空なる我  下巻

    「 霊体(魂) 」は「 空 」ではなく「 自我 」である

前回の私の持論である「 意識は電磁波の構造を持つ 」では、母親の胎内に宿ることによって、宇宙(自然)エネルギー( ki)と生命エネルギー(気 ki)が区別できない状態で生命エネルギーのDNAに従って身体という「 霊体 」生命エネルギーの現象である「 霊体 」を作りあげ、同じく空間意識や直感を担当する右脳、時間意識や論理、言葉などを担当する左脳を作り(これらは、皆、生命エネルギーの現象)、様々な意識を派生させて、外部で経験した「 印象 」を、論理的に合理的に因果の関係という物語として、海馬に保管して無意識の能力という無意識(これまでの経過はすべて生命エネルギーの現象)にして蓄えて、次の場面に出逢った時の対処法とすると考えています。

しかし、それは、ひとつの現象であって、存在としてはその現象となった「 自我 」を否定して「 空なる我 」に戻るべきであると思っています。

死んで「 中有 」とかいう「 魂 」があって、因果に支配された魂が他の生命体に宿るのではなく、「 阿弥陀仏 」という自然界のフィルターを通して生命体が宿ると考えまして、因果の法則に従って生前の因果が子孫に現れるこは、拒否します。

般若心経で「 五蘊皆空 」というのを、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)の現象である」と考え、「 五蘊 」を生み出すのは「 空(エネルギー) 」であるから、「 空(エネルギー) 」を現象である「 五蘊 」では規定することは出来ないし、「 五蘊 」は「 空(エネルギー) 」からの「 現象 」であるから、それを区別したり限界を考える必要は無くて、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だと知れば、「 空(エネルギー)」である以上は、「 枠 」を作って閉じ込めることは出来ないくらい宇宙に広がるだろうから「 限界 」を考える」必要はないし、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」の現象であるという「 知 」以上得るものは何もない。


「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だということは、「 空(エネルギー)」の現象が「 五蘊 」ということであり、「 老死がある 」とか「 無明をなくそう 」といって特別になくそうとしても、「 五蘊 」を持って「 空(エネルギー)のひとつの現象 」として生きる以上は、「 苦 」や「 無明 」や「 老死 」は尽きることなく、ついて回るし、「 空(エネルギー)」がある限り、「 死んだら、生まれる 」という「 現象 」は、ついて回るものだと思えば、それらを恐怖することもなく、ひとが作った「 顛倒した夢想 」から離れて、悟りの世界である「 涅槃 」をもとめなさいということで、因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべきだと思います。

それはお釈迦様が説く「 縁起縁滅 」に背離しないかが問題で、私は、因果を拒みますので、仏教とは違った「 外道(Gedou)」の考えだろうと思います。

しかし、以下に書きます理由からしても、因果を拒みますので、私は「 救いがたい外道 」といわれても仕方ありません。

    「 空 」はエネルギーと考えると、お釈迦様への否定か?については、第一章で書きました。

   「 真言 」や「 念仏 」の重要性

尚、般若心経の最後に書かれてある「 真言 」のことですが、動画では「 空を知るための呪文 」で「 それに導かれて空を知る 」ことらしいのですが、もう最近とは申せなくなったかも知れませんが、「 超弦理論 」というものがあって、物質を構成するものがひとつぶの粒子というより、微細な「 ひも状の素粒子 」であるとするのが理論上では妥当であると、仮に考えますと、「 弦 」である以上は「 音楽 」に共鳴するでしょうし、「 はじめに言葉ありき 」という有名な言葉がありますが、この真言と呼ばれる呪文の「 音の響き 」こそ宇宙から私たちの身体の隅々まで浸透することが出来て、宇宙で呼応するものかも知れないと思っています。

般若心経の解釈その2

( Ⅱ ) 「 空なる我 」般若心経の解釈その2」

     <因果の法則も「 空たる現象 」の変遷で、「 一切顛倒夢想涅槃 」で否定して涅槃へ進むべき>

「因果の法則は慈悲への道」
私が書きました『「 空なる我 」般若心経の解釈その1』から考えることを書きます。

前回のように解釈すれば、お釈迦様の「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」から離れることになって、お釈迦様の悟りに近づこうとする仏教からは見ると、方向を間違えた考え(外道)のように思われるでしょう。

「 一切皆空 」とか「 般若心経 」しか知らない素人の私ですから、上記の解釈は間違っているのだろうと思います。Web で見ますと、私の考えは中観派に近いと思われ、その中観派以降に出た、唯識の考えのほうが、唯心論である仏教、つまりお釈迦様の考えに従っているので、その方向で考えるべきだと言われるでしょう。

しかし、これまで仏教の教育を受けていない私は、あえてその方向とは違った方向に進路を向けることによって、無学なりにPCの力を借りて、お釈迦様の境地をうかがう事を、ひとつの試みとして書いています。

私の考えでは、お釈迦様は「 因果 」の流れを重視して「 苦 」の発生から消滅までの過程とその実践の方向をお示しになっていて、自分の「 業 」が死後の方向を決めるから、「 善行 」を積んで「 善因善果 悪因悪果 」や「 自業自得 」などという人間が生きている内に為すべきことをしなさいという考えがあるのではないかと思います。

その「 因果 」を考えて死後の輪廻転生を考えておられたのかも知れません。

そのことは、世界中で賞賛され、お釈迦様の死後、大陸方向では唯識を中心とした「 北伝仏教 」、南方の「 南伝仏教 」に広がったのだと思いますが、その頃に「 般若心経 」が編纂されたので、お釈迦様の悟りへの道とは違うのかも知れません。

ですが、お釈迦様はお悟りになって輪廻転生から抜け出るために仏教を説かれたと思うのですが、私が僧侶ならば、その悟りを得た後の行為は、悟った内容を社会に還元するのが、布施を施す民衆の苦しみを抜いて楽にしてあげること、即ち「 慈悲 」の実践につながるべき行為をすることが、その役目だと思います。

 

    <「 慈悲 」をよりよく実行できるため>

一般大衆に「 慈悲の行為 」を求めるためには、大衆を「 慈悲を施す心構え 」、「 内容が慈悲に溢れた自我 」にしなければ、到底、「 慈悲 」など行うことは出来ないと思います。

お釈迦様の悟りに近づく事も大事ですが、悟った後の行為を実施してこそ、ブッダと言えるのではないでしょうか?

私は、お釈迦様の「 悟り 」へ近づくのは唯識だとしても、「 慈悲の心を抱かせる 」のは、龍樹の言う「 空 」から出発した方が早く、悟った人も、その後に、この「 空 」を体得された方が僧侶の道であると思います。


そういうならば、「 空 」を理解して「 慈悲 」の心が湧いてくるのかが問題で、私は、この事の解明を目指しているのです。

私は仏教の教えを学んでいないので、これから仏教典を読んで理解するなど、私の人生には時間が残されていないので、乏しい仏教の考えとPCに力を借りて、これから私の考えを書きます。

 


私の考え

「 一切皆空 」ですから、この世は「 空 」であることになり、神も仏もあなたも私も、この文章でさえ「 空 」であることになります。

この「 空 」を「 空っぽ 」とか「 無 」とか「 実体がない 」などと考えてしまうと、虚無主義や幻想世界などという、私の考える「 空 」からの帰結とは全く違った帰結になり、私は、到底、これと方向を同じくすることは出来ません。


私は「 空 」は「 エネルギー 」であるとしましたから、上記の帰結と同じになりません。

私は、これまでにも二~三の新興宗教や既存の「 宗教 」に加入して脱退を繰り返しました。

私の母は、四十一歳で死亡しましたが、田舎での嫁姑の関係に悩んでか、死ぬ前には或る新興宗教に加入し、私も母に連れられて加入しましたが、その甲斐もなく死に至り、母と共にその宗教から離れました。

生に伴う苦や死というものを教えて頂く仏教僧もおらず、それらを自分の力では解決できないために新興宗教の教えを受けたのでしょう。

田舎にはキリスト教の教会はなく、母はその教えを知りませんが、私は小学生の頃、文部省推薦の「 汚れなき悪戯 」を見たことがあり、その中でのマルセリーノ少年と偶像から抜け出たキリストとの会話に中で、死んだ母親に遭いたいという少年がキリストの偶像の前で亡くなっているのを神父たちが見るラストシーンから、当時の私は、なぜ少年の願望は死によって叶えられるのだろうと、疑問に思ったりもしました。

その後、私の母親が死亡し、葬儀の最中は人が集まってくれたのが嬉しくて、眠ってはならない通夜の晩で、私は、いびきをかいて寝ていたそうです。

その後、母親の遺影の前に座って涙を流していた私でしたが、当時の私は、自分が死ぬ事も知らず、母の死を特別なことと考えていたのは疑いありません。

宗教に加入した甲斐もなく死んでいった母を見て、死や宗教に対しては無関心の私でした。

その後、数多くの人たちの死に巡り合い、自分とは何かを知ってから、死を迎えたいと思うようになり、ブログを始め、現在の考えでは、今まで書きましたように、この世は「 一切皆空 」で、般若心経の世界だろうということです。

 「 色即是空 空即是色 」とE=MC² の結合から「 無常 」から「 慈悲 」へ

 

アインシュタイン氏の{ E=MC² }を真似て、「 色 」を「 物質(現象)M」、「 空 」を「 エネルギーE 」としてみたところ、「 色即是空 空即是色 」と似たような恰好になりますから、「 空 」を「 エネルギー 」としまして「 一切皆空 」とは「 すべてが空(エネルギー)」で物はエネルギーの現象であり、エネルギーは物を通してしか認識不能という結果になりました。

そう考えますと、一切は同じ素粒子を結合させたエネルギーの違いであり、エネルギーが目に見える現象になったことは、全て生物には同じ事情であると思われ、結合する条件次第では、貴族になったり平民になったりするのであって、エネルギー(神)の前では平等であるからこそ、生きとし生けるものを救ってくださる菩薩の気持ちも分かろうというものです。

お釈迦様の根底には「 因果 」という考えがあり、その考えで、生きる際の「 苦 」の発生原因である「 自我 」を「 無我 」にすることによって「 楽 」になる(=慈悲)と教えられたものだと思いますが、もし「 無我 」が自分の全否定を意味するなら、食物も絶ち息を止め眠ることなく、頭脳の働きを枯渇させながら生きる事であり、それが即身成仏だとしましても、その人に何を期待するのでしょう?

肉体を持たない「 霊魂 」となってこの世で人を導くのが「 悟る 」ことでしょうか?

私は、エネルギーの現象としてこの世に生きる以上は、因果が永遠に続くように無明も永遠に続くのであり、無明を根絶することは出来ず、「 五蘊 」も「 空なる我 」が如何なる煩悩をまとっているのかが現象となっている「 形 」であると思います。

まず、自分がエネルギーのひとつの現象であり、それは相手の生物も同様であると知り、エネルギー(神)の前では平等だと知ることにより、動物愛護や相手の苦を抜いて楽にしようという「 慈悲 」の心が生まれるのではないかと期待するのです。

これまでの私は、慈悲なんてお金持ちが貧者に金銭を与えることだろうなんて思い、慈悲の気持ちは全くありませんでした。

ころが、東日本大震災において、親や子などの親戚を無くし財産も自然災害に奪われて、茫然自失になっている人たちには金銭も助かるだろうが、「 無常 」の教えで、自分にはまだ希望が残っていると励ますことが、金銭にも劣らない生きる勇気を与えたことになったと考えますと、「 心が心を励ます 」ことも立派な「 慈悲 」であると思います。

「 無常 」は、日本仏教に共通した考えで、苦があれば楽もあると考えることも可能であると思います。

「 善因善果、悪因悪果 」という言葉が当てはまるケースが多いとは思いますが、現在の絶望的な状況が更に絶望を生むという結果にはならないでしょうし、「 慈悲 」という善行を為したから、必ずしも極楽に行くとは限りません。

ですが、その「 慈悲 」を為した出来事は、当人の心に宿るでしょうし、少なくとも安らかな死を迎えるだろうということは想定できると思います。

自己の幸福を求めることは、自然なことですが、自然災害に見舞われた被害者宅の留守を狙って金銭を強奪し、一時は幸福感を味わったとしても、それは人を犠牲にして、人を更なる不幸に追い込んで得られた幸福です。

先ほどの、「 慈悲 」の行為は、自分が苦しんでいる人を助けたという幸福は、被害者もその「 慈悲 」の言葉によって幸福感を味わえたのであって、自分を犠牲にすることなく、他人を利する行為をしたことになり、高僧が悟った末に放った「 忘我利他 」と同じ行為をしたことになると思われます。

江戸や明治の時代、「 滅私奉公 」といって、自分を犠牲にして主君を守るという考えは「 無我 」を「 無私 」として自分の存在を滅することが間違いで、「 無私 」ではなく「 無心 」といったふうに、自分の我欲を極端にまで押し殺すけど、自分の生命だけは確保するように忠誠を尽くすことであり、自分が死ぬまで自分を愛する気持ちは忘れるべきではないと思います。

このように、自分も他人、あるいは他の動物と同じく「 空 」なのだという自覚があれば、容易に相手の「 心や気持ち 」に同調することが出来、他人に力(エネルギー)を与えて励ますことも可能だろうし、「 自分と同じように隣人を愛せ 」という命題も実現できるのではないかと思います。

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作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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