回のように解釈すれば、お釈迦様の「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」から離れることになって、お釈迦様の悟りに近づこうとする仏教からは見ると、方向を間違えた考え(外道)のように思われるでしょう。

「 一切皆空 」とか「 般若心経 」しか知らない素人の私ですから、上記の解釈は間違っているのだろうと思います。Web で見ますと、私の考えは中観派に近いと思われ、その中観派以降に出た、唯識の考えのほうが、唯心論である仏教、つまりお釈迦様の考えに従っているので、その方向で考えるべきだと言われるでしょう。

しかし、これまで仏教の教育を受けていない私は、あえてその方向とは違った方向に進路を向けることによって、無学なりにPCの力を借りて、お釈迦様の境地をうかがう事を、ひとつの試みとして書いています。

私の考えでは、お釈迦様は「 因果 」の流れを重視して「 苦 」の発生から消滅までの過程とその実践の方向をお示しになっていて、自分の「 業 」が死後の方向を決めるから、「 善行 」を積んで「 善因善果 悪因悪果 」や「 自業自得 」などという人間が生きている内に為すべきことをしなさいという考えがあるのではないかと思います。

その「 因果 」を考えて死後の輪廻転生を考えておられたのかも知れません。

そのことは、世界中で賞賛され、お釈迦様の死後、大陸方向では唯識を中心とした「 北伝仏教 」、南方の「 南伝仏教 」に広がったのだと思いますが、その頃に「 般若心経 」が編纂されたので、お釈迦様の悟りへの道とは違うのかも知れません。

ですが、お釈迦様はお悟りになって輪廻転生から抜け出るために仏教を説かれたと思うのですが、私が僧侶ならば、その悟りを得た後の行為は、悟った内容を社会に還元するのが、布施を施す民衆の苦しみを抜いて楽にしてあげること、即ち「 慈悲 」の実践につながるべき行為をすることが、その役目だと思います。

 

    <「 慈悲 」をよりよく実行できるため>

一般大衆に「 慈悲の行為 」を求めるためには、大衆を「 慈悲を施す心構え 」、「 内容が慈悲に溢れた自我 」にしなければ、到底、「 慈悲 」など行うことは出来ないと思います。

お釈迦様の悟りに近づく事も大事ですが、悟った後の行為を実施してこそ、ブッダと言えるのではないでしょうか?

私は、お釈迦様の「 悟り 」へ近づくのは唯識だとしても、「 慈悲の心を抱かせる 」のは、龍樹の言う「 空 」から出発した方が早く、悟った人も、その後に、この「 空 」を体得された方が僧侶の道であると思います。


そういうならば、「 空 」を理解して「 慈悲 」の心が湧いてくるのかが問題で、私は、この事の解明を目指しているのです。

私は仏教の教えを学んでいないので、これから仏教典を読んで理解するなど、私の人生には時間が残されていないので、乏しい仏教の考えとPCに力を借りて、これから私の考えを書きます。

 


私の考え

「 一切皆空 」ですから、この世は「 空 」であることになり、神も仏もあなたも私も、この文章でさえ「 空 」であることになります。

この「 空 」を「 空っぽ 」とか「 無 」とか「 実体がない 」などと考えてしまうと、虚無主義や幻想世界などという、私の考える「 空 」からの帰結とは全く違った帰結になり、私は、到底、これと方向を同じくすることは出来ません。


私は「 空 」は「 エネルギー 」であるとしましたから、上記の帰結と同じになりません。

私は、これまでにも二~三の新興宗教や既存の「 宗教 」に加入して脱退を繰り返しました。

私の母は、四十一歳で死亡しましたが、田舎での嫁姑の関係に悩んでか、死ぬ前には或る新興宗教に加入し、私も母に連れられて加入しましたが、その甲斐もなく死に至り、母と共にその宗教から離れました。

生に伴う苦や死というものを教えて頂く仏教僧もおらず、それらを自分の力では解決できないために新興宗教の教えを受けたのでしょう。

田舎にはキリスト教の教会はなく、母はその教えを知りませんが、私は小学生の頃、文部省推薦の「 汚れなき悪戯 」を見たことがあり、その中でのマルセリーノ少年と偶像から抜け出たキリストとの会話に中で、死んだ母親に遭いたいという少年がキリストの偶像の前で亡くなっているのを神父たちが見るラストシーンから、当時の私は、なぜ少年の願望は死によって叶えられるのだろうと、疑問に思ったりもしました。

その後、私の母親が死亡し、葬儀の最中は人が集まってくれたのが嬉しくて、眠ってはならない通夜の晩で、私は、いびきをかいて寝ていたそうです。

その後、母親の遺影の前に座って涙を流していた私でしたが、当時の私は、自分が死ぬ事も知らず、母の死を特別なことと考えていたのは疑いありません。

宗教に加入した甲斐もなく死んでいった母を見て、死や宗教に対しては無関心の私でした。

その後、数多くの人たちの死に巡り合い、自分とは何かを知ってから、死を迎えたいと思うようになり、ブログを始め、現在の考えでは、今まで書きましたように、この世は「 一切皆空 」で、般若心経の世界だろうということです。

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
0
  • 0円
  • ダウンロード

12 / 38

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント