空なる我  下巻

 「 色即是空 空即是色 」とE=MC² の結合から「 無常 」から「 慈悲 」へ

 

アインシュタイン氏の{ E=MC² }を真似て、「 色 」を「 物質(現象)M」、「 空 」を「 エネルギーE 」としてみたところ、「 色即是空 空即是色 」と似たような恰好になりますから、「 空 」を「 エネルギー 」としまして「 一切皆空 」とは「 すべてが空(エネルギー)」で物はエネルギーの現象であり、エネルギーは物を通してしか認識不能という結果になりました。

そう考えますと、一切は同じ素粒子を結合させたエネルギーの違いであり、エネルギーが目に見える現象になったことは、全て生物には同じ事情であると思われ、結合する条件次第では、貴族になったり平民になったりするのであって、エネルギー(神)の前では平等であるからこそ、生きとし生けるものを救ってくださる菩薩の気持ちも分かろうというものです。

お釈迦様の根底には「 因果 」という考えがあり、その考えで、生きる際の「 苦 」の発生原因である「 自我 」を「 無我 」にすることによって「 楽 」になる(=慈悲)と教えられたものだと思いますが、もし「 無我 」が自分の全否定を意味するなら、食物も絶ち息を止め眠ることなく、頭脳の働きを枯渇させながら生きる事であり、それが即身成仏だとしましても、その人に何を期待するのでしょう?

肉体を持たない「 霊魂 」となってこの世で人を導くのが「 悟る 」ことでしょうか?

私は、エネルギーの現象としてこの世に生きる以上は、因果が永遠に続くように無明も永遠に続くのであり、無明を根絶することは出来ず、「 五蘊 」も「 空なる我 」が如何なる煩悩をまとっているのかが現象となっている「 形 」であると思います。

まず、自分がエネルギーのひとつの現象であり、それは相手の生物も同様であると知り、エネルギー(神)の前では平等だと知ることにより、動物愛護や相手の苦を抜いて楽にしようという「 慈悲 」の心が生まれるのではないかと期待するのです。

これまでの私は、慈悲なんてお金持ちが貧者に金銭を与えることだろうなんて思い、慈悲の気持ちは全くありませんでした。

ころが、東日本大震災において、親や子などの親戚を無くし財産も自然災害に奪われて、茫然自失になっている人たちには金銭も助かるだろうが、「 無常 」の教えで、自分にはまだ希望が残っていると励ますことが、金銭にも劣らない生きる勇気を与えたことになったと考えますと、「 心が心を励ます 」ことも立派な「 慈悲 」であると思います。

「 無常 」は、日本仏教に共通した考えで、苦があれば楽もあると考えることも可能であると思います。

「 善因善果、悪因悪果 」という言葉が当てはまるケースが多いとは思いますが、現在の絶望的な状況が更に絶望を生むという結果にはならないでしょうし、「 慈悲 」という善行を為したから、必ずしも極楽に行くとは限りません。

ですが、その「 慈悲 」を為した出来事は、当人の心に宿るでしょうし、少なくとも安らかな死を迎えるだろうということは想定できると思います。

自己の幸福を求めることは、自然なことですが、自然災害に見舞われた被害者宅の留守を狙って金銭を強奪し、一時は幸福感を味わったとしても、それは人を犠牲にして、人を更なる不幸に追い込んで得られた幸福です。

先ほどの、「 慈悲 」の行為は、自分が苦しんでいる人を助けたという幸福は、被害者もその「 慈悲 」の言葉によって幸福感を味わえたのであって、自分を犠牲にすることなく、他人を利する行為をしたことになり、高僧が悟った末に放った「 忘我利他 」と同じ行為をしたことになると思われます。

江戸や明治の時代、「 滅私奉公 」といって、自分を犠牲にして主君を守るという考えは「 無我 」を「 無私 」として自分の存在を滅することが間違いで、「 無私 」ではなく「 無心 」といったふうに、自分の我欲を極端にまで押し殺すけど、自分の生命だけは確保するように忠誠を尽くすことであり、自分が死ぬまで自分を愛する気持ちは忘れるべきではないと思います。

このように、自分も他人、あるいは他の動物と同じく「 空 」なのだという自覚があれば、容易に相手の「 心や気持ち 」に同調することが出来、他人に力(エネルギー)を与えて励ますことも可能だろうし、「 自分と同じように隣人を愛せ 」という命題も実現できるのではないかと思います。

般若心経の解釈 (不と無の独自解釈)

( Ⅲ ) 「 空なる我 」般若心経の解釈  「 不 」と「 無 」の独自解釈

 

     *「 不 」は思想(=意識)の否定

「 否定 」を現す「 不 」は、「 エネルギー 」である「 空 」の「 生滅 」や「 垢れの有無 」や「 増減 」などの否定に使われていますが、これは「 エネルギー保存の原則 」が存在する事を指しているのであり、宇宙の法則を、当時に既に知られていたということだと思います。

「 般若心経の解釈その1 」は、ユーチュブでの解説に、「 空 」はエネルギーであることで焼き直したもので、オリジナルとは言えないでしょうが、この「 無 」の独自解釈は、今までの誰も書き表した事がないもので、奇妙な考えですので賛同は期待していません。

<私の独自解釈>


般若心経を読んでいますと、「 不増不減 」までは「 不 」が使われていて、「 滅しない」「 垢れない 」「 浄からず 」「 増さず 」「 減らず 」など「 不 」が使われ、その後は、「 空(エネルギー)の中には 」、「 無色無受想行識 」「 無眼耳鼻舌身意 」「 無色無声?香味触法 」………と「 無 」が使われています。

私は、前者の「 不 」は「 そうではない 」という否定の意味に使われていると解釈しますが、後者の「 無 」も同じように、否定の意味に解釈すべきかを問題にします。

 

**「 無 」は「 現象 」が発生していないこと

「 無 」は、主に「 五蘊 」が無い事であり、それから生じる生老病死も無いのですが、その「 無い 」というのは、お釈迦様の言われた「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」を否定するのではなく、生老病死の「 苦 」やそれからの「 悟り 」は、未だ「 発生していない 」、まだ「 五蘊 」が「 空 」によって作られていないのだから、「 五蘊 」から生じる思想その他すべてが「 無 」であり発生していないという事だと思うのです。

<「 無我 」とは   (仏の教義)  「 無 」とは「 現象 」が発生していないエネルギーの状態で、「 私 」が発生していない心から接近した状態=「 空 」に通じる>

<否定せずに、「 発生する前 」とすることによって、意識を考えないようにする。「 空 」は意識を生み、意識を超えた存在だから>

私は、以前、「 無 」と「 無限 」や「 ゼロ 」のことを書きましたが、この後者の「 無 」を「 空(エネルギー)の中では発生していない 」、「 空(エネルギー)の現象としてそれらの五蘊が生じる(無から有となる)のであって、空(エネルギー)をそのように規定することは出来ない 」というのではないかと思うのです。

以前、私の持論で「 意識は電磁波の構造を持つ 」でかきましたように、(神仏)エネルギーであるDNAで決まられた頭脳の回路を巡って活性化するのは気(ki)というエネルギーであり、その過程で「 意識 」が派生すると考えますと、「 五蘊 」である五感という機能やそれによって得られるものすべては、「完全な均衡」である「 無 」を乱してそれらを「 有 」とするのが「 空(エネルギー・神 )」は動物が持つ生命維持に応じるように「 空(エネルギー)」を働かせるのであって、人間はそれを、「 五蘊 」に区別しているにすぎないと考え、「 五蘊 」のための「 空(エネルギー)」があるのではないと言っていると解釈するのです。

そんなことは、空(エネルギー)にとっては迷惑なことであり、その空(エネルギー)が働いた結果の人間を、超能力を持った人であるというのは、人間の勝手であり、そんな超能力を持つ人の再来を待つ事など、迷惑極まりないと空(エネルギー)はおもうでしょう。

 

「 ゼロ 」の観念を生んだとき、その「 ゼロ 」である「 無 」は「 無限 」であり、空(エネルギー)の中には、「 五蘊 」として現象する機能は、「 数えきれないほど 」有るともいえるし、まだ発生していないから「 無 」であって、「 五蘊 」を超越するエネルギーを与える事も可能なのだという意味に解釈するのです。

その実益

人間の機能をすべて空(エネルギー)が現象として現れたものとすることによって、他の動物の機能も空(エネルギー)が現象として、この世に現れたものとしては、同質とすることは、人間を他の動物に生まれ変わらせることが出来るから、人間から他の動物へと、他の動物から人間へと、相互に転生することを可能にする。

こうして、頭脳を持つ、あるいは持たない、精神を持つ、あるいは持たないを区別することなく(=それは全て空(エネルギー)、多種の動物間の中に転生することが、生命の主である「 阿弥陀仏 」には可能とすると解釈する余地を残したのだろうと考えることが出来て、人間が死んだら、同じ種類の人間に生まれ変わることを意味するものではない。

言い換えますと、「 阿弥陀仏 」の前では、生命を持っている点で平等であり、国や民族や、あるいは人種が違おうが同じであろうが、「 生きている 」ことには変わりがなく、人間の相違はまったく生まれ変わりの宿命のもとには等価であり、どのような生物に生まれ変わるかは、「 阿弥陀仏の意図 」に従うことになって、もはや生まれ変わりもせず、あるいは生まれ変わったとしても、この平和な世界に生まれることも何も保障されず、阿弥陀仏の考えに従うことになると思います。

つまり、死後に転生するとしても、同種の動物に転生することを保障するものでなく、阿弥陀仏の導きの「 空(kuu)」の現象として現れるままに、精神を持たない下等動物にも生まれ変わることもあることを、言外に示しているとも思われます。


② 「 空なる我 」般若心経の解釈  「 有 」=「 現象 」の独自解釈

私は、私立のマルクス主義を是とする法学部卒ですので、仏教や数学や物理には疎いのですが、成り行きで書くしかないと思っています。

私は、「 無 」と「 有 」を何も難しく考えずに、「 無 」とは「 無限 」と同じく「 数えられない事 」を特徴として、そもそも「 有でない 」から数えられないのなのか、「 有が多数の為 」に数えられないのかの違いで、前者が「 無 」という概念で後者は「 無限 」という概念で現していると考えまして、「 有 」とは、難しく考えずに「 数えられるもの 」であると考えました。

「 無 」から「 有 」が生じる事は、ヒッグス粒子のように本来は対消滅して滅すべき粒子が何かの間違いで他の粒子と結合して「 消滅しなくなった 」状態を「 有 」と考えます。

「 無 」という「 数えられない世界 」は微小な粒子が物凄いエネルギーで無秩序に飛び交い対消滅するために、人間には見えず「 数えられない 」が、「 消滅しない状態 」になったとき、「 秩序ある状態 」として人間が数えられる状態になり、それを「 有 」としたと考えます。

ですから、数学はわかりませんが、「 1 」と「 2 」のあいだには「 無 」という状態があり、「 1 」と数えられる状態の中身のエネルギーは絶えず変化していて、厳密にはそのままの状態を保っておらず、同じ状態の連続と思うものはないのに、「 数えられる状態 」の「 形 」は変わらないために連続しているように人間の眼には見えても、ずらりと並んだ数は「 見える物だけを集めた集合 」であるかも知れません。

その「 見える物 」、「 数えられる物 」を私は「 現象 」と呼んでいます。

その「 現象 」というものは、「 本質 」と比較するような言葉遊びではなく、見えない物(無)が見える物(有)になったことを私の場合は意味しています。

私の「 無 」というのは否定の意味ではなく、「 有(数えられる)の状態に成っていない 」「 まだ発生していない 」ことを意味します。

それに対して否定する意味が「 不 」であると考えまして、「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」というように「 物=エネルギー 」に対する考えが間違っていることを示し、般若心経の中では「 不生不滅、不垢不浄、不増不減 」と使われている所を拝見しますと、まさしく「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」という「 エネルギー保存 」を指していると思われまして、これは驚くべきことだと思います。

このように、否定ばかりしている般若心経と思われがちですが、「 無 」が意味するのは「 不 」のような否定ではなく、お釈迦様が考えになった「 十二支縁起 」や「 四諦八正道 」を否定するのではなく、「 空(エネルギー)の中では発生していない 」ということで、それが「 是故空中 」では「 無 」(=つまり発生していない)であると書いているのだと思います。

ですから、「 般若心経 」はお釈迦様の考えを完全否定するものではなく、お釈迦様の考えが発生する根本には「 空(エネルギー)」があるのだと主張するのであって、お釈迦様の考えの中で悟りを探る唯識では「 空(エネルギー)」を見ることに到達することが出来ないから、思考による悟りではなく、「 一切皆空 」と素直に考えて、それを考えることは「 悟り 」であるから、それに続く「 慈悲 」を行うのが僧侶の存在意味ではないかと思います。

以上の考えで、「 色相是空 空即是色 」は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }で現され、Eを「 空(エネルギー) 」と置き換え、Mを「 物質(=現象)」と置き換えて考えるものです。

 

ただ、現代の物理学を眺めていますと、相対論の他に量子論もあり、「 般若波羅蜜 」といえるべき「 智慧 」をすでに得ているかどうかは疑わしく、その智慧を追求することは東洋や西洋に関わらず、これからも続けられるべきではないかと思います。

「 一切皆空 」ということは、この私のブログの言葉も、私の「 空なる我 」に煩悩が混じった「 自我 」の現れですから、これを否定して自らの智慧を得られるべきだということは、疑う余地もありません。


kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
0
  • 0円
  • ダウンロード

16 / 38

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント