空なる我  下巻

    「 空 」=エネルギー

私は、「 一切皆空 」に従い、この世の一切は「 空 」であり、その「 空 」とは「 エネルギー 」であるとしました。

「 神 」も「 仏 」も「  空 」ですし、前者が宇宙(自然)エネルギーであり、後者は生命エネルギーであるとし、自分も「 空 」としなければならないと思って、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、私の生命だけは保全しました。

これは、「 空 」について「 空っぽ 」や「 実体が無い 」と言いましても、私が見る前には「 実体が有ろうが無かろうが、自分の進路を邪魔するなにかは有る 」のであるから、自分を満足な理屈に落ち着かせるために「 龍樹 」の空についての文庫本を読んでも、素養となる仏教の知識もない私は、空しく響く「 空っぽ 」などの概念で自分を言い聞かせていました。

例えば、今現在、台風に襲われているとき、「 これは空っぽなんだ、実体がないんだ 」と申しましても、目の前に台風の猛威は「 ある 」し、「 これは「 空 」であって、自然のエネルギーの現出(空即是色)なのだ 」と思ったほうが安心します。

ですが、この際、仏教からまったく離れて、似たような内容と思われる考えを、「 色即是空 空即是色 」に当てはめたらどうだろうかという考えになり、ちょうど相対論の本を読んでいて似たような公式の「 E=MC² 」というアインシュタイン氏の考えで、「 色 」をM、「 空 」をEと当てはめて、物質Mの「 色 」はエネルギーEの「 空 」、であり、物質Mを分解しても素粒子の結びつくエネルギーEの差だけであり、その物質に固有の素粒子がないし、エネルギーEの「 空 」は、溶鉱炉の色で内部の熱エネルギーが判断出来たり、外部に現れた仕事の量であるジュールでしか分からないということから判断して、エネルギーは「 現象 」として現れるときに生命を持つ者が認識されると考えました。

前者が「 色即是空 」で、後者が「 空即是色 」と似たような結果になり、「 色 」を「 現象一般 」(現象とは本質が現れたものではなく、何か見えないものが認識可能な事象になったもの)で「 空 」を物質内部に働く「 エネルギー 」として考えてその認識不能なエネルギーが認識可能な物質という「 形 」になったのが「 空即是色 」であり、「 色即是空 」とは違った内容を主張しているのであって、単なる語呂合わせのための単語の並びではないとしました。

    「 現象 」とは

私の場合、「 空 」は「 エネルギー 」ですが、「 色 」を物質と決めてしまわずに、「 現象 」という言葉を使っています。

エネルギーは物体の内部と外部に絶えず「 流れていて 」、外部の条件(縁)次第で同じ素粒子でありながら違った「 形 」になり(例えば、水のように、構成する水素と酸素は同一のまま、氷水蒸気水と形を変えるように)その安定した「 形 」になった時、「 現象 」と呼ばれ、エネルギーの推移によって、「 万物は流転する 」し「 諸物無常 」であり、「 空 」は「 空っぽ 」ではなく、エネルギーが充満していても、常に一定の固定した物質(現象)がなく、エネルギーの推移が形から形の違いで判るから、それを見る私には「 物質変化 」として見ているのだろうと思います。

エネルギーを枠という境界で区切ることが出来ないというのが、「 色即是空 空即是色 」であり、枠が国家や社会や自我というような概念であれば、その枠では捉えられないのが「 我 」であり、それは「 空なる我 」であるからということになります。

「 空 」はエネルギーであるから、エネルギー(空)が現象になっても、「 空 」は新たに生じたり滅したりすることはないし、エネルギーは「 垢つかず浄からず 」、「 増さず減らしたりすることはない 」(=これは、エネルギーは形を変えても消滅しないというエネルギー保存の法則に一致する)と般若心経に書いてあります。

    「 霊体(魂) 」は「 空 」ではなく「 自我 」である

前回の私の持論である「 意識は電磁波の構造を持つ 」では、母親の胎内に宿ることによって、宇宙(自然)エネルギー( ki)と生命エネルギー(気 ki)が区別できない状態で生命エネルギーのDNAに従って身体という「 霊体 」生命エネルギーの現象である「 霊体 」を作りあげ、同じく空間意識や直感を担当する右脳、時間意識や論理、言葉などを担当する左脳を作り(これらは、皆、生命エネルギーの現象)、様々な意識を派生させて、外部で経験した「 印象 」を、論理的に合理的に因果の関係という物語として、海馬に保管して無意識の能力という無意識(これまでの経過はすべて生命エネルギーの現象)にして蓄えて、次の場面に出逢った時の対処法とすると考えています。

しかし、それは、ひとつの現象であって、存在としてはその現象となった「 自我 」を否定して「 空なる我 」に戻るべきであると思っています。

死んで「 中有 」とかいう「 魂 」があって、因果に支配された魂が他の生命体に宿るのではなく、「 阿弥陀仏 」という自然界のフィルターを通して生命体が宿ると考えまして、因果の法則に従って生前の因果が子孫に現れるこは、拒否します。

般若心経で「 五蘊皆空 」というのを、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)の現象である」と考え、「 五蘊 」を生み出すのは「 空(エネルギー) 」であるから、「 空(エネルギー) 」を現象である「 五蘊 」では規定することは出来ないし、「 五蘊 」は「 空(エネルギー) 」からの「 現象 」であるから、それを区別したり限界を考える必要は無くて、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だと知れば、「 空(エネルギー)」である以上は、「 枠 」を作って閉じ込めることは出来ないくらい宇宙に広がるだろうから「 限界 」を考える」必要はないし、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」の現象であるという「 知 」以上得るものは何もない。


「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だということは、「 空(エネルギー)」の現象が「 五蘊 」ということであり、「 老死がある 」とか「 無明をなくそう 」といって特別になくそうとしても、「 五蘊 」を持って「 空(エネルギー)のひとつの現象 」として生きる以上は、「 苦 」や「 無明 」や「 老死 」は尽きることなく、ついて回るし、「 空(エネルギー)」がある限り、「 死んだら、生まれる 」という「 現象 」は、ついて回るものだと思えば、それらを恐怖することもなく、ひとが作った「 顛倒した夢想 」から離れて、悟りの世界である「 涅槃 」をもとめなさいということで、因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべきだと思います。

それはお釈迦様が説く「 縁起縁滅 」に背離しないかが問題で、私は、因果を拒みますので、仏教とは違った「 外道(Gedou)」の考えだろうと思います。

しかし、以下に書きます理由からしても、因果を拒みますので、私は「 救いがたい外道 」といわれても仕方ありません。

    「 空 」はエネルギーと考えると、お釈迦様への否定か?については、第一章で書きました。

   「 真言 」や「 念仏 」の重要性

尚、般若心経の最後に書かれてある「 真言 」のことですが、動画では「 空を知るための呪文 」で「 それに導かれて空を知る 」ことらしいのですが、もう最近とは申せなくなったかも知れませんが、「 超弦理論 」というものがあって、物質を構成するものがひとつぶの粒子というより、微細な「 ひも状の素粒子 」であるとするのが理論上では妥当であると、仮に考えますと、「 弦 」である以上は「 音楽 」に共鳴するでしょうし、「 はじめに言葉ありき 」という有名な言葉がありますが、この真言と呼ばれる呪文の「 音の響き 」こそ宇宙から私たちの身体の隅々まで浸透することが出来て、宇宙で呼応するものかも知れないと思っています。

般若心経の解釈その2

( Ⅱ ) 「 空なる我 」般若心経の解釈その2」

     <因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべき>

「因果の法則は慈悲への道」
私が書きました『「 空なる我 」般若心経の解釈その1』から考えることを書きます。

前回のように解釈すれば、お釈迦様の「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」から離れることになって、お釈迦様の悟りに近づこうとする仏教からは見ると、方向を間違えた考え(外道)のように思われるでしょう。

「 一切皆空 」とか「 般若心経 」しか知らない素人の私ですから、上記の解釈は間違っているのだろうと思います。Web で見ますと、私の考えは中観派に近いと思われ、その中観派以降に出た、唯識の考えのほうが、唯心論である仏教、つまりお釈迦様の考えに従っているので、その方向で考えるべきだと言われるでしょう。

しかし、これまで仏教の教育を受けていない私は、あえてその方向とは違った方向に進路を向けることによって、無学なりにPCの力を借りて、お釈迦様の境地をうかがう事を、ひとつの試みとして書いています。

私の考えでは、お釈迦様は「 因果 」の流れを重視して「 苦 」の発生から消滅までの過程とその実践の方向をお示しになっていて、自分の「 業 」が死後の方向を決めるから、「 善行 」を積んで「 善因善果 悪因悪果 」や「 自業自得 」などという人間が生きている内に為すべきことをしなさいという考えがあるのではないかと思います。

その「 因果 」を考えて死後の輪廻転生を考えておられたのかも知れません。

そのことは、世界中で賞賛され、お釈迦様の死後、大陸方向では唯識を中心とした「 北伝仏教 」、南方の「 南伝仏教 」に広がったのだと思いますが、その頃に「 般若心経 」が編纂されたので、お釈迦様の悟りへの道とは違うのかも知れません。

ですが、お釈迦様はお悟りになって輪廻転生から抜け出るために仏教を説かれたと思うのですが、私が僧侶ならば、その悟りを得た後の行為は、悟った内容を社会に還元するのが、布施を施す民衆の苦しみを抜いて楽にしてあげること、即ち「 慈悲 」の実践につながるべき行為をすることが、その役目だと思います。

 

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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